7「横濱の花屋」
「天殿。こちらが昼の花屋です」
幽世の遊郭の扉から一歩進めば、そこは現世だった。
イツ禍が硝子戸を引くと、ひんやりと澄んだ空気が流れ込んでくる。冷たい空気は扉一枚隔てた幽世と現世をすうと流れ、仄かな海の香りだけを残していった。
朝の光を受けた店内は淡く揺らめく薄金の光に包まれている。棚には季節外れの撫子や菫、異国の香りを放つ薔薇、など、他の店では見たこともない種類の花々が咲き誇っていた。
「……なんや、綺麗すぎて花屋に見えへん」
「店主の猗がハイカラ好きなんです」
イツ禍は淡い微笑を浮かべ、パンパンと手を叩いて何者かを呼び出す。
「猗、天殿がいらっしゃいました」
表の花屋を手伝いたい。そんな天の我儘を受け入れてくれたのは猗と呼ばれる猫又だった。
「初めまして天サン! 華屋の会計係の猗と申します!」
はきはきとした明るい声と共に、一人の男が現れる。
「猗は猫又の妖です。といっても、現世では人の姿をしておりますが」
「人化けか……退魔師時代に苦労させられたわ」
「猗は人を襲ったりしませんよお」
猫又には本来猫の耳とゆらりゆらりと揺れるふたつの尾があるのだが、今は人化けをしてその姿を隠している。それでも人ならざる者の雰囲気は隠しきれず、まだらな三毛の髪色はまるで三毛猫そのものだった。雄の三毛なんて縁起がええね、と天はふっと心の中で嗤う。
「表の花屋では店主をしております。と言っても、あなたが初めての従業員だから、ひとり店主の状態だったんですけどねえ」
猗は明るい男だった。
禁もからからと笑う快活な男だが、猗には人懐こさを感じさせるものがある。甘いほほえみと軽い口で懐に入られると、思わず天も笑みがこぼれる。
「よろしゅうお願いいたします」
「はい! では店の掃除から始めましょうかあ」
猗は箒を手渡して表の扉を開ける。
からからと音を立てて硝子戸が開けられると、まだ早朝だというのに活気づいた外の喧騒が聞こえてくる。行き交う人々の声は日本語だけではなく、見知らぬ国の言語も交じっている。車の音、鳥のなく声、潮騒……朝がこんなにも生命を感じさせる時間だったとは。
「あ、でも私は極道モンに追われとるから、表には出ない方が……」
「はは。この店をよく見てください」
言われるがまま外に出ると、一斉に人の視線が向けられる。「開店したのかい?」と尋ねる老婆に、「もうすぐですよお」と猗が明るく返事をしていた。
この花屋はとにかく人目を引くハイカラな建物だった。洋館の面影を残した木造二階建て。港町らしく、どこか異国の香りが漂う佇まい。
正面には大きく張り出した硝子張りのショーウィンドウ。珍しい湾曲ガラスを贅沢に使った造りで、外から見える色とりどりの花が道ゆく人の足を止めさせる。
「花屋【ひととせ】は大繁盛中。そんな店にカチコミなんてしたら、すぐに飛んできますよお」
「人の目があるから大丈夫っちゅうことか……? 極道モンはそんなん気にせえへんよ」
「人の目じゃないですよ」
すっと猗が指さす先には【ひととせ】の看板。しかし目を凝らすと木の看板にはうっすらと目の形の刻印がされており、赤く輝いている。
「……鬼の目、か」
「旦那様が常時見張ってます。大切な店もあなたがたも、決して危ない目には合わせません」
なるほど、鬼の庇護のもとならば多少は安心できる。天は静かに頷くと、言われたとおりに箒で表を掃除した。
「いらっしゃいませ!」
いつの間に開店したのか、店にはわらわらと人が入ってきている。
「猗さん、旦那の墓に備える花が欲しくてねえ」
「トミちゃん。毎月律儀ですねえ。今月はこんなのはどうです?」
客は猗を見るなり彼の元に集う。どうも客から人気があるようで、猗さん、猗ちゃん、と彼を呼ぶ声が方々から聞こえてきた。
「白百合と薄桃のカーネーション、添え物にユーカリの葉です」
「ユーカリ? 初めて見るねえ」
「最近輸入品として人気なんですよ。白百合は尊敬、薄桃のカーネーションは愛情、ユーカリは誠実を現しています」
「流行りの花言葉ってやつかい。やっぱりここはハイカラだね」
「はい。トミちゃんの一途で優しい思いが、幽世の旦那様につたわりますように」
猗の接客は確かに心地よい。明るく花を包んだかと思ったら、説明するときは穏やかにゆっくりと教えてくれる。そしてその花を選んだ理由を説明するときは、心のこもった暖かい口調に変わる。
「猗さん、恋人に贈る花を探していて――」
「猗ちゃん! 部屋に花を飾って元気を出したいの――」
次から次へと現れる猗への客を、猗は丁寧に対応していく。かなりの待ち時間になってしまうが、それにイラつく様子のある客はいなかった。
「大したものだろう、猗は」
室内の掃除をしていると、禁が得意げに話しかけてくる。禁もまた人化けをしており、大きな角も鋭い牙と爪もない。だがそれでも、豊かな黒髪と深紅の瞳は浮世離れした雰囲気を醸し出していた。
「人とのつながりを得るために、妖の身で現世で生計を立てている」
「なんでまた花屋なん。妖は人に怖がられてなんぼやろ。癒してどないするん」
「癒し、か。お主もそう思ってくれるか」
しまった、心の声が――。天は慌てて口をふさぐが、禁にはすべて聞かれていた。妖の行う花屋に癒しを感じてくれたのかとしつこく問うてくる禁を軽くはたいてあしらう。禁はからからと笑って、花瓶から一枝の桃の花を取り出した。
「我らには人の心がわからぬ。だが花の美しさはわかる。我も花を通して、人と繋がりたい」
そう言いながら禁は桃の花を天の帯に添える。美しい、と笑う禁の声と共に桃の甘い匂いが仄かに香った。
「うむ。美しい」
(桃の花の花言葉は……確か「私はあなたのとりこ」やったか……アホらし。鬼がそんなん知るわけあらへん)
それは伊達男の口説き文句ではなく、鬼にあるはずのない心からの言葉。その気持ちが伝わって、天は目を伏せて「ありがとう」と静かに礼を言った。
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