48「百合:無垢」
夜の華屋の湯殿は、灯りを落とせばひっそりと静けさに包まれる。
湯気の立ち上る大きな桶のそばで、天は服を脱ぎ、振り返って奥様に声をかけた。
「奥様も、こっち来て」
奥様は小さく首を横に振ったまま、その場から動こうとしなかった。着物の紐を握りしめる手に力がこもっている。
「……いいわ。私は、入らない」
「なんで?」
湯気の中で、天は声を和らげて尋ねる。
奥様は返事をせず、ゆっくりと天に背を向けた。
「……もう若くはないの。肌もくすんで、たるんで……昔みたいには、いかないわ」
それは、強がりではなく、真実だった。
奥様はかつて、極道の男の正妻として、着物を誰よりも美しく着こなし、男たちの目を惹きつけた。
だが今は、女としての旬を過ぎ、肌の張りも色つやも落ちたと自覚している。
鏡を見れば、首元に刻まれた薄い皺や、張りのなくなった胸元が否応なく目に入る。
そして隣に立つ天は――若く、艶やかで、ふれても壊れそうなほど繊細な美しさをまとっていた。
「あなたみたいな、そんな……きらめいた肌じゃないのよ。私はもう、醜いの」
その背中に、天はそっと近づいて、何も言わずに手を取った。
冷たくなった奥様の指先を、あたためるように握りしめる。
「醜いなんて、誰が決めたん」
「鏡がよ。女はな、若さがすべてなの。女である限り、それは逃れられない」
「せやろか?」
天は静かにそう言って、奥様の手を引いた。
「ほな、いっぺん――自分で、見てみよ」
湯殿の奥。そこには大きな銅鏡が備え付けられていた。
曇りがちなその鏡を、天は手ぬぐいで軽く拭い、奥様の前に立たせた。
「……いや」
着物を脱ぐ手が震えている。
「恥ずかしいわ。ほんまに、こんな体……誰にも見せたくない」
「見せるんやない。自分で、見てみて」
天はやさしく、でも確かな手つきで奥様の浴衣の紐に手をかけ、ゆっくりと解いた。
湯気の中で、白い肌が少しずつ露わになる。
奥様は目を閉じ、唇を噛む。鏡を見るのが怖い。
だが――天は何も言わず、奥様の背後から、そっとその体を抱きしめた。
「……冷たい体やなあ。お湯、ちゃんとあたたまろ」
その声に背中が緩んで、奥様はそっと目を開いた。
鏡の中には、自分の裸の上半身と、その背にぴたりと寄り添う天の姿が映っていた。
「見てごらん」
天は、奥様の肩に顔を寄せながら、鏡越しに語りかける。
「このうなじ……白くて、つやがあって、めっちゃ綺麗や」
天の唇が、そっと奥様のうなじにふれた。
ふうっと吐かれるあたたかい息に、奥様の肩が震える。
肌の上を流れていくようなその感触が、くすぐったく、どこか懐かしい。
「この鎖骨、よう動いて……生きとるなあって、伝わってくる」
天の手が奥様の胸元に触れる。愛撫ではない、慈しむような触れ方なのに、奥様は身じろぎした。
「胸元の肌、柔らかくて、女の人だけが持っとる、あたたかさや」
鏡越しに聞こえる天の言葉は、決してお世辞ではなかった。
若さのようなぎらぎらとした派手さではない。
でも確かにそこにある「歳月を重ねた女の美しさ」が、そこにある。
「……そんなふうに、言ってくれる人……いなかったわ」
奥様の声はかすれていた。
何年も――いいえ、もしかすると若い頃でさえ、誰かにそう言われた記憶はなかったのかもしれない。
抱かれることはあっても、愛された実感はなかった。
女としての誇りを奪われたまま、時を過ごしてきた。
「アンタが嫌いなのは、私やなくてアンタ自身なんとちゃう?」
天の言葉が、胸の奥に染み渡る。
恥ずかしくて隠したくなった体が、今は不思議と、怖くなかった。
「あなたが憎いわ。あなたの若さが、美しさが……でも、それ以上に……」
「私もアンタが憎かったで。アンタの地位が、品が。そして――」
ふたりの声が重なる。
「誉に愛されていることが」
奥様は、鏡に映る自分の姿をもう一度見つめた。
「でもな、ぜんぶまやかしや。この湯気と同じ、しばらくしたらふわっとなくなってまう」
「……そうね」
「どうかもう、心を自由にしてあげてください」
天が言った。
奥様は、小さく頷いた。
ふたりは、手をつないだまま湯へと足を踏み入れる。
立ち上る湯気の中で、体も、心も、少しずつほどけていった。
◇ ◇ ◇
「帰るわ」
身も心も温まったのち、奥様はぽつりとそう言った。
「あら、一緒に朝日を見てはくれへんの?」
「冗談じゃない、あなたなんかと」
天が揶揄うように答えるが、奥様の生霊はすうと色が薄まっている。
恨みつらみが解消されるとともに、彼女自身も消えてしまうのだ。
「今度は昼に会いましょ。ミルクホールででも」
「……それも、いいかもね」
すう、と奥様が消える。
この約束を、奥様本体が知ることはないだろう。
だが今度声をかけてみよう、天はそう思った。
誉に取り付かれていた女たち。その鎖を解き放った今なら、友人になれるのかもしれない、と。
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