欠落した世界
『名前を失う前に、世界が壊れ始めた』
第1話
最初にあったのは、音だった。
低く、遠く、耳鳴りにも似た振動。
何かが軋み、崩れ落ちる直前にだけ生まれる、意味を持たないはずの、不快な残響。
次に、重さを思い出す。
自分の身体が、どこかに横たわっているという感覚。だが、地面の硬さも、空気の温度も分からない。
ただ「存在している」という事実だけが、輪郭を持たずにそこにあった。
――俺は、死んだはずだ――
その認識だけが、不自然なほど鮮明だった。
理由は思い出せない。過程も結果も欠け落ちている。ただ、そこに至るまでの記憶が――欠落している。
――名前は――
問いが浮かび、しばらく遅れて答えが追いつく。
――くが…こ…う…いち――
久我恒一だ。
その名を思い出した瞬間、自分という存在が辛うじて形を保った気がした。
名前だけが、世界に縫い留めるための最後の糸のように、確かにここにある。
「……ここは、どこだ」
声は、ひどく遠くに聞こえた。
返事はない。代わりに、違和感だけが周囲を満たしていることに気づく。
空はある。地平もある。
だが、世界が“続いて”いない。
雲は流れず、影は動かない。風の音だけが、存在しないものの真似をして耳に触れる。
時間という概念が、途中で切断されたような感覚だった。
――この世界には、何かが欠けている――
理解というより、受け入れに近い感覚だった。
説明はできないが、否定する余地もない。
《観測対象、意識の定着を確認》
突然、声が響いた。
男でも女でもない、感情を含まない音。
「……誰だ」
《君の質問に、直接答える必要はない》
淡々とした応答。
それだけで、この声が自分と同じ場所に立っていないことが分かる。
《現在の状況のみを通知する》
「状況……?」
《君が元いた世界において、君は機能を終えている》
回りくどい言い方だったが、それが意味するところは自明であった。
「……やっぱり、死んでるんだな」
《定義上は》
肯定でも否定でもない。
事実を、事実として読み上げているだけの口調。
「じゃあ、ここは……」
《別の系に属する世界だ》
異世界、という言葉が脳裏をかすめたが、口にはしなかった。
今は、便利な単語に縋るべきじゃない気がした。
《本来、この世界には外部からの明確な役割を担う介入が予定されていた》
声は続く。
あくまで淡々と、報告するように。
《だが、その役割は現在、果たされていない》
「……それは」
一拍、言葉を選ぶ。
「最初から、存在しなかったのか?」
《存在していた》
短い否定。
《結果として、いない》
胸の奥が、静かに冷えた。
世界が壊れ始めている理由と、無関係ではないのだと嫌でも理解させられた。
「じゃあ……どうなる」
《予測は複数存在する》
《だが、確定した未来はまだない》
その言い方が、逆に不安を煽る。
「俺に…何をしろと?」
問いは自然に出た。
この世界に放り込まれた理由があるのなら、それを知りたかった。
《君に特別な役割は与えられていない》
先回りするように、声は告げる。
《観測と適応。それが、今の君に許可されている行動だ》
許可、という言葉が妙に引っかかった。
《この先にある街へ向かえ》
《そこで、人として振る舞え》
それだけだった。
使命でも救済でもない。ただの指示。
次の瞬間、世界が裏返る。
足元に確かな感触が戻り、重力が正しい向きを思い出す。
気がつけば、舗装されていない街道の上に立っていた。
遠く、建物の影が見える。人の営みがあるはずの場所。
久我恒一は、まだ何も知らない。
ただ、すでにこの世界は維持に必要な「何か」を失っていることだけは、理解していた。
そして、自分がその内部に放り込まれたという事実も。
ただ言われるがまま、街へ向かって、歩き出す。
世界が壊れる音を、背後に残したまま。
読んでいただきありがとうございます。
作者の処女作で稚作ですが、何卒ご容赦を。
次話から、人と世界の「普通」が見えてきます。
1日1話ペース目標で投稿していく予定です。




