マルグリット
魔女がシュルツを連れて逃げるのを見送ると、リタは振り返ってラークの元へと歩み寄った。あちこちで、銀色の火花が散っている。ほとんどがシャルムの攻撃を迎え撃つもので、ラークはリタ達のことを気にして防戦に回っているようだった。
「……ラーク、これっ」
巻き起こった砂ぼこりで、視界が悪くなっている。リタは目をこすりながら、ラークのマントを手探りで掴んだ。
「何してる?」
相変わらずシャルムを見つめたまま、ラークが咎めるように問いかけた。息つく暇もなく魔術が繰り出されているため、よそ見をする余裕がないのだろう。それでも、そんな態度に少し傷ついてしまった。
「……あのっ、魔女の女の人が、――この杖をラークにって」
ようやく、ラークがこちらを横目で流し見た。リタが差し出した杖を見て、銀色の瞳がつかの間見開かれる。しかし、杖を受け取ると、すぐに冷静な顔に戻ってしまった。
「助かった」
(……それだけ?)
別に、感謝してほしいとか、労ってほしいとか、そんなことを望んでいたわけではなかった。けれど、さも邪魔者のように扱われたことで、――それがリタを案じた結果であったとしても、リタは打ちひしがれていた。
(……なんで)
この気持ちは、いったい何なのだろう。さっきまで身を寄せ合っていたというのに、今は背中に触れることすら、怖くてできない。リタは無意識に、ラークに向かって伸ばしていた手を引っ込めた。これ以上ラークの隣にいるのがいたたまれない。
(早く私も逃げよう。あとで話せば、きっと大丈夫)
リタが森へ走り出すと、よく通る柔らかい声が彼女を呼び止めた。
「随分な扱いじゃないか。そんな愛で、満足なのかい?」
「……っ」
胸を突くような問いかけに、リタは思わず足を止めてしまった。砂嵐の中で、シャルムの声だけが耳に大きく響いてくる。まるで、頭の中に直接語り掛けてくるみたいに。
「その愛は、“本物”ではない。他者の介在で簡単に崩れる、偽物の愛だ」
「……な、なに?」
心臓がバクバクと脈打っている。身体が熱くてたまらないのに、手足はやけにひんやりとして、感覚がなくなってきた。そんなリタに、間髪を入れずシャルムは畳みかけた。
「腕輪を見た時の、この男の顔を見たか? この男にとって、お前が1番だと、何をもって信じられる?」
「……そ、そんな――」
「本物の愛とは、君臨することだ。他の追随を許してはいけない。圧倒的でなければ、それは愛と呼べない」
朗々とした語りに、リタはつい引き込まれそうになってしまった。1番に君臨することこそが、本物の愛。それは、リタが今まさに気にして、傷ついていたことだったからだ。
「血は争えない。娘であるお前は、私と同じだ」
「……同じ?」
「そう。私が魅了でそうしたように、お前は開心の力でラークの心を溶かし、骨抜きにしているだけだ」
「なっ……」
言い返そうとして、言葉が続かなかった。だって、そうでない“証拠”は、そうである証拠がないのと同じように、見付からなかったったのだから。シャルムが口をつぐんでも、ラークは反論しない。もしかしたら、シャルムは魔術を使ってリタにだけ聞こえるように、話しているのかもしれない。
(……でも、そうじゃなかったら)
ずっと黙っている彼は、シャルムの意見を肯定しているのではないだろうか。ラークの気持ちは、リタが開心の力を使ってねじまげたもので、彼は本当の意味でリタを愛していないのかもしれない。固有魔術は、無意識化で発動するとトーマスも言っていた。
「所詮お前は、シエラ・ミュセルの代わりだ」
「…………めて」
「開心の力がなければ、誰もお前を愛さない」
「……やめてっ!」
リタは両手で耳を覆い、地面にしゃがみこんだ。もう、一歩だって動けそうにない。さっきの魔女みたいだ。
(……こんなに、辛いんだ)
胸の奥の、最も触れてほしくない部分を抉られるのは。見ないふりをして、蓋をしていたものを暴かれるのは。
「……もう、……もうやめて、…………お願い」
すすり泣きながら、リタは哀願した。もうこれ以上、聞きたくない。目を固く閉じ、音が消えた世界で、リタはしばらく蹲っていた。そうしていると、世界に自分は一人きりだという気がしてきて、余計に悲しくなってきた。
(……お願い、来て。……ラーク)
ただ、抱きしめてくれたら。ほかの何を差し置いても、リタのもとへ来てくれたら、彼の気持ちを信じられるのに。待てども待てども、やって来ない。腕に当たるのは砂粒ばかりで、髪や肌がかさついてくる。
(このまま、砂みたいにとけちゃえば楽なのに)
そんな考えが頭をよぎった刹那、リタの両手首を誰かがそっと握りしめた。
(……ラーク?)
反射的に耳から手を離し、顔を上げたリタの目に飛び込んできたのは、漆黒の目をしたノワール人の女だった。やせこけた頬に、艶を失った長い黒髪。それでも顔立ちは整っていて、どこか見覚えのある面差しをしていた。
「……マルグリット!」
リタの顔を見るなり、彼女ははらはらと涙を流し始めた。突然の展開にリタはされるがままになっていた。何が何やら分からない。困惑しながらも、リタはふと、彼女の背後に立つ人影に目をとめた。
「やあ、リタちゃん。こんな所で何してるの?」
「……トーマス、さんっ」
七三の髪に、四角い眼鏡。気のいい笑みを浮かべた彼の姿に、リタは声を詰まらせた。ひと月も離れていなかったのに、ひどく懐かしく感じる。出会ってまだ間もない彼に、こんなにも安心するなんて。
「遅くなってごめんね。……レーヴの怪我が酷かったから」
「無事なんですかっ?」
「一命はとりとめたよ。あいつの手当ては面倒だから、僕がしたんだ」
身体に触れないように手当てするのは、慣れていない者には難しいだろう。それに、万が一触れてしまったときのリスクを考えれば、進んでやりたがる人間はいないはずだ。
「僕としては、ウェルデンの方が心配なんだよ」
城の方角を見据えるトーマスは、すぐにでも助けに行きたそうに見えた。客間に残してきたウェルデンを思い、リタも唇をかんだ。
「……すみません、私――」
「分かってる。どうせあいつが、一人で全部背負い込んだんだろ」
歯を見せて笑うトーマスが、まぶしいほど頼もしい。彼が来てくれたおかげで、どっぷりと浸かっていた底なし沼から、顔を出せたような気がした。
「……ありがとう、ございます。――それであの、この人は?」
リタとトーマスの会話を邪魔せずに、愛おしそうな視線を送ってくる女性。ノワール人であれば、混血児であるリタを忌み嫌うはずなのに。戸惑いを色濃く浮かべたリタに、今度はトーマスが驚く番だった。
「え? 待って。ラークから聞いてない?」
「……何をですか?」
長い溜息をつくと、トーマスがノワール人の肩に手を置いた。心持ち、彼女の頬に緊張が走り、目に試すような光が宿った。
「彼女はエイミー・コルデーロ。リタちゃんのお母さんだよ」
「…………えっ?」
ずっと会いたいと願ってきた母親。それが今目の前にいると聞かされ、リタは時が止まったように固まってしまった。
(……この人が、お母さん?)
妙に現実味がなく、リタは呆けたように口を半開きにしたまま、エイミーと呼ばれた母を凝視していた。瘦せている、というよりも憔悴しているという表現がしっくりくる。瞼はくぼんでいるけれど、潤んだ瞳は黒曜石のように輝いていた。
「……ほ、本当に?」
「分からなくても、無理はないわ。私と別れたとき、あなたは本当に小さかったから」
そう言うと、エイミーは手を伸ばし、リタの頬に触れようとした。リタは咄嗟に身を引いてしまい、傷ついた母の顔を見て、しまったとほぞを嚙んだ。
「す、すみません。ちょっと、驚いただけで――」
しかし、エイミーの目線はリタの顔ではなく、胸元に注がれていた。
(……何を、見てるの?)
視線を追って俯いたリタの目に、仰け反った拍子に飛び出していたペンダントが映った。――母が唯一リタに残してくれたという、パールのペンダント。エイミーが片手を額に当て、短くうめいた。
「それ、ずっと……持っていてくれたのね。あなたは私の娘――マルグリットに違いないわ」
「…………」
「髪や目の色もそうだけど、あなたの名前。……リタって呼ばれてるんでしょう?」
「……はい」
その名は愛称だと、エイミーは告げた。
「私はあなたに、マルグリットって名前を付けたのよ」
マルグリット――古い言葉でパールを意味する言葉。エイミーは、シャルムから贈られたペンダントから、リタに名前を付けたのであった。




