望み
シャルム・ブランという名を捨てた。それはすなわち、ブラン王族としての立場も故郷とも縁を切ったということだ。行方をくらましていたシャルムが、黒に染まった姿で現れた時点で察してはいたが、カルムの表情が目に見えて曇った。
「兄上を追い詰めたのは、お前だね?」
「…………」
「父上と母上も、手にかけるつもりかい?」
真摯に問いかけるカルムをあざ笑うかのように、シャルムがちらりと背後の主屋を振り返った。
「もう――手遅れですよ」
離れまでシャルムが達している時点で、もう王城内の守りはあってないようなものだ。王城の隠し通路から警備まで網羅している彼が手引きしていれば、内側へ潜り込むのは造作もないことだっただろう。父と母を助けたくとも、弱り切ったカルムにできることなど無いに等しい。
腹から上がってくる酸っぱいものを、ぐっとこらえるように、カルムは歯噛みした。強く噛み締めすぎたせいで、唇の端が切れ、一筋の赤い線が顎をなぞっていく。なぜ弟は、こんなことをするのだろう? 問いただしたいと願う一方で、カルムの胸を満たしていったのは、両の掌が透けていくような無力感だった。
「……すまなかった」
いきなり謝罪の言葉を口にしたカルムに、シャルムが数歩後ずさった。てっきり怒りや悲しみをぶつけられるものとばかり想定していたのに、兄が何を考えているのか、シャルムには皆目見当もつかなかったのだ。
(……忘れていたな。兄上は“こういう人”だった)
人の心の機微を読み取ることに長けていたシャルムは、自分がどんな行動をとれば、相手がどう返してくるか、大抵予測することができた。こんな風に煽り、傷つければ、“普通の人間は”シャルムを敵とみなし、攻撃してくる。しかしカルムは昔から、型にはまらない態度でシャルムを翻弄してきたのだった。
「お前が苦しんでいることを、私は知っていたのに……」
カルムはセナに肩を借りると、起き上がってシャルムに手を伸ばした。この期に及んで兄が自分に歩み寄ろうとし、触れようとしているのだと気付いたシャルムは、無意識に腰に差した短剣に手をかけていた。それを見ても、カルムはたじろぐことなく、シャルムの目を正面から見据えた。
「……私のことも、殺すつもりかい?」
まるで夜眠る前に、窓から見上げた月のように、穏やかで優しく静かな声。セナがハッとし、いつでも対応できるようにと、短剣を握っていた手に力を籠めた。そんな二人を前に、シャルムはなかなか短剣を――兄であるクラージュの命をも奪った獲物を抜くことができなかった。
「……構わないよ」
一触即発といった空気の中、先に沈黙を破ったのはカルムの方だった。何を言い出すのかと、止めに入ろうとするセナの肩をトントンと叩き、落ち着かせるように弱弱しく微笑む。
「私の命は、もう長くはない。それで、お前の“望みが叶う”なら――」
「…………っ」
「喜んで、この命を差し出すよ」
望み、とカルムが口にした途端、シャルムの頬がピクリと引きつった。
「私の、望みなど――」
知りもしないくせに、と柄にもなく大声を出しそうになってしまった。ブラン王族は根絶やしにするのだと、覚悟を決めたはずなのに、なぜこうも身体が言うことを聞いてくれないのだろう? 気にかけてほしかった。心配してほしかった。――愛して、ほしかった。そんな幼稚な感情に、シャルムは思考を支配されていってしまう。
そこへ割って入ってきたのは、喉に引っかかったような、裏返った少女の声だった。
「……やっ、やめて――ください」
一同の視線が、部屋の中央で両手で自分を抱きしめるようにして、震える足で立っているリタへと集中した。
「……こ、殺さないで、く、ください」
歯がガチガチと鳴るせいで、普通に話すこともままならない。気を抜けば今にも、その場に膝をついてしまいそうだ。シャルムがどんな顔をしているのか見るのが怖くて、リタは下を向いたまま、命乞いを続けた。
「……で、殿下は、私に――私なんかに、服や、食べ物をくれました」
「…………」
「……お話も、たくさん、してくれて――」
だから、と言い募るリタの前で、シャルムが一歩踏み出した。セナが素早く反応し、カルムへの接近を許すまいと、先手を打って斬りかかっていく。
「よせっ、セナ!」
カルムの制止もむなしく、飛び込んでいったセナの攻撃は、シャルムに軽くかわされてしまった。支えを失ったカルムが倒れそうになり、リタは慌ててカルムのもとへと駆け寄った。シャルムは目にもとまらぬ速さでセナの腕をつかみ、彼女の耳元へぐっと顔を近づけると、口早に何か囁いた。
「……しなさい」
カルムの唇がセナの耳から離れるが早いか、セナが自らの首筋に短剣を当て、ぐっと押し込もうとした。
「やめろ!!」
髪を振り乱してカルムが絶叫すると、シャルムはどん、とセナの背中を押して、カルムの方へとセナを突き返した。強い精神干渉魔術を受けたせいか、セナは気を失ってしまっていた。受け止めようにも、カルムとリタでは力が足らず、3人まとめて絨毯に倒れこんでしまった。
「……わっ」
セナが掌にともしていた明かりが消え、部屋がまた暗がりに包まれる。廊下から差し込む薄明かりだけが、シャルムを後ろから照らしていた。
肩をすくめたシャルムは、ようやく邪魔がいなくなったとばかりに、大きくため息をついた。それから、夜会でダンスに誘うかのように美しい所作で、リタの前に手を差し伸べ、彼女の髪やワンピースに目を留めた。
「随分と手厚くもてなされていたんだね」
「……?」
「兄上には、確かに感謝した方がいい」
何を言っているのかは分からないが、先ほどまでとは打って変わって、口説くような甘い口調に、リタの脳の芯がじんじんと痺れていく。
「この娘に免じて、見逃すことにしましたよ。他の兵が来る前に、逃げ切れるかは知りませんがね」
「……シャルムッ」
父と母、それから兄にまで手を下した弟が、自分だけは助けようとしているという事実に、カルムは一層胸が締め付けられるように痛んだ。これ程までに、シャルムにとって自分が大きい存在であったなど、カルムは知らなかった。
(いっそ、一思いに息の根を止めてくれれば――)
罪の意識からも、病の苦しみからも逃れることができたのに、と不謹慎な考えが頭をよぎる。セナの肩を抱いたまま、カルムがうつむくと、顔の周りを覆うように、白い髪が垂れ下がった。
シャルムはリタの手を強引に取って立ち上がらせると、リタの腕から肩に電流のような痛みが走った。リタが顔をしかめても、シャルムが腕を離すことはなく、そのまま抱き寄せられてしまった。鼻と鼻がぶつかるほど近い距離で、シャルムの洞窟のように深く暗い瞳がのぞき込んでくる。
「私とともに、おいで」
「…………えっ?」
掠れた声がリタの口から洩れると、シャルムが唇をゆがめて笑った。洞窟の奥から、熱くなったリタの頭をすっと冷やすように、細く速い水流がなだれ込んでくる。その流れに抗うように、リタは顔をそむけたが、後頭部をがっしりと掴まれ、目をそらせないようにされてしまう。
シャルムの吐いた息が、リタの唇を湿らせた。
「――“お母さん”が、待っているよ」
母という単語が鼓膜を揺らした瞬間、リタはもう一度シャルムと目を合わせてしまっていた。
「……お、お母さんが?」
「そう、君のお母さんだ」
「……ほ、ほんとうに?」
母親に会いたいという、幼いころからずっと抱いてきた切なる願い。その核心をつかれたリタに、シャルムは持てる魔力の半分以上をつぎこみ、強い魅了の魔術をかけた。
くらくらとする頭でリタが頷くと、シャルムは彼女を抱き上げ、カルムの部屋を去っていこうとした。カルムが後ろで何やらせき込みながら叫んでいたが、その声を閉じ込めるように扉を閉め、振り返らずに廊下を歩いて行った。
――リタには、シャルムが本当に自分の父親なのか、母のことをどうして知っているのか、聞きたいことは山ほどあった。だが、黒い濁流がその全てを押し流し、跡形もなく呑み込んでいってしまった。




