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明治あやかし遊郭~ジンガイ・セツクス・エデユケエシヨン~  作者: 百合川八千花


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31「磯撫で」

 船が大きく揺れた。

 まるで巨大な何者かが船を玩具にして弄んでいるかのように、左右にぐらぐらと傾き、飾り物の花瓶や時計が床に叩きつけられる。

 あたりでは食器が割れる音、女の悲鳴、それをなだめようとする男たちの狼狽える声が聞こえる。

 天は混乱を極めるレストランを駆け抜け、甲板へ向かった。

 

「行ってらっしゃい」


 山王丸はその背を見ながら、ゆったりと葡萄酒に口をつけた。


 ***


 凍てつく海風が肌を刺す。着なれないドレスと靴で何度も転びそうになりながら、天は甲板にたどり着いた。

 

「きゃあああ! モンスターよ!」


 天が妖の居場所を探す必要もなく、甲板にいた異人のカップルが悲鳴を上げて場所を教えてくれる。

 彼女たちが指し示す先には、鯨かと見まごうほどの巨大な魚の尾が船を撫でるように現れ、尾びれについた棘で獲物をひっかけようとしていた。


「「磯撫(いそなで)」か……!」


 磯撫でとは風が吹くと現れる怪魚だ。尾びれに大量の棘をつけ、撫でるように船に触れ、人をひっかけて海底に攫ってしまう。

 現に今も、巨大な尾は船を大きく揺らしながら異人のカップルを引きずり込もうと船を撫でているところだった。


「待て!」


 天は磯撫での前に立ちはだかる。武器はカトラリーの銀のナイフしかないが、追い払うことくらいはできるだろう。


 「退いてっ!」


 天は異人のカップルを突き飛ばすように庇う。

 次の瞬間、棘が風を裂いて振り下ろされ――天はドレスの裾を切り裂きながら飛びのいた。


 銀のナイフを抜き取る。退魔の念を込めれば、一太刀くらいなら通る。


「破ぁっ!」


 ナイフが月光を受けて煌めく。霊力をまとった刃が一閃、振り下ろされる尾の棘を刈り取る。

 ギィ、と鈍い音で磯撫でが鳴き、海の底へ帰っていく。

 

「なんや、あっけない……」


 あまりにあっさりとした引き際に天は拍子抜けする。

 【怖がらせて、人に存在を知らしめればいいんだ】、山王丸はそう言っていた。人を食うことが目的ではなく、ただ怖がらせるだけのつもりだったのだろうか。

 

(怪魚の磯撫でが、そんな小賢しいこと考えるかね……)

 

 どこか不自然な動きに違和感を感じた瞬間。

 再び船体が大きく揺れた。


「きゃああっ!!!」 

 

 逃がしてやったはずのカップルの道を阻むように、磯撫でが現れる。しかし、天の後ろにももう一体。

 そう、船体の左右を囲んで”二体”現れたのだ。

 磯撫でが群れを成すなどありえない。北風と共に現れる磯撫でが船体を撫でる中、嵐が吹き荒れて船はこれまでにないほど大きく揺れる。

 

(どういうことや! 何が起きてる……!?)


 船から飛ばされないよう必死に柵にしがみつくものの、二体の巨大な怪魚とそれがもたらす風に翻弄される船は今にもひっくり返ってしまいそうだ。

 ナイフ一本では一体を追い払うのが精一杯。ああ、刀を持ってくるんだった。天は後悔した。

 相手が妖だとわかっていたのに、退魔の刀を帯刀しないままのこのこと海まで来てしまった。


 【人を喰い、堕とし、誑かす……妖と人の道は、決して交わらぬ。】


 母の言葉を思い出す。

 心のどこかで、自分は妖の味方だと思い上がっていたのかもしれない。妖は妖、人を襲い、時に食らう化け物でしかないのに。


「いやああ!」

「ジェーン!」


 近くで男女の悲鳴が聞こえる。磯撫での尾が逃げ損ねたカップルの女を捕らえたのだ。男が必死に女を守ろうとするが、磯撫での棘は女のドレスに絡みつき、今にも海に引きずり込まんとしている。

 武器は銀のナイフが一つだけ、どこまで立ち向かえるかもわからない中で彼女を守るために突撃すれば、天もろとも全員死んでしまうかもしれない。そうすれば、船内の人々を守れない。

 ここは様子見が正しい。

 磯撫で二体が出現するなどあり得ない。どこかで操っている者がいるはずなのだ。それは山王丸かもしれないし、ほかの妖かもしれない。そいつを倒さなければ状況は改善しない。

 

「助けて! 誰か、助けてー!」

  

【我ら「退魔師」は、そんな妖を殲滅するために戦う、心持つ刃である――】


 ――だが、母はこうも言っていた。

 心がなければ退魔師は務まらない。想いを乗せて刃をふるう、それが退魔師の誇りなのだから。

 

「やめろっ!」


 天はナイフ一本を持って磯撫でに突撃する。破邪の念を込めて銀色に輝くナイフは、磯撫での尾を引き裂いた。

 女を磯撫でから引き剥がすと、男のほうへ投げてよこす。男はどうにか恋人を支えるが、天は磯撫での棘に服を引っ掛けられて船体に戻ることはできなかった。


「くっ!」

 

 カップルからは月光に煌く天の白い背中が見える。牡丹と髑髏、恐ろしいはずの極道者の印が、今のカップルには神の啓示にすら見えた。


「お嬢さん!」 

「ああっ、神よ! どうか彼女を助けて!」


 よく見れば、彼らは天が山王丸といた時に陰口を叩いていた二人ではないか。それが今は天の命が助かることを願っている。


(掌返しの早い、助け甲斐のある奴らやで……)


 助けられてよかった。天は静かに微笑んだ。


(桃、イツ禍さん、猗さん、犲さん……)


 銀のナイフはどこかに落ちてしまい、磯撫では天を逃がすまいと棘が腕を刺して絡みついてくる。

 もう逃げられない。天は大切な人たちの顔を思い浮かべてぎゅっと目をつぶった。

 

(禁さん。堪忍な……)


 海が近づいている。

 冬の凍てつく海にたたきつけられようとしたその瞬間、聞きなれた声がした。

 

「天!」


 それは天が思い浮かべた男性。


「禁さん!」


 心を温かくしてくれる、天を救ってくれる人だった。

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