シエラ
ラークは長いまつげを伏せたまま、長いこと黙り込んでいた。ぎゅっと唇をかみしめてリタはずっと待ち続けたが、ついにこらえ切れなくなって囁くように口を開いた。
「…………初めて、だったんです」
「…………?」
「誰かに、心配されたの……」
リタが爪をパチンパチンとはじき出した。不安や心配などの強いストレスがかかると、無意識に指や爪をいじってしまう。ささくれだらけの荒れた手には、いとも簡単に傷ができ、鮮やかな赤がくすんだ茶色の上を流れていった。
「……でも、――私じゃないんですよね?」
リタが泣き笑いのような顔で問うと、ラークが何かを振り切るように首を横に振り、バラバラの長さに伸びた髪が、刈り込まれていない庭木のようにわさわさと揺れた。
「………………シエラは」
おもむろに、ラークがポケットの中から紫色のリボンを取り出した。壊れ物を扱うようにボロボロのリボンをそっと握りしめると、目を閉じたままポツリとこう口にした。
「シエラは、俺の――妹だ」
(…………妹?)
――寝言で口にするほどラークの意識の奥深くに根を張り、害されていると判断すれば問答無用で助けるほど大切な存在。家族であるならば、彼の態度や言動もつじつまが合う。
しかしシエラが妹であると知った今、リタの頭の中は別の疑問で満たされていた。
(……どうして、私のことを“妹の名で呼ぶ”の?)
それだけ大事な妹とリタを呼び間違えるなど、普通はあり得ない。
「……妹さんと私――似ていたりするんですか?」
「…………っ!」
ラークが鞭で打たれたかのように顔を上げ、穴が開くほどリタの顔を見つめた。その視線の強さにリタはたじろぐと共に、気まずくはあるものの嫌悪感を抱いていないことに驚いていた。
(……怖くも、気持ち悪くもない)
無精ひげの監視員に見られたときは、背中を虫が這いずり回るような嫌悪感に襲われたというのに。ラークの視線には色欲や侮蔑が籠っておらず、凪いだ海のように穏やかで温かかった。
「…………ああ」
ひどく優しい声で、ラークが答えた。どこが似ているのかなどさっぱり分からなかったが、生まれてこの方、自分に似た人間などひとりも会ったことのないリタにとって、それはいくばくか心の軽くなる答えだった。
一縷の希望にすがるように、リタはラークに問いかけていた。
「妹さんも、白い髪に銀の瞳をしているんですか?」
「……ああ」
「…………」
やはり灰色ではないのだと気落ちしながらも、リタはラークに更に話しかけた。リタとラークの間にはまるでピンと張った糸電話が引かれているようで、この糸が切れない内は会話が続くような予感がしていたのだ。
「性格が似ている、とかですか?」
「…………いや」
「……じゃあ、具体的にどこが――?」
「…………」
リタの追及が激しくなるにつれ、ラークの頭がひどく痛みだしてきた。
(……思い、だせない)
シエラがどんな顔をしていたのか、どんな性格だったのか。なぜ自分は5年も彼女のことを忘れていたのか。――どうしてノワール軍に投降などしたのか、ここに囚われているのか……。
ズキズキと疼く頭の痛みを無視し、茨の垣根をかき分けるように、ラークは埋もれた記憶を引きずり出していった。
◇◇◇
ある夕方、ラークが外遊びを終えて夕方家に帰ると、玄関に立つ母のレイラに、見知らぬ子どもがしがみついていた。
『お帰り、ラーク』
『……ただいま』
『――この子は、シエラちゃんよ』
シエラと呼ばれたその子は、母の亜麻色のワンピースにぎゅっと抱き着いていた。顔は長い白髪に隠れていてよく見えない。
(……僕のお母さんなのにっ)
負けじとラークはシエラの反対側に回って、母のふくらはぎにくっついた。両足に子どもたちが絡まりつき、よろめいたレイラがバランスを取りながら膝をついた。
『……あそびにきたの?』
ラークよりも年下の女児は近所にいない。引っ越しの挨拶にしては、親の姿が見当たらなかった。
『おとうさんと、おかあさんは?』
『…………』
そう聞くと、母は眉を下げて黙り込んだ。しばらくラークの髪をなでた後、ゆっくりと口を開いた。
『……ねえ、ラーク。――セイラおばさんを覚えてる?』
『……おかあさんの……おねえちゃん?』
あんまり会ったことはないから、思い出すのに時間がかかってしまった。ラークが記憶していたことに安堵したのか、レイラの表情が少し和らいだ。
『そう、当たり。シエラちゃんは、セイラおばさんの子どもなのよ』
『えっ? じゃあ、おばさんもきてるの?』
セイラは村を出て、王城で侍女として働いていた。きょろきょろと家の中を見回すと、母がそっとラークの頭を抱きしめた。
『おばさんは…………いないのよ』
『……ふうん?』
歯切れの悪い母の言葉に違和感を覚える。しかし、いつになく強い力で引き寄せられて、ラークは何となく黙ったままでいた。
『これからシエラちゃんはね――この家で、一緒に暮らすのよ』
『えっ?』
びっくりしてもがくと、母は腕の中からラークを解放した。
『……どうして?』
『…………』
『おばさんは? いっしょじゃないの? おばさんのだんなさんは?』
『……遠くにいて、一緒に暮らせないのよ』
そうつぶやく母の頬に横髪がさらりと流れ、すっと瞳に影が差した。
(でも、どうして ぼくのいえに……)
7年間ひとりっ子で育ってきたラークには、ほかの子どもと暮らすなんて考えられなかった。弟ならまだしも、妹が欲しいなんて思ったこともない。
『やだよっ。かぞくじゃないじゃん』
『……っ』
子どもの少ないブランでは、生まれた子どもは非常に大切に育てられる。よほどの事情がない限り、養子や孤児院に出されることはなかった。両親と彼らから生まれた実子で成り立っているのが、ブランにおける“普通の家族”だ。ラークが抵抗感を覚えるのも無理はない。――しかし姉を失ったレイラに、息子を気遣う余裕はなかった。
『いたっ!』
目にもとまらぬ速さで、レイラの平手がラークの頬をパンッと打った。
『……そんなこと、二度といわないで』
『…………』
『……お願い――ラーク』
赤くなった頬を抑えて尻もちをつくラークに、母が手を差し伸べることはない。レイラは目じりに涙を浮かべて、唇をふるふると震わせていた。
『シエラちゃんは、私たちの子どもになったの。“家族”なのよ』
『……っ』
『ラークはシエラちゃんより、ふたつも年上でしょう? ――あなたは“お兄ちゃん”になったのよ』
そんなことを言われても、到底ラークには受け入れられそうもなかった。叩かれた頬がじんじんと痛い。ラークの心を満たしているのは、いつも穏やかな母をこんなにも怒らせてしまい、嫌われてしまったのではないかという不安な気持ちだけだった。
『……夕飯にしましょう』
母がよいしょっと立ち上がり、右手はシエラとつないで、左手はラークへと差し出した。
『……っ』
レイラはただラークに向かって手を伸ばしただけだが、ラークは先ほど迫ってきた手を思い出し、反射的に目をつぶってしまった。その様子を見て、母がはっとしたように手を握りしめた。
『……ごめんね』
ラークが目を開けると、シエラと手をつないだ母の姿が居間へと消えていった。