43「お遊び」
天が消えた。
声を出す暇もなく山王丸に呑み込まれた天は、その腹を裂いても出てこなかった。
「おお、怖い怖い」
山王丸は腹を裂かれても呑気な声だった。鬼の爪で引き裂かれた腹から血は出ず、そこはまるで大きな湖のように澄んだ水で満ちていた。
「……だいだらぼっちめ」
だいだらぼっちは神聖な妖だ。それゆえに力も強大。
殺してやるつもりでかっ捌いた腹は傷にすらならず、湯に腕をつけたかのようなぬるい感触に禁は舌打ちした。
「天に何かしてみろ。貴様を殺してやる――」
「おいおい。妖と人の共存を目指すのに、同族で殺しあってどうすんだい」
「黙れ!」
怒る禁を、山王丸はからからと笑っていなす。
「これはただの余興さ。あんたらの覚悟を知りたいだけだ」
山王丸は「ご覧よ」と言って妖術で水鏡を作ると、禁にその中をのぞかせた。
薄暗い横濱の街に天がいる。寒空の中、薄いドレスで放り出された天。禁は寒そうな顔を見ているとどうしようもなく心がうずく。今すぐ駆け寄って温めてあげたいと、そう心が逸る。
「現世に飛ばしたな!」
「いいじゃねえか。現世にはあの女の居場所がある」
「今、ひととせに人はおらん。すぐに迎えに行かねば」
「あんたらの場所じゃねえさ」
「どういうことだ――」
【天チャン】
禁が口を開こうとした時、聞き慣れない男の声が水鏡から響いてきた。
甘く、低く、ねっとりと絡みつくような声。男の禁でも聞き惚れてしまうような声が、天の名を呼んでいた。
「……まさか」
「天の恋人、誉だ。あのかわいい桃の親でもあるな」
「……天を、あの男の元に戻そうというのか……!」
禁の心がきつく締め付けられる。行かせたくない。でも、天が選ぶのならば止めたくもない。
天には幸せになってほしい。それだけが禁の望みだった。
「行かせぬ」
だが、今は禁にも意思がある。
行かせたくない、その気持ちを天に伝えたい。その上で判断してほしい。
養ってやるなどと傲慢なことは言わない。天に側で支えてほしいし、天を側で支えたいのだ。その思いを伝える前に、誉に奪われるわけにはいかなかった。
「おう、修羅場かい!?」
「やかましい! 我は天の元へ行くぞ。貴様の戯れなど知るものか」
「あはは。今のアンタが行ったら、そりゃあ天もアンタを選ぶだろうよ」
山王丸は笑いながら、大きな指で禁の胸元をとん、と突く。
「上級妖の鬼の殿様。男前で金持ちで、あの女の生計まで整えてやれる懐の深さがある」
「ふ。ふん。褒めても何も出ぬぞ」
禁は単純だった。というより、これまで悪意にさらされたことがなかった。
皮肉たっぷりな山王丸のおためごかしに、悪い気はしないと恥じらう。当然、山王丸はただ褒めたわけではない。
「だからよくない」
面白くない禁の反応に、山王丸はあきれた顔だった。
ぽりぽりと頭をかきながら、禁にもわかるように再度説き伏せる。
「これは余興だ。アンタは俺を楽しませる義務がある」
「何が言いたい! とっとと放せ」
「強い女と強い男は、そりゃあなんでも決められるさ。だがそんな奴らの覚悟なんざあ、俺は聞きたくない。弱い女と弱い男が覚悟決めるから、尊いのさ」
そう言いながら山王丸は禁の胸で印を結ぶ。禁が何かを言う前に、激しい熱が彼を襲った。
「ぐああっ!」
体が燃える、灰になる、赤に染まる。突然の苦しみに禁はその場にうずくまる。
「何を……した……」
「アンタを人間にした。弱者になって猶、同じことが言えるのかを俺に見せてくれよ」
息も絶え絶えに問いかけると、山王丸から驚愕の事実が明かされる。
あわてて頭を撫すればそこにあった雄々しい角はなくなり、長い爪は短く切りそろえられている。牙は消え、美しい歯が人の子と同じように並んでいる。
「人間のアンタは現世に何の伝手もない。金もない。力も大きく劣っちまう。まあ、顔は変わらず美人さんだがね」
気づけば山王丸も人の姿に戻っている。
少し息が荒いことからして、山王丸もかなりの呪力を使って禁の体を変えたらしい。禁は安堵した。この様子ではせいぜい一晩程度の呪い。山王丸の言う通り、お遊びだ。
「伊達男が息を切らしてまですることか」
「それでも天に選ばれたら、アンタは本物だ。物語を見せてくれよ。鬼の殿様」
遊び好きの山王丸に呆れながら、禁はしぶしぶ頷いた。山王丸を満足させると天と誓ったのだ、これくらいの遊びは付き合ってやるしかない。
「天は損得で人を選んだりせぬ」
「女の天はそうかもな。だが母の天はどうだろう? 女は現実を見る。子連れの女は外れのくじを引いて笑ったりはしねえかもな」
「…………」
いじわるな質問を重ねて、山王丸はにかっと笑う。
「見せてくれよ。アンタが選ばれる側になってもなお、天の心を――本当に取り戻せるのか?」
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