涙雨
雨が窓をたたく音で、リタはうっすらと目を覚ました。部屋の中は日が暮れたかのように薄暗く、テーブルの上に置かれたランプだけが、ぼんやりとした明かりを放っている。
そのお陰で、椅子に縛られているディルと、彼の向かいでテーブルに寄りかかっているテオドールの姿が、かろうじて見て取れた。ディルはだらんと前にうなだれており、起きているのかどうかもよく分からない。
(……わたし、どうして――)
鈍く痛む頭を片手で抑え、リタは何があったのか思い出そうと目を閉じた。
(……そうだ)
先ほどトーマスから、自分はラークにとって、妹の代わりでしかないと告げられたのだ。はじめて触れた温もりは、やはりリタへ向けられたものではなかった。
(……薄々気付いていた、ことだもの)
沈んだ気持ちを振り払うように、身を起こして部屋を見渡すと、ラークとトーマスの姿がどこにもない。
「……あの」
「気が付いた?」
遠慮がちに声をかけると、窓の外を流し見ていたテオドールが振り返った。七三の髪に銀縁眼鏡――この数日で見慣れたトーマスのチャームポイントに、テオドールが他人と分かっていても、リタは親近感を覚えずにはいられなかった。
「君のこと、“リタちゃん”って呼んでもいいかい?」
中尉がそう呼んでいたから、と敬語を取り払って話すテオドールの口調も、どことなくトーマスを真似ているような感じだ。
「……は、はい。構いません」
「よろしくね、リタちゃん」
断ると面倒そうなため、リタはやむなく頷いたが、笑顔を取り繕うくらいには、彼に心を許してはいなかった。
「……えっと、それで――」
リタの聞きたいことは口に出さずとも分かったのか、テオドールが戸口の方を見やった。
「リタちゃんが気を失ってから、まだ数時間も経っていないよ。中尉とラーク・ミュセルは、裁判に行ったままだ」
「……そう、ですか」
この部屋へと移動したときには、時計は正午近くを指していたはずだ。外がこんなに暗いのは、きっと嵐が近付いているせいなのだろう。ガラス窓を滑り落ちる雨粒を目で追っていたリタは、ふいにお腹がキリキリと痛み出したせいで、昨日の夜から何も食べていなかったことを思い出した。
(……何でもいいから、何か口に入れたい)
喉もカラカラに乾いていて、空腹もここまで切羽詰まってくると、もう食べ物のことしか考えられなくなってきてしまう。無意識にお腹をさすり始めたリタを認めて、テオドールは寄りかかっていたテーブルの上から麻袋を引き寄せると、小脇に抱えてリタのもとへとやって来た。
「リタちゃんの着替えと食事だよ。殿下の計らいだって」
「……えっ?」
聞けば、リタが眠っている間に、カルムの指示でセナが持ってきてくれたのだという。リタは受け取った袋を膝の上に置くと、恐る恐る中に手を入れてみた。指をかすめただけで上質な生地だとわかる布を引き出すと、しっとりとしたラベンダー色のワンピースがこぼれ出た。
「……きれい」
「驚いたな」
ワンピースというよりもドレスに近いそれは、お姫様や貴族が着る衣服のようだ。リタは心をときめかせる一方で、恐れ多くて袖を通せないとも感じてしまった。
「カルム殿下は、君が本当に“シャルム殿下の娘だ”って信じてるみたいだよ」
「…………」
ブランでは、家族や恋人などの大切な女性に、紫の衣服を贈るのだという。それを聞いたリタの手の中で、軽やかなワンピースがずしりと重くなっていった。
「だから、いろいろ思うところがあったんじゃないかな」
確かに、リタの格好が見るに堪えないものであったことは、否定できない。ぶかぶかの黒い監視服も、レーヴのものである小さなローブも、リタのサイズには合っておらず、その上全体的に煤けていた。汚れに関しては、ほぼほぼラークのせいといっても過言ではないが。
「食べ物も入ってるらしいよ。僕はもう食べたから、気にせず食べな」
「……は、はい」
テオドールは見た目こそトーマスに似せているが、醸し出す朗らかな空気がトーマスとは全然違うとリタは感じた。トーマスも優しいが、彼はもっと穏やかで、テオドールのような明るさは無い。
リタは皺にならないよう、ソファへワンピースをかけようとして、そこに残されていた紫のリボンに目を留めた。
(……断ったのに)
ラークは、リタの意識がないのを良いことに、置いていってしまったのだろう。卑怯な行いに良い気はしなくて、リタは見なかったことにすると、もう一度麻袋の中へ手を入れた。
(……あたたかい)
まだほんのりと熱を持つ紙の包みには、丸くふっくらと焼けたパンが5つも入っていた。包みを開けた瞬間に立ち上った香ばしい匂いに、リタは何か思うよりも早く、無我夢中でパンを口へと詰め込んでいた。口いっぱいにほおばったせいで、ゴホゴホとむせてしまうリタに、テオドールが苦笑しながら水を差しだした。
「中尉が君を気に入っている理由が、何となく分かったよ」
「……?」
(……トーマスさんが、私を気に入っている?)
何か大きな誤解が生まれているような気がしたが、パンを水で必死に流し込んでいるリタに、訂正する余裕は無かった。
「ほんと、中尉は“こういうの”を放っとけないんだよな」
僕も含めてだけど、とテオドールが自嘲気味に笑った。冷静沈着を装ってはいても、トーマスが本当は情に厚い人間だと、テオドールは信頼していた。この娘は、捨て犬さながらにみすぼらしいなりをしているが、悲壮感漂うその中には純粋さと潔白さが見え隠れしている。こういう子どもみたいな人に、彼は惹かれるのだ。
「リタちゃん、見る目ないよね。僕だったらラークなんかより、絶対中尉が良いよ」
「……っ!?」
「あんな朴念仁の、どこがいいの? 顔?」
――突然振られた話題は、色恋沙汰としか思えないもので。リタは口に含んでいた水を危うく吹き出してしまいそうになった。
(……い、いきなり何!?)
たった今、自分は何を聞かれたのだろうか? ラークの好きなところ? いや、そもそもラークが好きだなんて、そんな風に思ったことなんて――。そこまで考えて、熱く脈打っていたリタの心臓は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
(……あの人にとって、私はシエラさんの代わりでしかないのに)
あんな兄がいたらと、家族がいたらと、そんな風に幻想を抱いていただけだ。ラークに対して、そんな感情を抱いたことは――なかった、はずで。
「そんなに驚かなくても……。妹に見られてショックを受けるってことは、好きなのかなって思っただけなんだけど」
軍曹もそう思いましたよね? と、テオドールはよりにもよって、ディルに尋ねた。ゆらりと顔を上げたディルの隻眼とリタの目が合うと、何か痛々しいものを目にしたようにディルは目をそらした。
「あれは、――心のない化け物だ」
その一言を聞いて、リタの頭に上っていた血がすうっと引いていった。リタはまだ、ラークのことを何も知らない。口数の少ない彼と交わした言葉は、数えるほどしかなくて。倉庫で過激派を焼き払ったラークは、まさしく化け物――悪魔としか例えようがないほど、恐ろしく非情だった。
(……でも、心を取り戻したら、きっと――)
“本当の”ラークは、妹を守るために心を差し出すような優しさを兼ね備えているのではないだろうか? リタを何度も守ってくれたあの手が、彼の“本質”なのではないだろうか?
そう信じたいと思っている自分の気持ちが何なのか、リタは突き詰めて考えるのが恐ろしかった。
――リタが食事と着替えを終えても、ラークとトーマスは裁判から戻ってこなかった。物置部屋に身を潜めた3人が、魔女の襲来を知るのは、もう少し先のことである。




