光
はあはあと荒く息をするラークの姿を見て、リタがベッドから降りて彼の傍らにしゃがみ込んだ。
「……大丈夫?」
リタの位置からは前髪が顔にかかっていてよく見えないが、気を失っているようだ。トーマスが遠目に伺い見て、落ち着かせるように声をかけた。
「魔力切れだね。無茶しすぎたんだよ」
限界を超えて魔術を使うと、後でその反動が来て頭痛や疲労感に襲われたり、寝込んでしまうことがある。自分を助けるために、何度も魔術を使っていたラークの姿を思い出し、リタは沈黙した。
「それ、かけてやって」
トーマスが指さしたのは、リタのベッドの上に畳んでおいてある薄手の毛布だ。リタは座ったまま毛布を引っ張っておろすと、ラークの上に大きな身体がはみ出ないように毛布をかけた。
そのままラークの寝顔を見つめていると、トーマスがよいしょっとベッドを降りて歩み寄り、リタの頭をそっと撫でた。
「リタちゃんのせいじゃない」
「……でも」
誰かが自分のために動いてくれたことも、それで傷ついてしまったことも、リタには初めての経験で。親のいないリタに、酷く甘美に映った他所の家族のそれは、いざ体感するとなんとも苦い後味を心に残した。
「……良く、なりますか?」
「ああ、数日もすれば元に戻るさ」
リタちゃんがそんな顔してる方がこいつにはダメージだろうな、とトーマスがリタに微笑みかける。こうしていても仕方がないと、ベッドの上に戻ろうとしたリタは、ふと視線を感じて振り返った。
(……え? なんで?)
床の上で縛られたディルがじっとこちらを見ており、気まずくてすぐに目を反らすも、ガラガラとした低い声に呼び止められてしまう。
「……そいつは、ノワール人を数えきれないほど殺した」
「…………」
「なぜお前は、ブラン人を――俺を憎まない?」
ディルの顔には乾いた茶色い血がこびり付き、右目だけが砂漠に湧き出したオアシスのように潤んでいた。
(ブラン人を――憎む?)
一縷の望みにすがるようなその瞳は、生半可な答えでは納得してくれそうもない。そうは言っても、2国間の歴史をきちんと学んだことのないリタにとって、ブラン人は“ブラン人だから”という理由で、憎むに足る存在ではなかった。
(……どうしてって、言われても――)
ブラン人であるラークは、リタを兄のように守ってくれて、トーマスはこれまで会った誰よりも優しく接してくれる。一方、襲いかかってくる兵士達やディルは恐ろしく、彼らが自分にしたことを、どんな事情があったとしてもリタは許す気になれそうにない。
(……でも)
それでもディルを助けるようラークに頼んだのは、『ミナ』と叫んでいた彼の横顔が焼き付いたように離れなかったからだ。
「……私は、あなたのことを何も――“知りません”」
「…………」
「……ただ、あなたにも、誰か大切な人がいたんじゃないかって、そう思ったんです」
リタは服の裾をぎゅっと掴んだ。心の内を晒すように紡がれる言葉が呼び水となり、自分の中から何かがあふれ出していく。その波がディルに達すると、雷に打たれたかのように、彼の体の動きが止まった。
「あ、ああ……」
見開かれたままの瞳は充血するように赤くなっていき、下瞼に涙が溜まっても瞬きひとつしない。口からは言葉にならない声が漏れ出て、よだれが顎を伝って床にぽたりと落ちた。
「……私、孤児なんです。だから親の顔も、自分がなんでこんな色をしているのかも知りません」
「……?」
「でも、ひとつだけ信じていることがあって」
ディルが、ゆっくりとひとつ瞬きをした。目尻から流れ落ちた涙が、頬に張り付いた血を溶かしていく。
「同じ夢を、何度も見るんです」
「……夢?」
はい、と頷いたリタは監視服の襟に手を入れると、チェーンをつまんでパールのペンダントを引き出して見せた。
「これ、私の『お守り』なんです。これを握って寝ると、夢に女の人が出てきて――」
「…………」
「私に笑いかけてくれる。――ただ、それだけなんですけど」
幼い頃から、何度なくリタを励ましてくれた夢。ひとりぼっちじゃないと、自分は確かに愛されているのだと、家族も友人も仲間もいない人生で、リタが真っすぐに育ってこられたのは、他でもないこの夢のおかげだった。
「……きっと、あれはお母さんなんじゃないかなって、思うんです」
疲れ切って眠る夜も、周りと違う容姿に絶望して枕を濡らした夜も、“お母さん”が優しく髪をなでてくれると、ぽかぽかと陽だまりに包まれるような温かい気持ちになる。
穏やかな笑みを浮かべて話すリタの姿に、復讐の化身のようだったディルがすっかり毒気を抜かれているのを、トーマスは信じられない面持ちで見ていた。倉庫でラークの暴走を止めた時といい、この小さな少女が紡ぐ言葉は堅物の軍人にも素直に届いているようだ。
(……僕だって)
かくいうトーマスもまた、リタに対して妹のように接してしまっている。――王家にも引けを取らない魔力量と灰色の髪を持ち、頑なな心を溶かす不思議な雰囲気をまとう少女。彼女の力はまるで、ブランの初代王の固有魔術である“開心の力”のようだ。
(……考えすぎか)
彼女の謎を解くには、まだピースが足りない。
◇◇◇
ミナの死を突き付けられたあの日、俺の世界から光は消えた。
もうこの世のどこにも、家と呼べる場所はない。腹の底からじんと広がるような、温もりに包まれることも、この手に我が子を抱き喜びに震えることもない。
(……もう俺には、何も残っていない)
そう思っていたのに、灰色の目をした少女の言葉が、ぐずぐずに淀んだドブをさらうように、ディルの心をかき乱していった。
『……あなたにも、誰か大切な人がいたんじゃないかって――』
いたさ。命に代えても、守ると誓った妻が。待ち望んでいた新しい命が。俺の守りたかったものは、全部ノワールに破壊された。奪ったのはお前らだ。
『……私、孤児なんです』
孤児、と言われて真っ先にディルの頭に浮かんだのは、黒い髪を持つ赤子の姿をした、おぞましい怪物だった。
『これを握って寝ると、夢に女の人が出てきて――』
夢の話を始めると、少女のまとう空気が変わった。どす黒い泥の中に一筋の光が差し込み、濁った水が少しずつ澄んでいく。はにかみながら彼女が放った次の一言に、ディルの頭にはガンと殴られたような強い衝撃が走った。
『……きっと、あれはお母さんなんじゃないかなって、思うんです』
子にとっての母親という存在の重みが、ディルの胸にずしりとのしかかった。この娘はこんな色をして生まれてきて、楽な人生を歩んできたとは到底思えない。辛く険しい道のりを、ただ母と思しき女の夢にすがって耐え忍んできたのだ。
(あの赤子には……)
母親はいない。父親である自分も、あの子を見捨てた。ミナを殺した赤子がどうなろうと、ディルの知ったところではなかった。第一、ディルとあの赤子との間には、血の繋がりだってない。――しかし今、ディルの心臓は氷水に漬けられたように冷えていた。
ミナが遺した、彼女の血を継ぐ生きた証を、自分は化け物と切り捨てたのだ。やりきれない思いを追いやるように頭を振ると、灰色の瞳と目が合った。
『…………』
凪いだ水面のように、たおやかな笑みを浮かべた少女はそれ以上何も言わなかった。清らかな彼女の精神を支える母親からの一途な愛を、哀れなあの子は味わったこともない。ミナはこの世を去り、この世で一番優しい妻のことを覚えているのは、ディルしかいないのだ。
(あの子に、伝えることこそが――)
遺された自分がすべきことだったのではないかと、ディルは目をつぶって考えた。今更遅いかもしれない。一度は見捨てた癖に、父親面をして迎えに行くなど、なんと虫のいい話だろうか?
(はじめから、そうしていれば……)
多くの兵を死なせずに済んだ。赤子に寂しい思いをさせることもなかった。それでも、母の思い出を伝えることは、ディルにしかできない、ディルのしたいことになっていた。
――ふっとディルの目の前に、赤褐色の紅茶をいれたマグカップが浮かび上がった。瞬きする間に幻影は消えてしまっても、腹の中はあたたかいままだった。




