プロローグ
地球は今、爆発寸前である。――しかも割とマジで。
核戦争でも気候崩壊でも巨大隕石でもゾンビでもAIの反乱でもない。原因はただ一つ。人類が自慢げにこしらえた超兵器、S・M・E・S〈スメス〉だった。
正式名称はシンクロナイズド・ミューチュアル・デストラクション・アースクラッシュ・システム。和訳すると「相互確証地球粉砕システム」。その仕様はきわめて豪快だ。ひとつだけ起動すれば核兵器より少し派手なくらいで都市を一つ壊滅させる。しかし世界に散らばった八基すべてが完全同期で起動した場合、惑星クラッシャーの名に恥じず地球そのものを粉々にしてしまう。地下サイロに収まる複合装置は直径二十メートルの純白球体。外殻には自己修復性ダイヤモンド複合セラミックが用いられ、表面は巨大な真珠のように冷ややかな光を放つ。内部には量子励起プラズマと時空歪曲炉のハイブリッド反応炉が脈動し、人類文明が数千年かけて積み上げた知見を一瞬で無に帰す潜在力を秘めていた。
開発の建前はシンプルだった。核より怖い抑止力を各国が平等に持てば、誰も引き金を引けなくなる――俗に言う「恐怖の均衡」の最終形である。だが設計チームのオフレコ座談会では別の本音が飛び交っていた。
「いやあ、“地球粉砕モード”とか書いてあるとSF映えするじゃないですか」
「PV映像も派手でバズるし、スポンサーもつきやすい。“究極”って付くだけで財布の紐が緩むんだ」
誰も止めなかった。それが世界の不幸の始まりだった。研究費は天文学的数字に膨らんだが、スポンサー企業も国策銀行も「究極」という甘い響きに酔い、誰もブレーキを踏まなかった。
二〇五五年春、ニューヨーク国連本部。総会ホールの壁一面にデモ映像が映し出された。CGの地球が真珠のように輝く八基のユニットに取り囲まれ、虹色の光糸で互いのコアをつなぐ――そのサイバー禍々しい美しさに、各国代表は息を呑んだ。プレゼンを行ったのは日本の若手外交官チーム。彼らは胸を張り、こう豪語した。
「核兵器は結局、五分五分の自滅ゲームに過ぎません。しかしS・M・E・Sは八分八分の全滅ゲームです。八つのブロックすべてが同時に“撃とう”と合意しない限り地球は無事。つまり誰も撃たない。これこそ究極の平和です!」
言葉の滑稽さを嘲笑う者もいたが、拍手は嘲笑を掻き消した。核保有国は膨大な維持費と老朽化対策にうんざりしていたし、非保有国は「核で脅されるよりマシ」と思い込んだ。そこに現れた“みんなで爆散すれば怖くない”という甘美なスローガン。各国のロビー団体と軍需産業が裏で取引を進める中、総会は三日で採択を完了。ツイッターでは〈#核卒業式〉〈#超抑止〉〈#押すなよ絶対押すなよ〉が同時トレンド入りし、SFファンは狂喜乱舞、グッズ屋はTシャツとマグカップを量産し、投資家は関連企業の株を買い漁った。人類の常識はバズと共に融解していった。
こうしてアメリカ、中国、ロシア、EU、日本、インド、中東連邦、南米連盟――八つのブロックが一基ずつ惑星粉砕ユニットを保有することになった。各ユニットは地下五百メートルの要塞サイロに鎮座し、量子ネットワークで二十四時間相互監視される。優れものは、一基が勝手に暴走しそうになると残り七基が自動的に“待った”をかけ、エネルギー排熱の行き場を失った暴走ユニットは超低温で凍結される仕組みだという触れ込みだった。八基全部が「起動=YES」にならない限り地球は安全――“鉄壁の安全装置”というわけだ。関係者はフラッシュを浴びながら胸を張った。
「八人で同時に自爆ボタンを押すゲームなんて誰もやらないでしょう?」
報道陣がどっと笑い、皮肉も疑念もバズワードの津波に押し流された。
しかし次の運用会議で最大の問題が噴き出した。起動・停止のマスター鍵を誰が握るのか。アメリカ代表は「自由世界の保安官は我々だ」と主張し、中国代表は「人口世界一の代表が管理すべきだ」と譲らず、ロシア代表は常任理事国の威光を振りかざした。EU代表は理念先行で共同管理を提案したが秒で却下。インド、中東、南米の代表は発言順さえ回ってこない。安保理は拒否権応酬で空中分解、オンライン会議システムは時差とDDoSで30回落ち、議題は一ミリも進まなかった。
最終的に押し付け先として選ばれたのは――日本だった。被爆国という道義的ブランド、外交的に温和、技術基盤も高い、そして万一事故が起こっても報復しないという“安心感”。まさにスケープゴートに最適。国際メディアは「平和国家・日本、世界の鍵を握る」と礼賛し、株式市場では日本の防衛関連銘柄が乱高下、国内の右派と左派は同時に胃痛を訴えた。
その重責を背負うことになったのが、第百三代内閣総理大臣・検崎延人、通称〈検討王〉である。四十五歳、温厚な表情と淡いグレーのスーツがトレードマーク。東大法学部卒、官僚出身で調整力を買われたものの、在任百日で「検討」という語を二千三十七回口にし、「結論」という語を三回しか使わなかった男だ。テレビ討論では得意の笑顔を崩さず、質問をすべて「検討」でいなすため、司会者がタイムキーパーに詰め寄る場面すら恒例行事になっていた。
検崎の定例会見はテンプレート化している。
「えー、本件につきましては、幅広い観点から慎重に検討を行うことといたします」
質疑応答がどれほど熾烈になろうとも、最終的には必ず「検討」で着地。首相動静アカウントは日々の「検討回数」をカウントし、海外メディアは彼を「サムライ・デシジョンレス」と揶揄した。それでも、世界最大の爆弾の鍵はこの“決断しない天才”のデスクに置かれたのである。
だが、検討王の口癖が世界の終わりを招く――そんな不吉な予感が現実となるのに、さほど時間はかからなかった。
S・M・E・S配備から二か月。最初の異変は観測衛星ホライズン十二号が拾った。月の位置が軌道計算値からわずかにずれている――誤差は0・00038%。当直の天文学者は笑ってログを上書きしたが、東京湾岸地下二百メートルの管制センターで同じ数字を見た若き科学者だけは心臓が凍りついた。三神遼、二十六歳。自ら描いた量子同期モデルが“地球粉砕モード”の要となっている事実に夜ごと胃酸を噴き上げる男だ。
深夜三時七分。冷却ファンの轟音が響くBフロア。三神は監視コンソールに映る未知のパケットに目を奪われた。宛先は世界八基のユニット、命令コードは〈GLOBAL_TEST_SYNC〉――完全同期試験コマンド。本来封印されているはずの裏機能だ。同期率はまだゼロに近いものの、指数関数的に跳ね上がるプログレスバーが頭に浮かんだ。計算し直すまでもない。七十二時間以内に月が落ちる。
震える指でキーボードを打ち、ログをバックアップしたその瞬間、脳裏で「自分のせいだ」という呟きが何重にも反響し、視界が暗く狭くなった。だが沈む前に思い浮かんだのは、同僚であり数少ない理解者、結城沙羅の顔だった。
翌朝。官邸地下ロビーは世界中の報道陣と怒鳴り合う外交官で大混乱。三神と結城は「内閣科学技術顧問代理」の通行証を握りしめ、エレベーターが開くのを待つ。眠たげな瞳をした検崎延人が現れる。
「総理、至急お伝えしたいことが――」
「その件につきましては、まず概要を取りまとめ、関係各所と共有し、幅広く慎重に検討を――」
「七十二時間で月が落ちます!」
検崎は眼鏡を押し上げ、柔らかく笑った。
「では七十二時間後に落ちるかどうか、迅速に検討しましょう」
結城の拳が震え、三神は絶望の淵でエレベーターの天井を見上げた。検討の檻に閉じ込められたまま、世界はカウントダウンを始めていた。