34「喧嘩」
磯撫では消え、海座頭の澪玄も去った。
嵐は収まり、船も安定している。人々の混乱も徐々に静まり、船の中の悲鳴も収まってきた。
ああ、よかったよかった――というわけにはいかなかった。
「殺させてくれ!」
「あほか! 妖の存続の話はどこいった!?」
去っていく澪玄を追いかけ殺そうとする禁を、天はふらふらの体で抑え込んでいた。
「あれは人を襲った妖だ、許してやる必要などない!」
「澪玄は私の客や、殺させへん!」
「天、天!!」
禁は駄々っ子のように天の名を呼ぶと、力強く抱きしめた。それは男女の仲のそれではなく、子が母を求めるような、縋り付くような抱擁だった。
「今度こそ死んだのかと思った!」
「それは私も……」
そう言いかけた時、天の頬を冷たい何かが伝う。
涙だ。
禁が、鬼が、泣いている。
「もう、客など取るな」
「何を言うとんの……」
「お前は何もかもを受け入れてしまう、いつか身を滅ぼしてしまう! 妖などどうでもいい。お前を失うくらいなら、種の存続などどうでもいい!」
「あのな、それが私の仕事なんや」
「働くな! 我と共にいよう。そうだ、結婚しよう。我が養ってやる。何もかもを与えてやる。だから――」
ぱん、と乾いた音があたりに響いた。
「結局、アンタも私のことなんか認めてへんかったんやね」
天が静かに涙を流しながら、禁の頬を叩いたのだ。
「私は、この仕事に誇りを持ってる。私にしかできないことやと、誰かのためになることやと、生きる手立てだと、そう教えてくれた鬼がおったから」
「それは……」
「でも、その鬼にとってはただのお遊びやったんや。結婚をちらつかせれば簡単にやめてしまうような、腰掛の仕事やと」
「天。我はそんなつもりじゃ」
「結局アンタも、私が男のいいなりの女やと思っとったんやな」
父に売られた身で、極道の愛人をしていた身で、何を言うのかと自分でも笑ってしまう。それでもそんな自分を変えられると思っていたのに、禁もやはり、天を愛玩する生き物だと思っていたようで哀しくなった。
「いや、そこまでは言ってないだろう……!」
「言ったと同じや!」
「口に出したこと以外まで汲み取るな! 我はお主が心配なだけで!」
「ああ、うるさいうるさい! もう知らん!」
「こら! 言い逃げはずるいぞ!」
「知らん、逃げる! 今日はもう顔見せんといて!」
「今日だけだな!? 明日はいいんだな!?」
ヒステリックな気分になっていると、禁も言い返してくる。
禁の言いたいこともわかっている。彼は従業員でしかなかった天に情がわいて、心配してくれているのだ。
それでも湧き出る思いが止められなくて、感情のままにそっぽを向くと、ぽふ、と暖かいものに鼻が当たった。
山王丸は、にやにやと二人の口喧嘩を面白そうに眺めていた。
だが、天がぷいと背を向けてその場から離れようとした瞬間、目の色が変わった。
「――こら、逃がすかよ」
素早く手を伸ばし、天の手首をぐいと引き寄せる。
驚いた天が振り返る間もなく、山王丸はその細い身体を自分の胸元に抱き寄せた。
「っ、な、なにす――」
抗議の声を上げる暇すら与えず、山王丸は強引に天の唇を奪った。
冬の夜風の中で交わされた口づけは熱を帯び、天の呼吸をさらっていく。
ぐいと背中に回された腕の力は、優しさとは程遠い。だがそこには、嘘偽りのない情がこもっていた。
唇を離すと、山王丸は声を低くして言った。
「……アンタに惚れちまったよ」
その言葉は、からかいでも気まぐれでもなかった。
本気の声で、まっすぐに告げられた恋の告白だった。
「アンタ遊女なんだって? よし、今夜は俺がアンタを買うぜ」
「なっ、駄目に決まっておるだろう!」
「おうおう、旦那様は怖いねえ。じゃ、やめとくかい?」
突然の来店予約に天も禁も驚くが、山王丸が「また禁の言いなりかい」と挑発すると天はむっとして答えた。
「大旦那様が決めることちゃうもんな。ええで、いらっしゃい」
「我が決めることだろう! 駄目だ!」
「ほな、華屋へ行きましょか。入り口は花屋【ひととせ】の裏口にございます」
「天、我の話を聞け!」
天は禁の言葉を無視して、山王丸の手を引いて【ひととせ】に向かう。
山王丸の持っている車まで戻ると、山王丸のお付きの人間が車のドアを開けて中に誘ってくれる。
禁は悔しそうにしていたが、強引に連れ戻すこともできず、歯噛みして去っていく天たちの車を見送った。
「アンタがどんな夜をくれるのか、楽しみにしてるぜ」
車の中で、山王丸が熱く甘くささやいた。
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