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明治あやかし遊郭~ジンガイ・セツクス・エデユケエシヨン~  作者: 百合川八千花


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19「垢嘗め」

「拙者は垢嘗めの稚菜(わかな)

「垢嘗めの癖に大層な一人称やこと」

 

 垢嘗めとは――湯屋に住み着き、人の垢や垢じみた床を舐めて回る妖怪。

 古びた風呂場の湿気と穢れを好み、姿を見せるのは稀だが、確かにそこにいるという。

 その名に反して、本性は穢れを嫌う潔癖症。清らかなものを好むが故に、この世の穢れをひどく憎む。


「お前は生娘ではないな……嘆かわしい、穢い、穢い」


 ――それがたとえ、愛の証の行為であろうとも。

 

「おうおうおう。言うてくれるやんか垢嘗めはん」


 しかし妖力はあまりなく、人に危害を加えることも稀である――非常に不愉快な物言いはするが――、歴戦の退魔師の天とは戦闘にもならず、肘鉄一発で動けなくなった垢嘗めは風呂場にぷかりと浮かんだまま恨み言を呟いていた。

  

「こら垢嘗め! 我の天を突然舐めてはいかん!」

「鬼のお手付きか……人の身でありながらなんと穢い、穢い」

 

 ここは銭湯。全員が裸でぎゃあぎゃあと喚く様は滑稽だが、それを咎める客は他にはいない。耳の遠くなった、老いた番頭には何も聞こえていないようで、銭湯の中の大騒ぎを止めるものはもうどこにもいない。


「女の身でありながら混浴など。体を開かすのを期待しておったのだろう。このあばずれめ」

「何を言う! 少し前まで皆混浴だっただろうが!」

「時代遅れの鬼め。時は進んでいるのだ」

「文明的な妖やこと」


 垢嘗めの不愉快な罵詈は、それ以上の言葉を浴びせられてきた天には効かない。天を傷つけたい一心の言葉ではなく、潔癖症ゆえの御小言だ。まるで近所のおせっかいなおばあのような言葉に、天の怒りはだんだんと冷めていく。


「昨今の女は穢れすぎている……!」

「時は進んどるんやろ。女が清いほどええなんて時代ももう終わるで」

「それだけはありえない!」


 だんだんと阿呆らしくなってきた天は、湯冷めしそうな体を湯船に付けて温める。ほう、と色っぽい息が漏れてしまうと、その声にすら垢嘗めは「ああはしたない」と大仰にため息をついた。


「女は清らかでなければならない……穢れを知らぬ蕾こそ嗜好の花よ……」

「ええい! そんな考えでは子は成せぬぞ」

「ああ、穢い穢い! 破廉恥鬼の言葉は汚すぎる!」

「なにが破廉恥だ! 大切なことだ!」

 

 元気やなあ。天はもはや他人事のように禁と稚菜の喧嘩を見ていた。話の中心は自分ではあるが、垢嘗めの思想は天にとってはどうでもいいものだ。人や妖になんと言われようと、天の心は変えられない。


「天は綺麗だ!」

「いいや穢い! 生娘以外はすべて穢い!」

「性を知って何が悪い!」

「穢れを背負っている!」

「やいのやいの!」

「やいのやいのやいの!」


 収拾のつかない喧嘩をよそに、天は湯の中で体を揉む。猗は気を使ってくれるが、それでも花屋は重労働。肩や腰の凝りをほぐすように体を揉んでいくと、天はあることに気づいた。


「傷が……」


 天の足には傷があった。それは昔、退魔師をやっていた時に受けた傷。天の勲章でもあったのだが、雪のように肌を裂くようについた傷は痛ましく、誉もよく「勿体ない」と言っていたものだ。

 それが、今は影も形もない。真っ白な肌は汚される前の初雪のようにまっさらだった。


「妖の傷は穢れだ。穢い、穢い」

「垢嘗めは穢れを清める。怪我の跡も清めたのだろう」


 呆然としていると、いつの間にか口喧嘩をやめていた禁と稚菜が一斉にこちらを向く。裸の体をじろりと見られて、天は柄にもなく恥じらって湯の中に身を隠した。


「もっと舐めさせろ。貴様の破瓜の穢れも元に戻してやる」

「な、破瓜までやり直せるんか……」


 なんて遊郭向きな妖だ。この能力を知ったら欲しがる男女はいるかもしれない。


(たとえば、誉とか――)


 脳内でまた誉の顔が思い浮かぶ。天の初めてを奪ったとき、誉はたいそう喜んでいた。

 天はぶるぶると頭を振って、縁の切れた男を忘れようとするが、そう思えば思うほど脳内で色濃く誉の顔が浮かんでくる。声も、匂いも、肌の感覚まで思い出す。彼を好きだったその心まで。


「うわあああ!!」

「どうした、天!?」

「やかましいぞ、穢れた女め」

 

 自分の未練が嫌になる。大きな声で叫びながら湯に潜ると、叫びはぼこぼこと泡になって浮かんでいく。

 処女を散らすことを穢れというのなら、天を穢したのは間違いなく誉だ。彼は天の体のいたるところに大きな傷跡を残し、そして言葉を交わすこともなく別れてしまった。

 だが、それと同じくらい温かい気持ちと、桃という子を天にも与えてくれた。その思いが穢れというのなら、この世に清いものなどあるのだろうか。

 わからない。わからなくてお湯の中から出られない。湯の中で息が苦しくなるまで悩んで、天はあることに気が付いた。


(そうや。あの垢嘗めに判断させたらええ)


 ざぶん。また大きな音を立てて天は湯から顔を出す。生まれたままの姿で男たちの前に仁王立ちになると、珍しいことに禁が恥じらうように目を閉じた。


「垢嘗め! アンタに機会をくれてやる!」

「稚菜だ! 何の機会だ、穢れた――」

「天や」


 それ以上は言わせない。穢れた女と稚菜が言う前に、天は自分の名を名乗る。


「アンタは性を穢れと思うとる」

「当たり前だ! 散らした花に美などあるものか!」

「でも、散った花は一度は綺麗に咲いた花や」


 天は湯から出ると、稚菜の髪をつかんで顔を近づける。極道もののようなその態度に、稚菜がひっと悲鳴を上げた。

  

「私も答えはわからん。せやから何が穢れなんか、この夜に確かめようやないか」

「それは……つまり……」


 禁が恥じらいながら入浴着を羽織らせてくれる。湯冷めしたからだが少し温まり、天の心に力が沸いた。

  

「今晩、幽世の華屋にいらしゃんせ」


 そして、天は力強い言葉で新たな客を取ったのだった。

お読みいただきありがとうございます!

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