プロローグ3
月は異形の果実のように不気味に肥大していた。およそ天文学の常識を嘲笑う速度で地球へ迫り、夜空はその円盤状の圧迫感に呑み込まれている。雲は吹き飛ばされ、星座は塗り潰され、空はただ一つの赤黒い輪郭で支配された。まるで巨大な瞳が地上の営みを見下ろし、瞬き一つで文明を消し去れると宣言しているかのようだった。静寂はどこにもない。
外気は砂鉄と潮を混ぜたようにざらつき、肌をこするたび金属臭が鼻腔を刺激した。遠方のサイレンは高い悲鳴となって都市の骨格を震わせ、ビルのガラス窓を細かく嗡鳴させる。マンションの非常階段で犬が吠え、その影は街灯と月光の二重写しとなってアスファルトに染みついた。クラクション、悲鳴、ヘリのローター音、救急車の電子ホーン――音という音が層を成し、深海の水圧のように耳朶へ押し寄せる。
◆
港湾地区。コンテナヤードの奥、護岸コンクリートに走った亀裂はすでに四本。亀裂の奥底では黒い海水が喘ぎ、コンクリ粒子を溶かすように泡立っていた。十数基のガントリークレーンは巨大なメトロノームめいて左右に揺れ、オレンジ色の障害灯が潮霧に濁りながら点滅する。
「おーい! ライブ始めるぞー!」
安全帯を付けたまま作業足場に立った若い港湾作業員が、スマホを自撮りモードに切り替えた。背後に迫る濁流をフレームへ収め、ハッシュタグ〈#海ヤバ〉と大書きしてアップロード。海は白い噛み跡を残して岸壁をむしり取り、鉄筋が骨のように剥き出しになる。十二秒後、クリップは二万リポストを超え、時差を飛び越えて世界各地のタイムラインに侵食した。――わずか十数秒の映像が、何百万人の脳裏に“終末エンタメ”として焼きついた。
続けざまにクレーンの支柱が悲鳴を上げ、巨大なブームが海へ向かって傾いた。鉄の叫びが夜気を裂き、配信画面のコメント欄には「やばい」「逃げろ」「神回確定」など空虚な言葉が踊る。にもかかわらず、若者はスマホを握る手を離さない。恐怖と承認欲求のどちらが勝るのか、脳が判断できないまま指先だけが増幅ボタンを押し続けた。
◆
ニューヨーク――地下鉄一号線サウスフェリー駅。ホームに立つロマネスク調のアーチ柱は水鏡となったタイル床に歪んで映り、アールデコの装飾が黒い水面に揺れている。照明が海水を反射してゆらめき、ホーム端のデジタルサイネージに浮かぶ “GODSPEED” の文字列は壊れたプログラムが吐いた皮肉な祈り。
「見て! 見てよこれ!」
観光客の少女がスマホを掲げ、背伸びしてレンズをかざす。万華鏡のように揺れる光の帯、そしてホーム手前に押し寄せる暗い濁流。次の瞬間、黒い水が轟音とともに跳ね上がり、レンズは冷たい泡と瓦礫に包まれた。ライブ配信は0.3秒のフリーズを挟み、“接続が途切れました”の灰色オーバーレイを映す。
それでも世界中の視聴者は一斉にリロードし、「再生」ボタンを何度も叩く。凍りついたタイムラインには「無事?」「はやく逃げて!」「F」など言語と絵文字の断片が流れ、中継が戻らないと悟ると、今度はクリップの再投稿合戦が始まった。
◆
フィリピン――マニラ湾。夜市の屋台街。油煙と甘辛いソースの匂いが漂っていたはずの通りを、茶褐色の津波が一気に飲み込む。鉄鍋、麺、肉片、店主の財布、生きた鶏、赤い提灯――ありとあらゆる色と質量の物体が巻き上げられて空を舞った。火のついた串焼きが花火のように爆ぜ、油が水面に触れて蒸散し、オレンジの閃光が一瞬だけ夜を昼に変える。
屋台のベンチに立つ若い女性ストリーマーは、泣き笑い半ばで視聴者数を読み上げ、「終末でもスパチャお願い!」と叫んだ。コメント欄は「尊い」「マジやば」「拍手」「死ぬ前に告白」など感情の屑籠が逆流し、ハートと骸骨の絵文字が乱舞。回線が水没し、映像が灰色ノイズに落ちると同時に、視聴者は“欠落した続き”を渇望してリロードに走った。
◆
それでも――。
東京・永田町の政府記者会見室で、検崎延人は淡いグレーのスーツに真っ白なチーフを収め、髪一筋乱さぬ笑顔でマイクを握っていた。額に浮かぶ汗さえ品格の滴に見せる計算された所作。背後スクリーンには巨大赤月と取材ヘリのサーチライトが光輪を形成し、NHKキャスターは台本を手から落とした。自動テロップが「検討、検討、なお検討」と壊れた蓄音機のようにループし、世界は“言葉が意味を失う瞬間”を目撃した。
「えー……国際社会と連携し、適切に検討を進めてまいります」
その一言が放たれるたび、SNSのトレンドラインは逆巻く津波になった。〈#検討無双〉〈#終末語録〉〈#決断はまだか〉。アイロニーも怒号も嘲笑も混ざり合い、だが渦の中心にいる男は微笑み続ける。
* * *
東京湾岸地下管制センター。防爆扉を抜け、冷却層へ続くシャッターを開くと、吐息はたちまち白霧となり視界を覆う。足下に張りつく霜が長靴のソールで砕け、ガラス片のような音をかすかに立てた。温度計は零下二十度。通常なら青白い呼吸のごとく脈動する量子キューブは、いま濁った緋色に揺らぎ、内部プラズマが不吉に脈動する。
三神遼と結城沙羅は厚手のレディンググローブ越しに凍える指先でキーボードを叩く。黒いコンソールにNVグリーンの文字列が滝のように流れ込み、秒間十数万件で積み上がるログは、すべて官邸ルーター経由。最上位権限〈PRIME_MINISTER〉の署名付き。目を凝らすたび、緑の文字が赤く書き換わる恐怖。
「本体は総理執務室にしか置けない」
沙羅の声は細く震え、唇は紫色に変わる。
「裏で誰かが総理PCを乗っ取ってる?」
「いや……行数 3620 を見ろ。コマンドのオリジンタグが “PM限定” でハードコーディングされてる。初期仕様だ」
言い切った瞬間、二人の背骨を氷針が貫いて凍りつく。
「最悪、総理自身が――」
声は霜に閉ざされた。同期率バーが七十二%を超え、赤いバロメータが蛇のように蠢く。三神は拳を固く握り、白くなった指関節に血が通わない。
「もう一度、直接ぶつかるしかない」
目配せひとつで決意は伝わった。二人は非常エレベーターへ駆け込み、震えるライトに照らされながら地上へ向かった。
◆
執務室のカーテンが激しくはためき、窓外に浮かぶ月が巨人の眼球のように揺らいだ。赤黒い光が書類の山に滲み、インク瓶の影が血痕めいて伸びる。警報音は断続的に襲い、耳奥で脈打つ鼓動と位相を揃えたかのようにずしりと響いた。
〈SYNC 88.04%〉
〈粉砕モード移行閾値 90.00%〉
乱舞する数値を見た三神遼は、沙羅の肩を掴み渾身の合図を送る。二人同時に踵を返し、制御室へ接続する専用光回線を束ねたキャビネットへ飛び込んだ。ハニカム合金製のラックにずらりと並ぶファイバーケーブル。その先端を束ねる分配ユニットには、いくつもの封印シールと物理ロックが噛み合っている。
「非常時コード!」
沙羅が胸ポケットから赤いタグの鍵を引き抜き、南京錠を外す。三神はニッパーを突き立て、バイパス用OFC線を一気に切断した。青白いスパークが散り、キャビネット内が瞬時に暗転する。
〈SYNC 88.04% → 84.97%〉
しかしわずか数秒で深紅の数字が跳ね上がった。
〈外部同期チャネル 強制再接続〉
〈SYNC 84.97% → 86.22%〉
「まだどこかに隠しラインが!」
沙羅の目が血走り、額から汗が霜の粒となって飛ぶ。彼女は上着ポケットから掌大の量子デバッグキーを取り出し、ラック最下段の暗号通信用ポートへ無理やりねじ込んだ。
「裏配線を焼き切る。十秒だけミラーモードに入るから、その間にPRIMEキーを再署名して!」
三神は頷き、タブレット端末を開く。指の震えがディスプレイへ無数の誤タップを刻むが、顔認証、掌紋認証、虹彩コードの順でロックを突破する。
「発射――!」
沙羅の声に合わせ、彼女のデバッグキーが白い光を噴いた。ラック最深部のマイクロトランシーバから火花が走り、金属の焦げる甘い匂いが漂う。
〈外部同期チャネル切断〉
〈PRIME_KEY 二次署名完了〉
〈SYNC 86.22% → 80.01% → 75.33%〉
数字は滝のように降下を始めた。だが安堵する暇はない。警報サイレンがトーンを切り替え、今度は機械的な女声アラートが上書きする。
〈補助プロトコルB2 権限昇格――開始〉
〈新規マスター端末:UNKNOWN〉
「どこだ……?」
コンソールに浮かぶIP一覧の海から、一つだけ赤いドクロアイコンが点滅した。地理情報タグは“GREENLAND/RUIN”――北極海上空に放棄されたはずの旧SDI早期警戒衛星だ。二十年前のディブリが、ここへ同期信号を反射している。
「まさか、そんな……!」
沙羅が唇を噛む。彼女の解析ログが示す経路は、衛星→米軍退役リレー→海底光ケーブル→日本ユニット――と連鎖し、最後に《補助回線》へ落ちる。
「衛星を切る?」
「無理。追跡レーザーは首都停電で使えない。残る手は――」
「あれしかないか」
言葉を合わせ、二人は視線を交わした。
◆
管制センターの最深部。量子キューブを包む高圧ガラスドームの外縁には、メンテナンス用サブパイプが蜘蛛の巣のように広がる。ドームを支える六角フレームの要所に、破壊用のナノ爆薬カートリッジが埋め込まれている。制作者が「最終保険」と呼んだものだ。
「点火プロトコル“Θ(シータ)” ダブルオーソライズ」
三神が呟き、胸ポケットから銀色のUSBサイズキーを取り出す。沙羅も同じキーを差し込み、二人同時に回す。
〈シータ回路 武装確認〉
〈推定破壊有効範囲:半径34m〉
〈制御核焼損率:100%〉
「最悪、ここが吹き飛ぶ」
「構わない。世界を守る」
沙羅の手が震え、しかし瞳には恐怖よりも静かな覚悟が宿る。
カウントダウンが始まる。
9……8……7……
そのとき、遮光ガラス越しに映る赤い月がふっと黒い影を帯びた。瞬間、施設全体が雷鳴のように揺れた。上空で大気がねじれ、グリーンランド上空の衛星からのビームが途切れたのだ。別系統の高出力マイクロ波が軌道上で爆轟し、デブリが流星雨のごとく燃えた。
〈外部同期チャネル ロスト〉
〈SYNC 75.33% → 64.10% → 52.02%〉
「誰が撃った?」
沙羅が絶句する。三神はカウントを凍らせ、急いで外部通信レイヤへアクセスする。モニターに浮かんだのは、“EU‐ODF(欧州軌道防衛隊)臨時指令室”のテキストヘッダと、たった一行のメッセージだった。
> 《FORTHEBLUEEARTH》
「マリアンヌ=クレプス……」
沙羅が小さく呟いた。二時間前、ビデオ会議で怒涛の早口を浴びせたEU宇宙防衛委員長。その決然とした意思が、国際合意を待たず独断で衛星を撃ち抜いたのだ。
だが喜びに浸る時間はない。キューブ中央のプラズマは依然として濁り、内圧は限界近くまで高まっている。同期率が下がっても、残存のエネルギーは都市数個を消し炭にするには十分だ。
「シータカウント再開」
「いや、待って!」
沙羅がカウント停止ボタンに手を伸ばす。
「あと1%、49%を切れば自動暴発リスクが激減する。まだ爆破を選ぶ段階じゃない」
「チャンスは一度きりだ」
「わかってる。でも私たちが死んでも、次を守る準備を残すほうがいい」
議論の暇は十秒もなかった。三神は躊躇し、指を離した。カウントは停止し、シータ回路が待機モードへ戻る。
〈SYNC 52.02% → 49.78% → 48.30%〉
赤いバーが黄色へ、さらに緑のゾーンへ割り込む寸前で数値は落ち着いた。内部圧力も徐々に減衰し、プラズマの濁りがわずかに薄まる。だがドームの傷は消えない。微かなヒビが火口のように黒く口を開け、セラミック粉が少しずつ雪のように降った。
「次に誰かが突けば、終わりだな」
「ええ。でも今は止まった。――次の手を打てる」
沙羅は深く息を吐き、氷の吐息を蒸発させた。
◆
夜が明け始める。東の空に薄紅がさし、赤黒い月はわずかに沈んだ位置に滲んでいる。だが街はまだ悲鳴を上げ、海は引き潮に残した泥を晒し、瓦礫の山は焦げた匂いを吐き続けた。
国会議事堂正面階段の演台――再びマイクが立て直され、検崎延人が泥まみれのスーツを正して立つ。報道ドローンが低空を漂い、彼の顔をズームする。瞳には相変わらず穏やかな笑み。
「えー……このたびの――」
カメラが僅かに傾き、フレーム外で官房長官が首を振るのが映る。マイクがハウリングし、検崎は咳払いをした。
「……いや、今回は“検討”では済まされません。私は――」
世界が息を呑む。
「私は、この危機において自らの優柔不断を認め、総理大臣としての権限を臨時技術指令部へ委譲します。主導するのは――三神遼博士です」
階段下、泥まみれの三神は呆然と立ち上がった。結城沙羅が肩を支え、凍った指で彼の背を押す。マイクが向けられ、ドローンカメラが寄る。三神は泥と血で汚れた白衣を直し、深呼吸した。
「世界の皆さん。時間は残りわずかです。しかし、まだ終わっていません――」
遠くで空を裂く轟音が走る。国際救援空軍のC―17が滑走路のない都心上空を強行飛行し、貨物ベイから投下された支援機材のパラシュートが夜明け空に花を咲かせる。その背後で赤い月が滲み、雲間から覗く太陽が薄金色の光を差し込んだ。
戦いはまだ続く。だが初めて、世界は「検討」ではなく「決断」の二文字を選び取った。
◆
夜明けのわずかな光を受けながら、三神遼は国会議事堂前の即席演台に立った。足もとには泥水が溜まり、靴底を吸い付くように絡め取る。血の匂い、鉄の匂い、火薬と焦げたプラスチックの匂い――世界が一夜にして獣じみた呼吸を始めたことを、肺の奥で実感する。
「私は――」
マイクに乗った声が自分のものとは思えないほど嗄れていた。沙羅が袖口を掴み、ぐっと力を送ってくる。
「私は、S・M・E・S量子同期主任として、この危機を終息させる臨時司令をここに宣言します」
報道ドローンのカメラが寄る。世界中のスクリーンが震え、その輪の中心に小さな人影が浮かび上がった。フレームインした結城沙羅が、泥を被ったまま深く頭を下げる。
「第一段階。残存七基のユニットを“擬似同期型休眠”へ移行させるため、各国の量子鍵を私の下へ一時集約します。国境も政治も優先順位はありません。必要なのは速度だけです」
◆
宣言後、首相官邸地下に臨時指令ブリッジが設けられた。厚い防爆扉の内側で、世界八地域を結ぶ量子暗号回線が再構成され、壁一面のホロスクリーンが地球を八分割した。各セクターの発言は通訳なしで自動同期され、遅延は一秒を割り込む。
まずオンラインに姿を現したのは、アメリカのエイミー・ノックス少将。かつて「核の三本柱」を統括した艦隊司令で、今は退役済みだがホワイトハウス非常招集で呼び出された。
「我が国はQK‐87鍵を送る。だが輸送手段がない」
「日本時間で二時間後、横田にC17を着陸させてください。座標は無線ビーコンで誘導します」
沙羅が即答し、デジタル署名プロトコルを提示する。ノックスは無言で頷き、通信が切れた。
続いて緑色のサリーをまとったインド宇宙庁長官、セン夫人が接続。背後で停電した部屋を補うようにランタンが揺れ、電圧の不安定さを示していた。
「ムンバイ空港は冠水中。カタール経由で輸送する」
「了解。湾岸経路はまだ使えます」
ロシア代表はプラグイン翻訳越しにどなるように喋り、EUは衛星攻撃の責任を取る覚悟を告白し、中国は「暫定的譲歩」として暗号鍵の提出を承認。二十四時間前の怒号は嘘のように、各国は黙々と手続に応じた。世界が一本のロープを握る、その力の入り方を三神は肌で感じた。
◆
09:30JST
横田基地。C17輸送機のランプが下り、シールドケースが二つ運び出された。装甲パレットの上でQK‐87の筐体が乾いた音を立て、ケース側面に星条旗が剥がれかけて貼られている。陸自隊員が泥まみれで駆け寄り、フォークリフトを指示。ほどなくEU便、豪州経由の南米便、UAE経由の中東連邦便が同じランウェイへ雪崩れ込んだ。滑走路はヒビが走り、補修班の応急舗装で綱渡りの運用が続く。
暗号鍵はすぐさまトラックへ移送され、地下ルートを通って指令ブリッジへ。一基でも欠ければプログラムが走らず、一秒遅れれば同期率は再上昇する。時計の針が爆弾につながっている感覚を、誰もが共有していた。
11:10JST
最終鍵――ロシアの“Царь‑Гром”ユニットキーが到着。ケースにはロシア三色旗の代わりに、白いテープで“Мир(平和)”とだけ走り書きされていた。
◆
「量子鍵、全八基そろった」
沙羅の声はかすれていたが、頬は興奮で赤い。
「これより“擬似同期型休眠”プログラムを注入する。実行後、同期率は理論上0.00003%以下。粉砕フェーズへの自動遷移条件もゼロに近い」
「理論上、ね」
三神は苦笑し、頷く。
「理論が裏切れば、私たちが物理的に止める」
アームリグに固定された八本の鍵カセットが、虹色の光を帯びながら中央のコア制御チャンバーへ沈み込む。昇降プラットフォームが気圧差の轟音を立て、冷却蒸気が霧となって天井へ舞い上がった。ホロスクリーン上で地球儀が回転し、緑の鎖が八つのユニットを束ねる。プログレスバーが現れ、0%からゆっくりと伸び始めた。
〈10%〉
〈27%〉
〈45%〉
そこまで伸びたとき、警報灯が紫に変わった。
〈不正プロセス発見:ID0xEBAD カテゴリ=GhostThread〉
「またか……」
沙羅が髪をかき上げる。GhostThread――誰が書いたか判別不能の遅延起動コード。排除すれば別名に転生し、最悪の場合は量子プールへ自殺的に飛び込んで毒性ノイズを撒く。過去三回の防衛演習でも完全駆逐は出来なかった厄介者だ。
三神はベースフレームに指を走らせ、幽霊コードを動的に包摂するサンドボックスを即席で構築。リソースを囲い込み、外部書き換えを遮断してからコンテナごと代替計算ノードへ退避させる。作業ログが赤から黄へ、そして緑へ遷移。
「再開!」
〈60%〉
〈78%〉
〈89%〉
プログレスバーが90%に届く刹那、照明が二度瞬いた。上空を走る余震が送電ラインを揺らし、瞬間的な電圧ドロップを引き起こしたのだ。非常発電系が起動し、空調が止まる。冷却層の温度が0.5度上昇。プラズマモニタに赤い縞が走る。
「あと9%。持ちこたえて!」
沙羅が叫ぶ。三神は非常電源のリレーを強制バイパスで接続し、冷却パージ弁を手動開放。ジャイアント・クリーンガスが轟音を立て、温度計が再び低下を始めた。
〈91%〉
〈94%〉
〈98%〉
ラスト 2%――時計がゆっくりになったかのように、バーの進みが遅い。世界中のニュースが固唾を吞み、同時通訳の音声がスタジオにこだまする。「現在、日本の三神博士チームが――」。その言葉を上書きするように、ホロスクリーンが白く弾けた。
〈100%〉
〈擬似同期型休眠モード 確定〉
〈SYNC 0.00001%〉
静寂。巨大システムが嘆息するように、量子キューブの赤が青白へ戻り始める。プラズマの濁りが薄れ、内壁の干渉縞が消える。冷却ファンが一気に回転数を落とし、蒸気の霧が晴れる。誰も声を出さない。世界が呼吸を思い出すまでの数秒間――重量を失ったような無音がホールを満たした。
真っ先に声を上げたのは、遠隔接続のマリアンヌだった。画面越し、眼鏡の奥が涙で濡れている。
「よくやったわ、サムライ・ドクター」
翻訳AIは“サムライ博士”と訳し、字幕が浮かぶ。アメリカ代表が胸を叩き、中国代表が深く一礼し、ロシア代表が拳を突き上げ、インド代表が額に手を当て祈りを捧げる。国境線は一瞬だけ溶け、拍手の波がチェーンリアクションのように通信網を駆け抜けた。
沙羅はバイザーを外し、震える息を吐いた。三神の肩が揺れ、弛緩した力が震えを伴って抜ける。瞼の裏に赤い月の残像が揺れ、耳奥に残るサイレンのエコーが薄れていく。
◆
外では、雲の切れ間から朝陽が差し始めていた。赤黒い月は依然として大きいが、その輪郭は夜のような鋭さをなくし、くぐもった薄橙の影となりつつあった。潮はまだ引かず、瓦礫は積み上がり、電力も水道も通信も完全復旧には程遠い。けれど人々のスマホに流れたニュース速報は、ほんのわずかな光を宿していた。
> 地球粉砕システム 全基休眠へ/国際チーム 手動同期を阻止
避難所の体育館で、給水タンクの列に並ぶ子どもが掲示板の紙を指差し、小さな声で「助かったんだって」と呟いた。隣の老人が目を細め、「ありがてえことだ」と合掌した。配信者たちは新しいサムネイルを作り、「#ブルーアース復活」タグに乗り換え始めた。潮騒の匂いの中に、微かにパンを焼く匂いが混じり、瓦礫の隙間へ朝陽が一本の光条を差し込む。
◆
指令ブリッジ。計器類は安定緑を示し、最後の警報ランプが消灯する。三神はスピーカーフォンを握り、世界回線へ短く宣言した。
「第一次収束を確認。残存ユニットは安全化。今後は破棄工程と恒久監視体制に移行します」
それは終戦布告ではない。長い後片付けの始まりにすぎなかった。だが“検討”ではなく“行動”で結ばれた一文は、確かに新しい歴史の行を刻んだ。
沙羅が隣でささやく。
「ねえ、少しだけ仮眠を――」
「いや、その前に」
三神はコートのポケットから小さな紙切れを取り出す。泥に濡れ、皺だらけになった官方承認の出席証。昨日、官邸ロビーで手にしたまま握り締め、ここまで来た。
「これを無くす前に、君に渡しておきたかった」
沙羅は目を瞬かせ、指でそっと紙を受け取る。そこには彼の乱暴な文字で《決断は怖い。でも、あなたとなら出来る》と書かれていた。
無数の非常灯が何度目かの点滅を繰り返し、青白い常灯へ切り替わる。ほんの僅かながら暖房が再開し、空気が柔らかな揺らぎを取り戻した。
地球は砕けなかった。
検討という迷宮は、完全には消えないだろう。だが迷宮には出口が拓かれ、そこへ足を踏み出す道筋が、今、確かに示されたのだった。
とりあえず考えてたのはここまでです。続けるかどうか話わかりませんのでいったん完結。