攫われたリタ
トーマスに勧められるまま、リタは一人で半分もクッキーを平らげてしまった。応接室の壁に掛けられた時計を見ると、もうこの部屋に来てから30分が経とうとしていた。
(……どうしよう)
リタは甘くなった口を紅茶で中和していたため、少し前からお手洗いに行きたかったのだが、言い出しづらく我慢してしまっていたのだ。トーマスのティーカップが空になると、陶器製のティーポットを手に案内役が彼に問いかけた。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
「ああ、頼む」
「…………」
案内役がトーマスの茶を注ぎながら、無言でリタを見やった。この状況で更に飲めるはずもないが、切り出すよいタイミングだとリタは口を開いた。
「……あ、あの――お手洗いをお借りしてもいいでしょうか?」
「部屋を出て、右手奥です」
「……ありがとうございます」
自分のような者にも丁寧な言葉を使ってくれることに恐縮しながら、リタは頭を下げて席を立った。すると、隣のトーマスも立ち上がってついて来ようとしたため、リタはぎょっとしてしまったが、彼女よりも早く案内役が止めに入った。
「近くですので、ご心配は無用かと」
「まあね。……でも、“万が一”ってこともあるからさ」
トーマスはラークからリタを任された以上、彼女から片時も目を離すつもりはなかった。だが、手洗いについて来られるリタの方が気まずく、しどろもどろになりながらも断ろうと言葉を繰り出した。
「あの、大丈夫です。来ていただいても――外で待っていただく様でしょうし」
「…………」
「すぐ戻りますので」
トーマスはまだ何か言いたそうだったが、リタは逃げるように応接室を後にすると、手洗いへと早足で向かった。
(……本当に、すぐそこだ)
手洗いまでは柱が並んだ一本道で、20歩ほどの距離しかなかった。
手洗いを終えたリタは、振り切るように出てきた手前、早く戻ってトーマスを安心させなくてはと、小走りで応接室を目指した。――しかしあと数歩というところで、突如柱の陰から飛び出した人影がリタを襲った。
「……っ」
見通しの良い道で全く周囲を警戒などしていなかったリタは、あっという間に後ろから縄で拘束されてしまい、声をあげようとするも布で口を塞がれてしまった。
「~~!」
左右に身を振って暴れるリタに、男が何か小声で呪文を唱えた途端、彼女の四肢から力がくたりと抜けた。リタが気を失ったのを確認すると、ブランの軍服を着た男は潜んでいた柱に向かって合図した。
「こっちだ、早く!」
柱から素早く駆け寄ってきたもう一人の兵士が麻袋を広げると、男は手際よくリタを中につめこんだ。
「よし、あとは運び出すだけだ」
――このとき、丁度商人がイグリスを訪れていた。イグリスは入る際には許可書や身分証明が必要だが、出ていく者には特別注意は払われない。男二人が軍服から商人の服に着替えれば、品物を運び込む他の商人に紛れて、リタを入れた麻袋を外へ運び出すことなど造作もなかった。
◇◇◇
最初に異変に気が付いたのは、トーマスだった。
(……遅い)
応接室で大人しくリタの帰りを待っていたが、なかなか戻ってこないことに居ても立ってもいられなくなり、トーマスは廊下へつかつかと歩み出た。この時点で右手突き当りに手洗いの扉が見えており、迷うことなどあり得なかった。
(……まずは、確認だ)
手洗いは男性用と女性用の個室がひとつずつ並んでおり、使用時は内側から施錠できるようになっている。女性用の手洗いからは人の気配がしないが、念のためにトーマスは扉を叩いて呼びかけた。
「……リタちゃん、いるかい? いるなら返事をして。――しなきゃ、3秒後に開けるから」
物音ひとつ聞こえない個室のドアノブを3秒後に回すと、抵抗なく開いた扉の中はもぬけの殻だった。
「……嘘だろ」
可能性は低いが、間違えて男性用の個室に入ってしまったかと同様に調べてみても、そこにもリタの姿はなかった。背筋が冷たくなってくるのを感じながら、トーマスは近くの部屋も確認しようと、1階の部屋を手当たり次第に当たっていった。
(……彼女の性格からして、逃げ出したり無断で別の場所へ行ったとは思えない)
応接室よりも簡素な造りの談話室や執務室は、人がまばらでがらんとしており、皆バタバタと慌ただしく出入りするトーマスを不思議そうに見ていた。彼らの反応からして、トーマスが来るよりも先にリタが来ていた可能性は低いだろう。
(……いったいどこへ消えたんだ)
焦るトーマスの目に、ふとイグリスの玄関から頻繁に出入りする商人の姿が映った。男達がひっきりなしに受付へと、大きな袋や箱を運び込んでいる様子を目にした途端、閃光が走るようにトーマスの頭にある憶測が浮かんだ。
(まさか、あの中に紛れて“攫われた”のか?)
今朝ラークがリタにパーフェクトプロテクションを使ってから、既に結構な時間が経っている。ブラン軍の中で、彼女がラークにとって大事な存在であると知れ渡っていてもおかしくはない。
(……特に、過激派の連中はあいつの“弱み”を知りたがっていた)
過激派を率いるクラージュ殿下が国王にラーク奪還を持ち掛けたのは、疑いようもなく単独投稿したラークを始末するためだ。国王が過激派の魂胆を見抜いていてもラーク奪還に乗り出したのは、殿下がラークを殺すことなど出来ないと思い込んでいたからに違いない。
(……確かにラークに隙を作らなければ、過激派に勝ち目はない)
以前のラークは妹以外の何にも興味を抱かない男だったため、戦時中に妹が亡くなって抜け殻になったのかと思っていたが、再会したあいつは敵国の少女に異様なほど執着していた。
(……正直何が起きているのかは分からないが、リタちゃんはあいつをおびき寄せる“餌”にもってこいだ)
わずかな可能性にかけて、過激派は明日の裁判を待たずに強硬手段に出たのかもしれない。リタを危険に晒してしまったのは、こんなにも早くことを仕掛けてくることはないと彼らを甘く見ていた自分の失態だと、トーマスは唇をかんだ。
◇◇◇
リタは固い床に寝かされた身体の痛みで、目を覚ました。目を開けていても閉じていても真っ暗な視界に、ぼんやりとした頭の片隅で違和感を覚えた。
(……わたし、なんで?)
手を動かそうとして手も足も縛られていることに気付き、ガタガタと激しい振動が身体に伝わってきた途端、リタはハッと体を強張らせた。行きで乗ったものとは比べ物にならない程激しいが、きっと馬車の揺れだろう。
(……そうだっ、いきなり男の人が出てきて――)
先ほどの出来事を思い出すと、ぶるぶると身体の震えが止まらなくなった。必死に凝らした目が布の網目からかすかな光を捉え、リタは自分が布――袋の中に入れられていることを理解した。
(……何が起きてるの? もしかして、人攫い?)
臓器や人手を得るために女子どもを攫って売り飛ばす人間がノワールにもいた。だが、街中ならまだしも警備がいるような建物にそんな人間が入ってこられるだろうか?
(……分からない。怖い――怖い怖いっ)
考えれば考えるほど恐ろしさが増してきて、パニック状態になっても口を塞がれているため叫ぶことすらできなかった。猿轡によだれがしみ込んで気持ち悪く、鼻だけでは呼吸もままならずに息が苦しくなってきてしまった。
(助けて、誰か……)
なぜか真っ先にリタの頭に浮かんだのは、星屑のような銀色を湛えたラークの瞳だった。




