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明治あやかし遊郭~ジンガイ・セツクス・エデユケエシヨン~  作者: 百合川八千花


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10「横濱デェト」

「おお、ここが横濱か! 大きくなったものだのう!」


 お遣いは横濱の外国人居留地の近くだった。花の配達先の指名は和洋両方。ここに住む外国人と、日本人の大富豪と言ったところだろう。


(居留地に住める大富豪が客なんて、猗はんは大したもんやなあ)


 日本の中で最も地価が高い超ハイカラ地域で暮らせる、超のつく富豪が住むような地域。

 天も横浜に住んで長いが、この地域に足を踏み入れるのは初めてだった。

 

 白い洋館ではカーテンがふわりと踊る。着物姿のウエイトレスが給仕する喫茶店からはバターと珈琲の香りが漂う。道行く子供たちは日本人でも英語で語り合っている。 

 和と洋が静かに溶け合う坂の多い道を、天は禁と並んで歩いていた。


「我がいた頃はまだ村だった」

「いつの話やねん。私が知る限りはずっとこんなもんやったで」

「はは、そんな遠くはない。せいぜい50年ほど前かのう。黒い船が来て、我らは忘れられてしまったのだ」


 悲しい過去をこともなげに話しながら、禁は下駄を鳴らして坂道を楽しそうに歩いている。お遣いの大きな花束も鬼の禁には苦ではないようで、軽々と持ち上げていた。花束をいっぱいに抱えた鬼――そんなものを見る日が来るとは。退魔師だった頃にはあり得ない光景に、天は目を細めた。

 

「まずは、喫茶店だな!」


 禁の元気な声と共に坂を上る。

 産後の体に急坂はきつい。冬だというのに額にじわりと汗をかきながら歩いていると、煉瓦張りの壁に蔦がからむ小さな喫茶店が現れた。

 

「ごめんください」 


 扉を開けるとカランカランと真鍮のベルがなる。こげ茶色の柱に深緑の壁紙を基調とした穏やかな空間に、薔薇の柄の硝子窓から冬の陽射しが差し込んで紅色を差していた。


「いらっしゃいま――あら、花屋さん?」

「はい。【ひととせ】の者です」

「新しい従業員さんね。はじめまして」

  

 女給の顔がぱっと華やぐ。どうやら猗の店はこの街でも評判らしい。

 天が籠を差し出すと、白いカスミソウと薄桃色のスイートピーがふわりと香りを放った。柔らかで甘いその匂いに誘われて、禁が天の肩越しにすっと覗き込む。


「良い匂いだな。それでいて食事の香りを邪魔しない」

「猗さんはそこまで考えてくれるから、いつも助かるわ」

「内装も綺麗だ。まるで異国の様だな」

 

 禁はまるで初めて見る世界のように、棚に並ぶ珈琲豆の瓶や、銀色の泡立て器に目を輝かせている。女中はくすりと笑うと、「よければ少しお休みしていかれる?」と


「猗さんが来た時には、サービスしてしているのよ」


 どうやら猗はちゃっかりと喫茶店のサービスを受けているらしい。

 ふたり並んで細長い木のカウンターに腰を下ろすと、店中に広がる珈琲の深い香り深く漂う。


「素敵な二人にはデェトっぽいものにしようかしら。お兄さんは珈琲で、お嬢さんはイチゴミルク」


 明るい女中の言葉と共に、カウンター席の目の前に二つの飲み物がそっと置かれた。

 禁の前には、黒い深皿のようなカップ。立ちのぼる香りは鋭く、そしてほろ苦い。縁に小さな銀匙が添えられており、砂糖壺を覗けば白い角砂糖がころんと光っている。


「砂糖入れたほうが飲みやすいかもしれんね」


 なんとなく、禁は苦いものが苦手な印象だったのでそう口添えする。禁は興味深げに砂糖壺を眺めていたが、それが砂糖だとはわからないらしい。きょとんと小首をかしげているので、天が代わりに砂糖をひと匙とかしてやる。熱い液面がとぷりと揺れて、湯気にわずかな甘さが混じった。


 天の前には、白い小さなグラスが置かれている。

 淡い桃色の液体がとろりと満ちており、砕いた苺の粒が底に沈んでいる。

 かき混ぜるたびに、ミルクの白と苺の赤がゆっくりと溶け合って、ふわ、と甘い香りが立った。吸い口の縁には薄く霜がつき、ひと口飲めば、ひんやりと舌に広がる甘さが胸の奥まで落ちていく。


「……お、美味しい」

 

 天が思わず言うと、禁は苦い顔で己のカップを睨みつける。


「苦いぞ……」

「やっぱり。苦いの苦手やったね。うちの苺ミルクと交換しよか?」

「よいのか!?」

 

 天の勘は当たった。禁は誰よりも大柄な男だが、根は子供の様に純粋な男だ。珈琲の苦みの良さなどまだわからないだろう。


(……それがどうして、性を知りたいなんて思うんかね)


 苺ミルクに口をつけながら、うまいうまいとはしゃぐ禁の姿は子供の様だった。それが人間との性を知らねばならぬほど、妖は追い詰められているのだろう。ほろ苦い思いを感じながら、天も珈琲に口をつける。


「あら可愛い。間接キスというやつですね」

「なっ……!!」


 天の舌に苦い珈琲が通る前に女中の揶揄うような声が聞こえて、慌てて口を離す。あまり意識をしていなかったのですっかり忘れていた……そうだ、この行為はそういうことになってしまう。


「そんなんちゃいます。私は――」 

「間接きすとはなんだ?」

「キスしたみたいに見えるものでねぇ、お嬢さんの口の跡をそのまま追いかけるでしょう?」

「ほう……なんとも奇妙な風習だ」

「うふふ。真面目な方」

 

 だが、禁の方は全く意識していない。というより、知りもしないようだ。


(……誉とも縁が切れたし、いちいち操立てする必要なんてあらへんか)


 いったい誰の目を気にしていたのだろう……天はいまだに自分を支配する者の影にイラついて、ごくりと音を立てて珈琲を飲み干した。珈琲の苦さが喉を通り、天のモヤモヤした思考を晴らしてくれた。

お読みいただきありがとうございます!

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