渋谷小春
「だって彼女……もうこの世に居ないから」
桂から前の彼女について聞かれた僕……桂の生い立ちを考えると本当は内緒にしておきたかった。しかし桂が僕のアパートにまで押し掛け、しかも前の彼女が居た当時のまま変わっていない部屋を見てしまった以上、桂にも本当の事を説明するしかないだろう……僕は桂に真実を話した。
「えっ、この世にって……ど、どういう事?」
桂も「聞いてはいけない事」を聞いたという自覚はあるのか、表情は険しくなり声が震え出した。
「今から二年……もうすぐ三年経つけど、彼女とは死に別れたんだよ」
「あっ……ごめんなさい、変な事聞いちゃって」
「いや、いいけど」
「彼女さんって……病気か何かだったの?」
ついにそれを聞いてきたか……でもここからが桂に話したくない本当の理由だ。
「あのさぁ、桂」
「何?」
「桂は……性暴力受けた事があるって前に言ってたよね?」
「う、うん……?」
「だからさ、本当は黙っておきたかったんだけど……やっぱこの関係を続けていく以上、いつかは桂にも話さなければと思っていた」
「え……ま、まさか?」
桂も薄々感づいたようだ。
「ねぇ、僕がどんな事言っても驚かないでね」
「う、うん大丈夫! 何となく予想は付いたし、覚悟は出来た」
「じゃあ……言うね」
僕の元・彼女「渋谷小春」さんは、ある日突然……
見知らぬ男からレイプされて……殺された。
所謂「強姦殺人」の被害者だ。
「……」
桂はうつむいたまま肩を震わせている。彼女は中学生の時、当時の担任からレイプされた過去を持つ。そんな経験を持つ彼女にとってこの話はとても辛い……下手すると過去の恐怖を思い出すかも知れない。だが……
「ねぇまっくん、その話……詳しく聞かせて」
彼女は前を向いていた。
※※※※※※※
※※※※※※※
あれは今から三年近く前の十二月二十四日……クリスマスイブの日だ。
「渋谷さん、終業式って今日だっけ?」
「明日よ! 今日は式の準備で忙しいから帰り遅れるけど」
僕はこのアパートで一歳年上の彼女・渋谷小春さんと同棲生活を送っていた。生活は苦しかったが、とても楽しい毎日だった。
「えー!? 今日クリスマスイブなのに」
「そういう鶴見君だって夜までバイトでしょ?」
彼女とは学生時代から交際を始めてもう四年近く経っている。だが先輩後輩の間柄を引きずっていたのと、「すえきち」という呼び方がどうもしっくりこないせいか、未だにお互いを名字で呼び合っていた。
でもこの時すでに、お互いの実家を訪問するような関係……結婚したら彼女は僕の事をどう呼ぶのだろう? 何て事すら考えていた。
正規雇用の教員だった彼女はこの日も朝から出勤。僕は非常勤講師でこの日は教師としての仕事はなく、午後から近くのスーパーで日雇いのバイトだ。クリスマスイブなので猫の手も借りたい程忙しいらしい。
アパートの玄関で彼女を見送ると、僕は急いで自分の部屋からある物を取りだした。それは……
――指輪だ。
まだ正規の教員として採用されていない僕には時期尚早な決断かも知れない。でもこんな僕を支えてくれる彼女に対して、最大限に応えられる「答え」がこれだと思っている。正直言って指輪は安物……だが当時の僕にとって、これが彼女に対して出来た「最大限の答え」だったのだ。
今夜は僕が夕食の支度をする……ささやかなクリスマスパーティーだ。その時にクリスマスプレゼントとして渡そうと考えている……所謂サプライズだ。
指輪を食器棚の引出しに隠した僕はアルバイトに向かった。今日は朝からバイトのはしごだ。
※※※※※※※
「ううっ、寒い……」
スーパーのバイトを終え、アパートに帰って来た。まだ彼女は帰っていない……恐らく残業が長引いているのだろう。
バイト先のスーパーでチキンを買った……アルバイトでも社員割引が使えたのでとても助かる。帰りにクリスマスケーキも買い、僕はパーティーの準備をした。
彼女が帰って来たら何時でもパーティーを始められる状態、もちろん指輪を渡す手筈も整えてある……準備は万端だ。
だが……
――遅いなぁ。
待てど暮らせど彼女は帰って来ない……どうしたんだろう? 学校で何か重大なトラブルでもあったのだろうか?
『お掛けになった電話は電波の届かない……』
彼女のスマホに電話しても繋がらない! 彼女の勤める学校にも電話したが自動音声……全員帰宅したようだ。流石にこれはおかしい! 帰り道で事故にでも遭ったのだろうか……僕が不安になっていると、
〝ブゥウウウウン〟
突然、僕のスマホに着信が! 掛けてきたのは、
『もしもし……』
『あぁ……鶴見君か』
今まで聞いた事が無い程、沈んだ声で話す彼女の父親だった。
※※※※※※※
連絡を受けた僕は着の身着のままアパートを飛び出した。向かった先は……警察署だ。ロビーにある待合用の椅子に、彼女の両親が座っていた。父親は憔悴しきっている様子、母親はただ泣き崩れていた。
警察は彼女の所持品から、彼女の両親に連絡をしたようだ。そして彼女の父親から同棲している僕に連絡が来たのだ。
三人が揃ったところで、警察官から地階に案内された。そこはさっき通った師走の夜の街よりも寒く感じられる場所であった。
無機質で重苦しい扉を開けると、そこには冷たそうな台の上に白い布を掛けられただけの人が横たわっていた。だがこの人物が自分の知っている人だとは、この状況に置かれても信じられなかった……いや、信じたくなかった。警察官が顔に掛けられた布を持ち上げると……
――うっ!
僕は言葉を発する事も出来なかった。彼女の母親の泣き声が絶叫に近い程大きくなり、無機質で冷たい部屋に反響した。
僕は思わず目を背けてしまったが、一瞬だけ見た彼女の顔は僕の脳裏に焼き付いて離れなくなった。彼女の美しい顔は無残にも切り刻まれ、皮肉にも「これは彼女ではない!」と信じたい僕の気持ちを後押しするかのように、別人の顔に変化していた。だが首元からわずかに見えた服、これは間違いなく彼女が出掛けるときに着ていた服だ。別人であって欲しい……という願いが叶う事は無かった。
この後、司法解剖が行われるという事で僕と彼女の両親は部屋を後にした。目の前にある現実を受け入れられないと、人間って涙が出ないんだな……僕はこの時、初めてそれを知った。
後日……彼女の葬儀が行われる直前に、容疑者の身柄が確保されたという連絡が入った。これで彼女に対して良い報告が出来る。
だがこんな報告を何百回何千回した所で、彼女が再びこの世に戻って来る事は二度と無い。全てが終わってしまった……いや、終わらされてしまったのだ。
結局僕は、彼女・渋谷小春さんにプロポーズも出来ず、かと言って仲が悪くなって別れる事も出来ず、彼女の同意が得られないので部屋を引き払う事も出来ず……あの日以来、僕の「時間」は止まったままなのだ。
※※※※※※※
※※※※※※※
「こんな状態で次のステップに進めるなんて……出来ないよ」
「そ……そうね、さっきはごめんなさい! 私、不用意に……」
「いや、知らなかったんだからしょうがないよ」
桂は僕の話を真剣に聞いていた。同じ「性暴力の被害者」という立場で何か思うところがあるのだろう。
「で……その犯人ってどんな奴なの? あっ、思い出したくも無かったら言わなくてもいいんだけど」
「いや、大丈夫だよ……無職の十九歳、少年の扱いだから名前もわからない」
「えっ、じゃあ刑は軽いじゃん! すぐ出て来るよ(※)」
「そうだね! しかも彼女を襲った理由が『ムラムラしたから』……ただそれだけの理由なんだよ」
「そっ……」
桂は手を口に当てて絶句した。僕も最初に聞いた時、同じような反応だった。人間って、そんな理由で何も悪い事をしていない赤の他人をレイプした後、ナイフで数十か所も切り刻み、最後は公園の生垣の裏へゴミの様に捨てていく事が出来るんだなと……。
性犯罪は再犯率が高いと言われている。しかも犯人は少年……更生という名目ですぐに社会へ復帰するだろう……誰にも知られずに。
警察も裁判所もマスコミも次の事件や事案で忙しく、もうこの事件のことなど忘れているだろう。生活のため、それと彼女の希望でもあったので常勤講師に向けて進み出しているが、それ以外の事は時間が止まったままだ。あれから彼女の両親と何度か会っているが、やはり同じ様な状況だ。
性犯罪の卑劣さを身をもって経験している桂は、僕の話を聞いて怒りに震えた表情をしている。この人なら僕の気持ちを少しはわかってくれるかも? そう思った僕は、
「そうだ桂……君に見せたいものがあるんだけど」
「えっ、何?」
彼女を二つある部屋の、寝室ではない方の部屋へ案内した。ここには僕が次のステップに進めない「本当の理由」が隠されている。
(※)この作品は2017年の設定なので、少年法の改正前です。




