半分のリンゴ
「……おいっ、起きろっ」
苛立った低い声で、リタは目を覚ました。がばりと起きあがると、勢いで日誌が下に落ちる。ようやく場所が空いたとばかりに、無精ひげの男が机に食事を置いた。盆の上に乗ったパンが2個、スープが2杯、――それからリンゴがひとつ。
「初日から居眠りとか、正気とは思えないなっ」
「…………」
吐き捨てるように呟かれ、リタは身を固くした。窓の無い地下牢では、今が何時なのか時計を見なければ分からない。ここに来て最初に運ばれてきた食事だから、夕食だろう。
(……勤務初日に、眠ってしまうなんて)
ほかの監視員と思われるこの男が、看守長に言いつけないことを祈るしかない。彼は小さくなるリタの顔をじろりと見ると、薄ら笑いを浮かべた。
「まあ、図太いのは良いことか。――今度は何日もつかな」
(…………何日もつって。そんなにきついのかな、この仕事)
長居は無用とばかりに男が去った後も、リタの心には小骨のように不安な気持ちが引っかかっていた。けれど、漂ってくる良い匂いに、そんな思考は吹き飛ばされてしまう。
「……よし、食べよう」
声に出すと、心なしか元気が出た。ラークの分を準備しようと、重ねられたお盆を1枚引き抜く。パンとスープを乗せた盆をもって、鉄格子に近づいた。
鉄格子には、下の方に食事を受け渡せる小窓が付いている。牢に机は無いので、仕方なく床にそのまま置いた。
「……ご飯、冷めない内にどうぞ」
白い獣は、壁の方を向いたまま動かない。食事が冷めるのをみすみす見逃すなんて、もったいないこと至極だ。待つ義理もないので、リタはありがたく自分の分にありついた。
「……おいしい!」
パンがフワフワだ。リタは料理店では売れ残った冷えたパンを食べていたため、口当たりの良さに感激していた。スープもカボチャを潰しただけのものだが、薄められておらず味が濃厚だ。ガツガツと食べ進め、リンゴを手に取ったところで、リタははっと我に返った。
(…………ひとつしかない)
日光というものはとても大切で、浴びないと病気になるらしい。看守長からも、長く監視を続けるためには、出された食事を完食して栄養をしっかり摂るよう言われていた。――リンゴは栄養価が高い。リタも数えるほどしか食べたことがなかった。
(……でも、私だけ食べるなんて)
日誌には、ラークは3日も食事を抜かれたことがあると書いてあった。それが本当なら、彼はリタよりも辛い目にあってきたのかもしれない。
(……別に、分けてあげたわけじゃないわ)
悩んだ末、リタは小さな果物ナイフで、リンゴをえいっと半分に割った。監視としては、あるまじき行為だろう。再び柵の側へ近づくと、顔を背けてさも不本意だというように、盆の上にリンゴを置いた。
「……お腹がいっぱいだから、食べきれなかっただけですっ」
思ったよりも、キツい声が出なかった。誰かに見られるのはごめんだったので、すぐに立ち上がるとさっさと椅子に戻った。
◇◇◇
先ほどリタが食事を渡しに来た気配に、ラークはとうに気が付いていた。――だが、もう一度近付いてきた理由は分からなかった。
(……毒でも入れたのだろうか? それとも、見せしめのように取り上げたのかもしれない)
どちらにせよ、反応しないのが得策だ。床に寝そべったまま、だんまりを決め込むラークの耳に、ひどく震える声が飛び込んできた。
「……お腹がいっぱいだから、食べきれなかっただけですっ」
(……何を、言っているんだ?)
あれだけ痩せた人間が、収容所で出てくる半人前にも満たない食事で、腹が満たされるわけがない。あくまで自然を装って寝返りを打つと、小窓の下にパンとスープ、それから――半分に割られたリンゴが映った。
(……リンゴ?)
監視が果物を食べているのはよく見かけたが、そんなものが自分の食事に出てきたことはなかった。自らに与えられた貴重な食料を罪人に分けるなど、常人の行動とは思えない。
(……何を考えている?)
少女を監視にあてたのは、警戒心を解くためのノワールの策かもしれない。だから、すぐに手を付けることはしなかった。少しずつ変色していくリンゴを眺めていると、ふっと傍らに妹の小さな手が浮かび上がった。
『はい! お兄ちゃんにも半分あげる』
シエラの白い手には、いびつな形に切られたリンゴが乗っていた。子どもの手には余る大人用の果物ナイフで、スルスルというよりもギリギリと皮をむいたのだろう。やわらかい手の平を汁がつたい、左腕にはめた白銀の輪を濡らしていた。
『……お前それ、隣の畑から盗んできたリンゴだろ』
『1個くらい大丈夫。ほら、早く早くっ』
言うが早いか、シエラはラークの口にリンゴを突っ込んだ。
『……ごほっ。お前なあ……』
『えへへ。バレたら、お兄ちゃんも一緒に謝ってね』
シエラが肩を揺すって笑う。白い髪を束ねた紫のリボンがふわふわとたなびいた。
――かわいいシエラは、もうこの世にはいない。
ラークはシャツのポケットの中から、汚れて黒ずんできたリボンを取り出した。形見に遺されたのは、擦り切れてボロボロになったこの紫のリボンだけだ。
「…………」
もう一度寝返りを打ってリンゴを視界から消すと、ラークはぎゅっと固く目をつぶった。シエラの手とリンゴの残像が、瞼の裏に焼き付いたように離れなかった。
◇◇◇
そのころ、地下牢の上に建てられた監視塔では、看守長が窓枠にもたれかかって夜空を眺めていた。
(星がきれいだ……)
無骨な男には似合わないかもしれないが、今は地上にいられる幸せに浸っていたかった。
――7日前、ラーク・ミュセルに付けた20人目の監視が使い物にならなくなり、エドガー自らラークの監視業務にあたることになってしまった。
(あんなもの、人の仕事ではない……)
月に一度の王城会議が近づくと、やっとエドガーは部下へと代理を頼んで地下牢を出ることができた。監獄へと戻るのが億劫で、会議が終わっても長々と席に残っていると、彫像のように美しい軍人がエドガーに声をかけてきた。
『……なにか、お困りですか?』
彼が首をかしげると、黒髪の間で左耳から下げた耳飾りがゆらゆらと揺れた。白銀の耳飾りには、青い宝石がはまっている。
『確か、テヌール収容所で看守長をされていらっしゃるとか?』
『……よく、ご存じで』
『ラーク・ミュセルが収容されていますからね……。私はリシャールといいます』
彼はテヌールによく足を運ぶらしく、馴染みの料理屋の煮込み料理が絶品だと語りだした。エドガーはあまり外で食事を取らないため、適当に相槌を打っていると、急にリシャールが顔を近づけてきて耳打ちした。
『そうそう、珍しく混血児が働いているんですよ。リタって子で……とても働き者でね』
『……はい?』
『是非行ってみてください。――きっとお探しのものが見つかりますよ』
くらくらするような美貌にぼうっとなり、エドガーは木偶のようにうなずいていた。男は満足したように笑うと、耳飾りを揺らして会議室を出て行った。
――リタをラークの監視に充てるため、自身は利用されたに過ぎないなど、エドガーには知る由もなかった。