プロローグ2
S・M・E・S配備から二か月が過ぎた、蒸し暑い初夏の夜。東京湾の海面はまだ穏やかだったが、空気の奥底にわずかな金属臭が混じり始めていた。最初の異変を捉えたのは、高度三万六〇〇〇キロを周回する観測衛星ホライズン十二号である。定刻で送られて来たテレメトリの末尾、たった一行の数値に異様なズレがあった。月の軌道が計算値から外れている――誤差は0・00038パーセント。地上局の当直オペレーターは「丸め誤差だろ」と笑い、次のログに上書きした。けれど同じ数字をモニター越しに見ていた若き科学者だけは、背骨に氷針を打ち込まれたような衝撃を受けて立ち尽くした。
三神遼、二十六歳。S・M・E・S開発プロジェクトの量子同期担当主任――そして、自分が書いた数式のせいで地球が割れる悪夢を毎晩見る男だ。人懐こい笑顔と穏やかな声に隠れて、彼の心臓は常に過回転気味だった。あの夜も白衣を羽織ったまま仮眠室に倒れ込むつもりでいたが、ログの異変に気づいた瞬間、眠気は昇華して硫酸のような焦燥に変わった。
深夜三時七分。地下二百メートルの管制センター本館Bフロア。冷却ファンの轟音が絶え間なく耳を打ち、空調が吐き出す白い霧が足元を這う。三神は監視コンソールにかじりつき、仰け反りたくなるほど青白い顔でキーボードを叩いた。ターミナルに現れたのは、発信元不明・宛先世界八基のユニット・命令コード〈GLOBAL_TEST_SYNC〉――完全同期試験コマンド。本来ならトップシークレットの封印領域に眠っているシステムチェック用の裏機能だ。同期率はまだゼロに近いものの、コマンドが繰り返されれば指数関数的に上昇する。計算し直すまでもない。七十二時間以内に月が落ちる。しかも落下過程で地殻潮汐が暴走し、それだけで文明がひっくり返る。月面が蒸発し地球が粉々になる本起動よりは「マシ」というだけの話だ。
「誰だ……誰がこんな悪ふざけを……」
声はかすれ、震えていた。ログには署名がない。パケットは数百の中継ノードを経由し、発信元は霧の彼方。指先が汗ばんでキーを滑った。その瞬間、胸裏で冷たい回路がつながる。「要停止」。脳がそれを叫ぶのに、口から出たのは別の言葉だった。
「一人じゃ無理だ。――沙羅さんだ」
◆
地下四階、研究棟第三実験室。石英ガラス越しに淡い紫の照明が漏れ、量子チップの昇温試験装置が甲高い電子音を立てている。結城沙羅は長い髪を無造作にまとめ、試験ログを確認していた。三神がドアを叩くより早く駆け込み、荒い息で叫ぶ。
「沙羅さん、月が――」
「また徹夜続きで幻でも見た?」
「違う! 完全同期テストが走ってる。七十二時間で落月確定だ」
数秒で顔色が変わった。結城は端末を奪い、怒涛のスクロール。機械のような速さで光学マウスを操り、呼吸を止め、そして吐き捨てるように言った。
「本当ね。しかも鍵は封印領域。制御権があるのは……最上位管理端末だけ」
「総理執務室のマスターPCだ」
沈黙。実験室の気温が数度下がった気がした。結城が唇を噛む。
「――朝までに行くわよ。検崎総理に直談判」
「でもあの人に言っても“検討”されて終わりだ」
「検討でもいい。公式議事録に残す。それが足かせになる」
正論だった。三神は力なく頷き、全データを暗号化して外部ストレージに移した。
◆
翌朝八時十五分。官邸地下ロビーは報道陣のフラッシュと国際タスクフォースの怒鳴り声が交錯し、雑多な言語の怒気が空調に渦を巻いていた。三神と結城は首相秘書官に半ば押し込まれるように通され、エレベーターの扉が開くのを待った。
静かに現れた検崎延人は、淡いグレーのスーツに眠たげなまなざしを乗せ、誰もがホッとするような微笑を浮かべていた。だが三神にはその笑みが、世界を一瞥して「検討」と言い残す置き物にしか見えなかった。
「おはようございます。三神くんと……結城さんですね?」
「総理、至急お話があります。試験コマンドが――」
「その件につきましては、まず概要を取りまとめ、関係省庁とも共有し、幅広く慎重に検討を――」
「七十二時間で月が地球に落ちます!」
検崎は瞬きを三回、眼鏡を上げ下げ二回。
「七十二時間、なるほど。では落月の可否を総合的に評価し――」
結城が一歩前に出た。
「総理! “可否”を検討している間に海があふれます!」
そこへ秘書官が割り込む。「十時から国際会議です」。検崎は笑い、エレベーターへ歩き出す。
「では会議室で続きを検討しましょう。アメリカも中国も集まります。みんなで協議すれば――」
三神は心の中で悲鳴を上げた。
◆
十時丁度、永田町地下深層ホール。ホログラムテーブル中央の青い地球儀を取り囲むように八つの立体像が浮かぶ。アメリカ、中国、ロシア、EU、インド、中東、南米、そして議長席の日本。開会の合図を待たずして怒声が乱れ飛ぶ。
「日本よ、鍵を渡せ!」
「管理権は我々が持つべきだ!」
「その両方が妄言だ!」
検崎は涼しい顔でマイクを取り、柔らかな声色で議題を読み上げた。
「本日の目的は、S・M・E・Sの課題を整理するための課題整理委員会を設置することです――」
ホールは爆発した。怒鳴り声、罵倒、床を叩く拳、通訳機の悲鳴。オブザーバー席の三神は立ち上がり、「月が落ちる!」と叫ぶが、誰のイヤホンにも乗らない。二人分の通訳チャンネルはすでに大国の罵声で占拠されていた。
結城が震える声で囁く。
「同期率、二十七パーセントを超えた」
「早すぎる……誰かが中枢からテストを続けているんだ」
「止めるには裏コードを切るしかない」
◆
深夜零時五分。管制センター最深部、冷却層へ続くエアロックの前。二人は緊急カードキーを重ね、真空ドアを開いた。白い霧が吐き出され、量子キューブの脈動が青から赤へ変わりつつある。〈シュレディンガー・ハンマー〉は内部プロセスを書き換える禁断のツールだ。成功率五パーセント。失敗すれば同期率が跳ね上がり月の加速度は二倍になる。
「やるしかない」
「やるわよ」
実行――コンソールが凶暴なカーネルログを吐き、同期率が五十六から四十一、三十九へ一気に落ちた。結城が歓声を上げる。しかし外部から再注入される謎の信号が同期率を押し戻す。五十、五十一。パケット源を追跡すると、IPの末尾は官邸。
「官邸のルーター……総理執務室しか経由しないルートよ」
「まさか総理が――」
「違う。総理のPCを踏み台にしてる。ハードに直結しているのはただ一人……」
言葉の先は霧に消えた。
◆
残り四十八時間。月は血のように赤く、満月の二倍の大きさで空に貼り付いていた。太平洋の潮汐は狂い、ハドソン川が逆流し、マニラの湾岸地区が水没し始めた。ニューヨークのスクリーンではテロップが「世界終末まで残り二日」と点滅し、東京では〈#検討じゃ止まらない〉が一夜で数億インプレッションを稼いだ。陰謀論者は〈日本の裏切り〉と叫び、終末宗教は〈神の裁き〉と踊った。それでも検崎延人は定例記者会見で「状況を注視し、適切に検討」と述べるだけ。世界は検討の海に沈みつつあった。