禁を破る
僕がバイトへ行っている間に桂が夕食を作ってくれた。だが慣れない包丁を使っている時に桂は指を切ってしまったようだ。
活動休止中とはいえ現役アイドルに怪我をさせるなんて……僕が責任を感じていると桂は「そういうの関係無いから」という謎の言葉を発した。
関係無いって……どういう意味だ? 何に対して関係が無いんだ?
※※※※※※※
風呂から上がって晩酌しながらテレビを見て談笑して……桂との同居生活も三日が経ち、つい先日まで分刻みのスケジュールで仕事をこなしてきた国民的アイドルの彼女にとって、家から一歩も出られない生活はさぞかし退屈な日々だろう。
「なぁ桂」
「何?」
「昼間って……何してるの?」
しばしの沈黙の後、桂は
「……エッチな事してないわよ」
「いや、それは社会常識的に想定していないから」
「うーん、メンバーとニャインで連絡取っていたりゲームしたり……かな?」
「退屈じゃない?」
「まぁね、でもこれから年末でしょ? 紅白(歌合戦)を辞退しちゃったのが一番イタイんだけど……」
そうか、紅白か……。
桂こと相模絵美菜が所属するカントリバースは昨年、一昨年と二年連続で紅白歌合戦に出場している。名実ともにトップアイドルの彼女たち……当然今年の紅白も出場は間違い無しなのだが、今回の様なトラブルに見舞われたら辞退もやむを得ないだろう……って、ちょっと待って!
「おいおいっ! 辞退じゃなくて今年は落選してるじゃん!」
「あーそうだったっけー? 忘れてたー」
桂は完全にすっとぼけている。よく考えたら今回の騒動が起こる前に出場歌手は発表されていた……が、カントリバースはまさかの落選だったのだ。
理由はハッキリしていないが、ファンの間では元リーダー・荒川夢乃の自殺未遂というスキャンダルが原因……というのが大方の予想だ。もしその後起こった相模絵美菜に関する偽情報(実際は本当だが)が原因の一つならば大変申し訳ない。
「ま、年明けのニューイヤーライブが中止になったのはメンバーも残念がっていたけどね」
そういえば……今年の紅白は落選するのを予想済みで、代わりにアリーナライブが予定されていた。だがそれもチケット発売前に突然の中止決定……今から考えれば、この時から所属事務所の経営危機が具体化していた訳だ。
「ねぇ、メンバーもって言ってたけど、やっぱ桂も残念だったでしょ?」
当たり前の答えしか返って来ないのを承知で、僕は桂に聞いてみた。ところが、
「う、うん……まぁそ、そうだね……うん」
あれ? 何か予想していた反応と違う。桂はアイドル活動が出来ない今の状況を気にしていないのか?
※※※※※※※
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
明日は講師の仕事がある、早めに寝て明日に備えよう……と思って僕が寝室に入ると、部屋の中にある違和感を覚えた。
――ん? 何だこのニオイは!?
微かではあるが、部屋の中からいつもと違う「香り」がしてきたのだ。今まで嗅いだ事がない……いや、どこかで嗅いだ事があるような……何だこれは?
僕がベッドに入ると、遅れて桂も入って来た。僕は桂に背中を向ける形で寝ている。この体勢で寝るのも三日目だ。
桂の同居は許したが、流石に前の彼女・渋谷小春さんと過ごしたこの場所で他の女と体を重ねる事は出来ない。僕は自分にそう言い聞かせ、就寝中は桂を一切見る事無く過ごした。夜中に目が覚め、寝返りを打っていたならばすぐさま元の体勢に戻していた。でも本音を言えば至近距離にセフレがいる状態……すぐにでも抱きしめたい気分なのだが。
そんな時……えっ!?
さっき部屋の中で嗅いだニオイが今度は布団の中から漂ってきた。しかも今度はハッキリと……間違い無い、これは桂がつけている香水だ! そしてこのニオイを嗅いだ時、僕は自分の心臓がバクバクと音を立てているのがわかった。
でも不思議だ……桂は普段から香水をつけているが、今まで桂がつけた香水で動揺した事は無い。何故このニオイで……
――!? 思い出した!
これは渋谷さんが好んでつけていた香水だ! でも何で桂がこれを……?
「まっくん、ごめんね」
「えっ?」
「小春さんの持ち物には手を付けないって約束だったけど……香水、ちょっと使っちゃった! 禁を破っちゃったね……ごめん」
「えっ、いや……何でそんな事を?」
「でも香水って本当は三年もすれば使えなかったりするんだけど、これとっても良い香りがするね……パルファムかなぁ? すごく大事に使ってたみたい」
「いや、そうじゃなくて! 何でそれを桂がつけてるの!?」
「まっくん!」
禁を破った桂の行動に怒りを覚えたのか、僕は少し興奮状態になった。そんな僕を抑えるかの様に、桂が僕の背中に密着してきた。
「まっくん聞いて! 私、今日一日考えたんだけど……まっくんってこの部屋を小春さんと過ごした状態にしたいんだよね? それってつまり……」
「……え?」
「小春さんと過ごした記憶が消えていく事を……恐れてるでしょ!?」
「!?」
その通りかもしれない。初めは渋谷さんとの思い出など絶対に消えない、いや消してはいけないと思っていた。渋谷さんとの思い出を消す事は彼女の「存在」を消す事……それは不幸な別れ方をした渋谷さんに対して大変失礼な事だ。
だが実際は、毎日の生活の中で渋谷さんを思い出す時間が確実に減ってきた事を実感していた。しかも「過去は忘れて次に進め」という周囲のプレッシャーも感じてきた。過去の記憶を消したくない希望と消えてしまう絶望……この相反する道しるべを前に、今の僕は先に進む事を恐れて立ちすくんでいる状態だ。
「大丈夫、まっくんが何をしても小春さんと過ごした記憶は絶対に消えないわ」
だが桂は、そんな僕の不安を一蹴した……彼女は何でそんな根拠のない事が言えるのだろうか?
「だって私も一緒だもん! まぁ私の場合は消したくても消えない記憶だけどね」
そういえば……桂には忌まわしい記憶があるんだった!
「アイドルとしてステージに立っている時は完全に忘れるんだけどね……夜に一人で居る時はどうしても思い出してしまう……不思議よね、三日前の晩ご飯なんてすぐ忘れちゃうのに」
確かに、僕も仕事中は全く考えた事が無い。でも……
「さっきだって……まっくん! この香水の匂い、忘れてたでしょ?」
「うっ、確かに忘れてた……」
「でも今はちゃんと思い出したでしょ!?」
「あぁ」
「記憶なんて無理に残そうとしたり消そうとしたりする必要なんて無い! 例えこの空間が無くなったとしても、この家の間取りや小春さんとの思い出は必要な時にちゃーんと思い出すものよ」
そ、そうだよな……忘れない様に努力する事も、無理に忘れようとする必要も無いんだ! 僕がそう思った時、桂が僕の耳元でこう囁いてきた。
「だからさ……ここで私を抱いてもいいんだよ」
えっ!? いや、だからといってこの部屋では……
「言ったでしょ? 周りがどう変わっても思い出は変わらないって! 言い換えれば……まっくんが小春さん以外の女と寝て『後ろめたい』と感じるなら、それはアパートだろうがラブホだろうが一緒って事!」
そう言うと桂は僕の股間に手を回してきた。うわっ、そこは……
「ほーら、心がプラトニックでも身体は正直じゃーん!」
完全な臨戦態勢になっていた。そういや桂が家に来てから、その手の行為をずっと封印していたな。
「まっくん、私が小春さんの香水をつけている本当の理由……わかる?」
「い、いや……」
「もしここで小春さんを思い出す様だったら……私の事、小春さんだと思って抱いていいんだよ」
桂はとんでもない提案をしてきた。だがもし僕が桂の事を渋谷さんに見立てて抱いたとしたら、それは鮎川桂という女性に対して大変失礼極まりない行為になってしまう……流石にそんな事は出来ない。
「大丈夫よ! だって私たち『セフレ』でしょ!?」
セフレ……それはセックスだけの関係。お互いのプライベートにどの様な事情があっても干渉しない関係だ……恋人とは違う。
そこまで言われて抱かない理由はない。僕が体を反転させると、桂はまるで僕が振り向くのをずっと待っていたかの様に満面の笑みを浮かべていた。
僕はついに、自分に課していた禁を破ってしまった。そして僕は、目の前にいる女性を「渋谷小春さん」の代わりでも、セフレの「桂」でもない……
……ひとりの女性「鮎川桂」として抱いた。




