寝言
先程眠ってしまったせいか、時計の針が深夜1時を指してもリタは寝つけなかった。ラークの監視員には囚人の部屋をいつでも監視できるよう、向かいに専用の個室が設けられている。
(……どうしても、眠れない)
することもなく寝そべっていると、益々目が冴えてきてしまう。結局ラークは夕飯を摂らなかったため、冷え切った食事をリタが全部食べることになった。
(折角なら、温かい内に食べたかった……)
とはいえ、久しぶりにお腹いっぱい食べることができて満足しているのも事実だ。日誌の続きでも読んで時間をつぶしたいところだが、あいにく監視部屋に置いてきてしまった。そろそろと音を立てないように部屋の戸を開け、監視部屋の様子を伺う。
(眠っているのかな……?)
――暗闇に沈んだ独房からは何の音もしない。リタは夜目が効かないため、ラークの輪郭は愚か居場所すら掴めなかった。そっと部屋を出て、手で壁を探りながら伝い歩いていく。テーブルの上に置いてあった日誌を取ろうとして、ザラリとした紙に指先が触れたときだった。
「…………シエラ」
押し殺したような小さな声が、リタの耳に届いた。
(…………ラークの、声!?)
壁に右手を突き、もう片方の手をテーブルへと伸ばした不格好な姿勢のまま、リタはハッとして身体に力を入れた。
「…………シエラっ。行くな、…………シエラ」
胸がつまるような、切ない声だった。悪魔の異名とは似ても似つかない、か細く震えた声。もっと良く聞こうと腰を屈めた瞬間、トンと指先で日誌を押してしまう手応えがあった。
――バサバサバサッ
伸ばした手が届くことはなく、無情にも日誌は床に落ちた。流石に起こしてしまったのか、柵の向こうでラークが身じろぎする衣擦れの音がした。
(…………まずい!)
寝言を盗み聞いてしまったのがバレた確証はないが、一刻も早くこの場を離れた方が良いだろう。落とした日誌をひっつかむと、リタは小走りで部屋へと戻った。
◇◇◇
翌朝リタが監視部屋へ戻ると、ラークはもう起きていた。今日は寝そべるのではなく壁にもたれ掛かって、こちらを向いて座っている。
「……おはよう、ございます」
「…………」
反射的に挨拶をしたが、返事はない。
(……なんで、こっちを見てるんだろう?)
無言で見られ続けるのは、居心地が悪い。彼に背を向けるように椅子に座り、リタは部屋から持ってきた日誌を開いた。
(……昨日、やっぱり起こしちゃったのかな?)
冊子を落として、あれだけ大きな音を出してしまったのだ。何かおかしなことをしていたと思われていても、不思議はない。――ピリピリとした空気にリタが耐えられなくなってきた頃、バンッと戸が内側に向かって開いた。
「おいっ、朝食だ!」
取りに来い、とばかりに無精ひげの男が睨んでいる。昨日よりも強気な態度に、リタはしり込みしながらも盆を受け取ろうと近づいた。しかし彼女が両手を広げても、男は顔や胸を嘗め回すように見るばかりで、食事を渡そうとしない。
「……あの」
上目遣いに見上げると、男がにやりと口の端をつり上げて笑った。黒いひげがグニャリとうねる。
「貧相なナリだが、――顔はキレイだな」
「……っ!」
ぞっとして、リタは盆をもぎ取ると逃げるように机へと戻った。下卑た笑い声が、背を向けた戸口へと遠のいていく。男の声が完全に聞こえなくなった後も、リタの心臓はドクドクと脈打っていて動けなかった。
(……怖い)
こんな色をしていても、リタは顔立ちは整っていると今までにも何度か言われたことがあった。――形の良い眉に薄い唇、そして柔らかい印象を与える下がった目尻。
(……浅はかだった)
監視業務を行うのがひとりでも、地下牢から出られない以上、食事の世話をする者との接触は避けられない。人目がないということは、あのような男がいても気付いてもらえない、助けも来ないということだ。
「……っ」
ラークの食事を分けながら、リタは手の震えには気が付かないふりをした。今日の朝食はパンとスープだ。リンゴがないことに少し落胆したが、毎食果物を食べられるのなんて、貴族くらいだろう。
「……どうぞ」
暗い顔で小窓から盆を差し入れるリタを、ラークは遠くから見ていた。盆を置いて顔を上げると、長い前髪から覗く銀色の瞳と目が合う。
「…………」
ノワール人の黒とも、リタの灰色とも違う目の色をした囚人。彼はどんな顔立ちをしているのだろうとじっと見ていると、ふいとそっぽを向かれた。
その後ラークが柵に近づくことはなく、またリタが残飯を食べることになってしまった。
◇◇◇
2人分の食事を摂ったせいで、あまりお腹は空いていない。けれど、時計の針は着々と正午へと近づいており、12時半頃扉がノックされた。
「…………」
朝の件があったため、できればあまり戸口には近づきたくない。しばらくすると、開けてもらえることは無いと悟ったのか、ゆっくりと扉がこちらに向かって動き出した。
「……昼食です」
扉から顔を出したのは、まだ年若くひょろひょろとした少年だった。監視員ではなく、厨房で働いているのかもしれない。リタは例の男でなかったことに安堵しつつ、ぐらぐらと揺れている盆を見て慌てて彼に駆け寄り、ひょいと食事を受け取った。
「……ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
重い盆から解放された少年はぺこりと頭を下げると、ぴょんぴょんと走り去っていった。食事を持ったまま扉を開けるのは大変だったに違いない。
(……悪いことをしちゃったな)
知らなかったとはいえ、少し罪悪感を覚えた。
相変わらずラークは壁際に寝そべり、こちらに背を向けている。いつものように食事を渡しても、彼が動き出す気配はなかった。――これでもう3度目だ。
「……あの」
意を決して、口を開く。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせながら。
「…………これも、食べないんですか?」
「……?」
「……いらないなら、温かい内に食べたいなって……」
尻すぼみに声が小さくなっていく。でも、おかしなことは言っていないはずだ。この人は確かに恐ろしい囚人かもしれないが、リタは置物のように大人しくしている姿しか見たことがない。こんなことで激情するとは思えなかった。
「…………」
「……わっ」
壁の方を向いたまま、ラークがゆっくりと身を起こし、そのまますっと立ち上がった。――ずっと寝ていたとは思えないほど、滑らかな仕草だ。
「…………」
ラークは一言も話さないまま、柵へと幽鬼のようにゆらゆらと歩み寄ってくる。
(……うそ!? 怒ったの?)
距離を取ろうと思うものの、凍り付いたように足が動かない。そんなリタの目の前にしゃがみ込み、ラークがすっと盆を持ち上げた。
(……えっ?)
ラークは食事を持ったまま、文字通りあっという間に壁際へと戻っていった。壁に背中を預けて座り込み、もそもそと食事を始める姿に、リタの肩の力がどっと抜けた。
「…………っ、はあ~」
間近で見たラークの所作には、のんびりしているようでまるで隙がなく、その気になれば、リタなんか簡単に殺せてしまうのだと痛感した。
(……でも)
文句を言ったり、脅されるようなことはなかった。今だって、素直に食事を摂ってくれている。
(……そんなに、悪い人じゃないのかも)
――リタの中で、ラークに対する恐怖心が少しずつ和らぎ始めていた。