守るべき存在
シエラが家にやってきた夜、バタバタと誰かが走り回る音でラークは目を覚ました。
『――いないっ。俺は外を見てくる!』
『……っ! 私も行くわっ』
『ラークはどうする? こんな夜更けに出歩くのは危険だ』
(……どうしたんだろう?)
眠い目をこすりながら夜具を持ち上げると、ひんやりとした冷気が身体を包んだ。薄手の毛布を上半身に巻き付け、ずるずると引きずりながら廊下へと出ると、玄関に父の姿があった。
『……おとうさん?』
『……ラークっ』
カンテラを片手に靴を履いていた父が振り返った。
『おとうさん、どこいくの?』
『……シエラちゃんがいなくなったんだ。父さん、あたりをちょっと探してくるな』
言うなり、父は立ち上がって戸に手をかけた。ラークがついて行こうとすると、背後の床板をきしませながら、家の奥から母が走ってきた。レイラはラークの肩に後ろから手をかけ、前へ進めないようにぐっと力を入れた。
『ラークっ、ここにいたのね。あなたはお家でお母さんと待っていましょう』
『…………』
『――じゃあ、行ってくるっ』
風のように父が出ていくと、母は落ち着きなく家の中をぐるりと見渡した。寝室へとラークの背中を押しながら、部屋の隅々まで目を走らせている。
『……おかあさんは、ねないの?』
『……ええ。お家の中を、もうちょっと探してみるわ』
『…………』
シエラのせいで、父と母が寝ることができない。自分ひとりだけ寝ろと言われても、心がざわついて全然眠れそうになかった。ラークはかけられた布団を、バッとはいで起き上がった。
『――ラーク?』
『……ぼくも、いっしょにさがす』
『だめよ、子どもは寝なきゃ――』
再び布団をかぶせようとする母の手をすり抜け、ラークは廊下へと飛び出した。この家は決して広くない。居間と寝室に手洗い、ふろ場があるだけだ。――それでも、さんざん探検してきたラークには、父と母には思いつかない隠れ場所に心当たりがあった。
(きっと、イスのなかにいるっ!)
裁縫が好きなレイラは、木製の椅子に自分だけ布のカバーをかけていた。椅子をすっぽりと覆うそれは、脚の間に入った物をきれいに隠してしまう。今よりももっと小さい頃、そこはラークの誰にも内緒のお気に入りの場所だった。
(……あっ!)
居間へと入り床に手をついて頬をピッタリくっつけると、小さな足が少しだけ布からはみ出しているのに気が付いた。
『……ねえ』
ラークがそうっと椅子に近づいて声をかけると、ゴンっと鈍い音がした。頭でも打ちつけたのだろうか。物音を聞きつけて、母がパタパタと駆ける音が近づいてくる。
『……でてきたら?』
『……ぐすっ』
打ち所が悪かったのか、シエラは泣いているようだ。少しだけ布をめくると、レースで縁取りされた服がちらっと見えた。
『見つかったの!?』
母の接近とともに、椅子の周囲がぼうっと明るくなった。明かりをともす魔術、ルミナスを使ったのだろう。母は紫の衣服が椅子の下から覗いているのに気づくと、すっと紐をほどいて椅子のカバーを外した。
『……うっ、うわーん』
突然居場所を暴かれて、目を丸くしていたシエラが火が付いたように泣き出した。その背中を、レイラが上から下へとなでていく。
『……ママァッ! ママどこっ!? ママじゃないっ――』
『だいじょうぶ、だいじょうぶよ~』
『……ひっく、……かくれんぼっ、……ママっ、ぜったい……くっ、くるのに――』
漏れ聞こえた声に、母の手が一瞬止まった。部屋にはひたすらシエラの泣き声が響き渡る。
(…………うるさい)
彼女の声が甲高いせいもあるが、普段同じ年頃の男児とばかり遊んでいるラークには、母を求めて泣き続けるシエラがひどく幼く見えていた。――弱くて怖がりで、甘ったれている。
(……こんな子に、お母さんを取られたくない)
一心にシエラに寄り添い慰める母の姿が、無性に腹立たしかった。母の手がなでるのは、いつだってラークだけのはずだったのに……。
『……おかあさん、もうねよう?』
ラークは母の注意を引こうと夜着を引っ張った。母はシエラをさするのを止めると、ラークに向き直り、小さな手を包み込むように両手でぎゅっと握った。
『……ラーク。シエラちゃんはね――』
『……』
『守ってあげなきゃいけないの』
なぜなのかと問いただしたくなるが、母のいつになく真剣なまなざしに幼いながらも口をはさんではいけないとラークは悟った。
『シエラちゃんにはね、お父さんもお母さんもいないのよ。……だから、お父さんとお母さんが、その代わりをしてあげなくちゃいけないの』
『…………』
母がラークの手をくるんだまま、その拳をそっとラークの胸の真ん中に当てた。ほんのりとした温もりが、夜着を通して伝わってくる。
『……ラークにもね、シエラちゃんを大切にしてあげてほしい』
『……ぼく?』
急に話を振られ、ラークが目を瞬いた。母が頭を上下に振ってうなずきながら、手を解いてラークの頭に触れ、髪を指ですいていく。
『……そう。お母さんとお父さんがラークにしてきたように、ラークもシエラちゃんに優しくしてあげてほしいの』
『……』
『“お兄ちゃん”として、そばにいてあげて』
視線を感じて目をやると、いつの間にか泣き止んだシエラが、椅子の下からラークを見ていた。ぱっちりとした二重の目には涙がたまり、今にも零れ落ちそうだ。手も足も細くて、けんかなんて出来そうにもない。
(……ぼくが、まもる?)
これまでずっと、ラークはこの家で守られるだけの存在だった。いつだって自分が一番に優先されて、大事にされる。それが当たり前だった。いやいやと頭を振るラークの夜着を、シエラがつまむように引っ張った。左腕にはめた白銀の腕輪がキラリと光る。
『……お、にいちゃ?』
舌足らずな発音。泣き虫の弱虫。――それでも、ラークにその手を振り払うことはできなかった。
(……ぼくが、まもる)
まだ気持ちの整理はつかなかったが、母が求めているのであれば、“兄として妹を守るべき”なのだということは理解できた。
――ラークの中に根付き、シエラと過ごす内に大きくなっていた“妹を守らなければ”という使命感にも似た思いは、のちにラークの運命を大きく狂わせていくことになるのだった。
◇◇◇
時計の針が21時を指しても、地下牢には月光が差すこともフクロウの声が聞こえることもない。朝食の後、シエラが妹だと告白してすぐに、ラークは頭痛を訴えて床に横になってしまった。昼食や夕食は取りに来ていたが、リタは顔色が悪い彼にこれ以上話しかける気にはなれなかった。
(……そろそろ、休もう)
一日中針仕事をしていたため、目がしょぼしょぼと疲れてきた。リタは燭台を手に個室へと戻ると、コトンとそれをベッドの脇に備えられている机の上に置いた。ベッドに横になり、ぼんやりとした蠟燭の炎に向かって右手をかざした。ゆっくりと手を握ったり開いたりしてみても、もう人差し指の傷が痛むことはない。
(…………やわらかかったな――)
リタは無意識に、ラークがしてくれたように自分の右手の人差し指に左手を添えていた。血が通っていないかのように冷たいあの手の感触が鮮明に思い起こされる。
(……妹、か――)
あんなに大事にしてくれる兄がいてくれればどんなに幸せかと、リタの胸に締め付けられるような痛みが走った。――こんな夜は、“お守り”を握って眠るのが一番だ。
(…………お母さん)
リタは襟のボタンを2つ開け、緩んだ首元に手を差し入れるとチェーンをたどって1粒のパールを引き出した。――母の形見だという、パールのペンダント。預けられたときのリタの唯一の所持品であり、リタ以外の人間が触れると火傷のように痛むため、誰にも奪われることもなくリタの手元に残っていた。
(……いい夢を、見られますように)
このペンダントを握って眠ると、夢に決まって同じ若い黒髪の女性が出てくる。彼女はいつも、優しく頭をなでたり語り掛けてくれるのだが、夢から覚めると、リタは何を話していたかも顔立ちも思い出すことができなかった。――ただ、彼女がふんわりと笑っていたことだけはいつも覚えていた。
(……あれは、きっとお母さんだ)
何の証拠もないけれど、リタはそう確信していた。孤児院の出であり、周囲から冷遇されながらもリタが希望を失わずに生きてこられたのは、自分は母に愛されていたのだと“無条件に信じる”ことができていたからだった。
――生死も分からず、もしかしたら母は望んでいないかもしれない。それでも、いつか母に会ってみたいと願いながら、リタは深い眠りに落ちていった。