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『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』  作者: 久遠かける
第1章 観測者の立つ場所

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名前の重さ

ここまでお読み頂きありがとうございます。


朝は、昨日よりも静かだった。


鳥は鳴き、遠くで人の声もする。

それでも、それらは互いに結びつかず、宙に浮いたまま留まっている。


世界が、呼吸を止めているようだった。


恒一は、宿の玄関先で足を止める。


《監視対象》


管理者が残した分類が、頭の奥に残響している。

直接の干渉はない。

だが、世界そのものが、こちらを意識している。


「……ねえ」


背後から、澪の声。


振り返ると、彼女はいつもと同じ場所に立っていた。

白い髪。

細い肩。

確かにそこにいるはずの輪郭。


だが、どこか“置かれている”感じがする。


「何か、変だよね」


「変だな」


恒一は即答した。


「昨日までとは、違う」


澪は、少しだけ眉をひそめる。


「はっきり言うんだ」


「隠す意味がない」


二人は並んで歩き出す。


街は、いつも通りの朝を装っている。

店は開き、人は行き交う。

だが、視線の抜け方が違った。


昨日までは、澪はただ“見えなかった”。

今日は、“引っかかってから外れる”。


すれ違った女が、一瞬だけ澪の方を見て、何もない場所を見るように視線を逸らした。


「……今の人」


澪が小さく言う。


「私を、見ようとした」


「認識する直前で、弾かれた」


「近づいてる?」


「そうだな」


恒一は否定しなかった。


「世界が、澪を扱いきれなくなってきてる」


澪は、自分の手を見る。

指を開き、閉じる。


「私、前より“ここ”にいる感じがする」


「存在が、濃くなってる」


「それって……いいこと?」


恒一は、少しだけ間を置いた。


「管理者にとっては、違う」


澪は、それ以上聞かなかった。


人通りの少ない路地に入る。

情報の少ない場所の方が、誤差は広がりにくい。


しばらく無言で歩いた後、澪が足を止めた。


「ねえ、恒一」


「なんだ」


「私さ」


言葉を選ぶように、少し間を取る。


「自分の名前を、考えると」


胸元に、そっと指を置く。


「前より、遠い」


恒一の内側で、警戒が鋭く立ち上がる。


――来たか。


名前は、存在をこの世界に結び留めるための、最も細く、強い糸だ。

そこに違和感が生じるのは、削除よりも前の段階。


「昨日までは、呼ばれたらすぐ分かった」


澪は続ける。


「“ああ、私だ”って」


「でも今は」


視線が、少し揺れる。


「一瞬だけ、考える」


恒一は、すぐには答えなかった。


肯定も、否定も、確定につながる。


「名前は、まだある」


それだけを言う。


澪は、ほっとしたように息を吐いた。


「よかった」


だが、すぐに不安が戻る。


「……ねえ」


「私の名前って、どういう字?」


空気が、わずかに歪んだ。


恒一は、答えられなかった。


知っている。

だが、言葉にした瞬間、

“澪”という存在を、文字として世界に押し付けてしまう。


それは、観測ではない。

確定だ。


「今は、言えない」


澪は驚いたように目を瞬かせる。


「どうして?」


「そこが、境目だからだ」


「境目?」


「越えると、戻れない」


澪は、しばらく黙った後、静かに言った。


「……私、消えかけてる?」


「違う」


恒一は、すぐに言った。


「消えるかどうかを、測られてる」


「測る……?」


「世界が、澪をどこまで許容できるか」


澪は、小さく笑った。


「私、そんなに邪魔?」


「邪魔じゃない」


「でも、余分」


否定できなかった。


路地の奥に底冷えした空気が吹き込む。


音が、吸い取られる。


管理者の“視線”が、はっきりとそこにあった。


声はない。

だが、意味だけが、空間に滲む。


《監視継続》


澪が、肩をすくめる。


「……今、いるよね」


「いる」


「見てる?」


「見てはいない」


恒一は答える。


「確認してるだけだ」


《例外の安定度、低下》


《自己同一性の揺らぎを確認》


恒一は、無意識に澪の前に半歩出た。


「名前には、触れるな」


空間に向けて、静かに言う。


「そこは、まだ観測の内側だ」


《記録》


《観測者の介入傾向、上昇》


《役割逸脱の可能性》


澪が、恒一を見る。


「……私のせい?」


「違う」


はっきりと。


「俺の、選択だ」


《観測者》


《役割の再考を推奨》


「拒否する」


《非推奨》


「知ってる」


圧が、少しだけ引いた。


完全には去らない。

だが、一歩、距離を取った。


澪が、ぽつりと言う。


「ねえ、恒一」


「なんだ」


「もし、私の名前がなくなったら」


恒一は、少し考えてから答えた。


「呼ぶ」


「何て?」


「分かる形で」


澪は、苦笑した。


「ずるい」


「観測者だからな」


「……忘れないでね」


「何を」


「私が、私だったってこと」


恒一は、頷いた。


言葉にはしない。

言葉にすれば、固定される。


世界は、静かに進んでいる。


名前という重りを、少しずつ削りながら。

例外が、どこまで耐えられるかを確かめながら。


そして観測者は、はっきりと理解し始めていた。


――これは、澪だけの問題じゃない。

――観測という行為そのものが、試されている。


次に失われるのは、名前か。

それとも、役割か。


あるいは、その両方か。


答えは、まだ――

呼ばれていない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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