28「まやかし」
「やあお嬢さん。久しぶりだね」
夕刻、仕事帰りや夜の準備で繁盛する花屋に見知った顔が現れた。
「あら、噂をすれば」
ひげを蓄えた洋装の紳士は、妖の「手の目」に襲われていた少女の父親だ。病床の彼女のためにと椿の花を売り、香袋を贈ったことが、ぽぷり作りのきっかけだった。
そんな噂の渦中の紳士は、先日来た時の焦っていた表情とは打って変わって明るい顔をしている。
「お嬢さん、元気になりましたか?」
「それが途端によくなったんだ。見違えるようだ。いやあ、よかったよかった」
「よかったですわあ。心配してましたん」
彼の娘は「手の目」の手塚に目を付けられ、体をじわじわと蝕まれていた。そのため破邪の念を込めた椿と香袋を売ったのだ。
おそらく手塚はそのころにはすでに別の女性に鞍替えしていたので、天の売った花に効果があったのかはわからない。なんにせよ、手塚が彼女から離れたことで衰弱することもなく、元の健康な体を取り戻したのだろう。
「でも、椿は黒くならなかったな。少し期待していたんだが、君の売り文句にまんまと騙されてしまった。まやかしだね、あははは!」
「あはは……」
紳士は豪快に笑う。やはり天の想像通り、手塚は彼の娘から早々に手を引いて彼の前には現れなかったようだ。
妖の到来を知らせる椿の変色が起こることはなかったが、紳士はそのことは気にしていないらしい。
したり顔で妖の到来を予言した挙句、何も起こらなかった天は少し恥ずかしいが、娘の回復を喜ぶ紳士の笑顔に癒された。
この仕事をしてよかったと、心から思った。
【天チャン】
やりがいを見つけたとき、ぞわりと脳内で声がする。
低く響く甘い声。忘れもしない、かつて愛した男・誉の声だ。
【極道の玩具が。傷物の遊女が。表の世界に行けると思てるんか?】
それが誉の声だと認識した途端、とめどなく頭の中で声がこだまする。耳をふさぎたくてもできない。
唸るように響く自分を責める声に天はぎゅっと目を瞑った。
【戻っておいで】
それは甘く昏い、呪いの言葉。
そして天が、最も欲しい言葉だった。
「今日は快気祝いの花が欲しくてね」
脳に響く声に苦しんでいると、客の言葉に我に返る。
目を開けば幸せそうに微笑む紳士が花を見繕っていて、天は一気に我に返った。
この空間が、客の笑顔が、天を暗闇から救い出してくれる。
「そう、ですね。おめでたいことですから、花を贈ってお祝いせなあきまへんね」
「何か見繕ってくれないかい。あ、鉢植えはなしで頼むね」
「ふふ。せやったらスイートピーなんてどうでしょう――」
天は苦しみを悟られぬよう、明るい声で取り繕う。幸い紳士は花を見ていたので、天の変化は気取られていない。
ほっと胸をなでおろすと、天は可憐に咲くスイートピーに手を伸ばした。
***
「ありがとうございました」
「ありがとう。また来るよ」
紳士は十分程度の立ち寄りであったが、彼を見送るころには外は黄昏時に沈んでいた。
夕と夜の境目が曖昧な時間、妖の出やすい頃である。とはいっても、もうこの時代にそんな迷信を信じる者は少ない。
日が沈む気配がすると、人々も移動を始める。花屋が忙しい時間ももう終わり。そろそろ閉店だ。
「まだやってるかい?」
天が店の片づけをしようとしていると、外から声をかけられる。外に飾った花のせいで、硝子戸の向こうの客は影しか見えない。
だが影が長く、男の声は上のほうから響く。かなり長身の男性、もしかしたら外国人かもしれない。
「ええ。まだやっておりますよ」
「そりゃあよかった」
外国語など話せないが、猗は喋れるのだろうか。そんなことを気にしている間にも、外の男との会話は続く。
どういうわけか彼は、天の承諾がなければ花屋の扉を開けようとしなかった。
「じゃあ、入っていいかい?」
「もちろん。お入りください」
丁寧すぎる男だなと思いつつ、天は客を招き入れた。内側から扉を開けると、カランカランとベルが鳴った。
【ああ。よかった】
招き入れるべきではなかった。
そう天が後悔したのは扉を開けてすぐだった。
【やっと開いた】
殺気。ひやりとのど元に刃を突き付けられたような感覚がする。命を狙われている。
だがそんなことよりも天を震わせたのは、招き入れた男そのものだった。
扉を開けた先にいたのは、黒い羽織に赤い着物の男。少し長い黒髪を後ろになでつけ、猫のようにいじわるそうに笑う。
「誉……」
天のかつての愛人、誉。
真っ赤に咲いていた椿が、じわりと黒く染まった。
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