ただ一人だけ
ラークが契約を承諾すると、ザハラはすぐに準備に取りかかった。禁書棚から辞書のように分厚い魔術書を1冊引き抜き、複雑な術式の記述には時間がかかるため、もう一度ラークに座って待つよう促した。
(……ええっと、必要なものは――)
書物を開いて“人の心を奪う魔術”が記されたページを開くと、用意する魔道具は“抜き取った心を入れておく瓶”だとあった。瓶ならば、薬を入れる試験管に似たガラス瓶が床やテーブルに大量に転がっている。だが、ラークの心を閉じ込めておくにはふさわしくないと感じたザハラは、壁際にずらりと配置された飾り棚を漁って、繊細な細工が施された小瓶を取ってきた。
『……先生、それは?』
不思議そうに問いかけるラークに、ザハラは白鳥の首のようにすうっと伸びた小瓶の首を掴んで、顔の前で振って見せた。ガラス瓶を覆う斜めの切れ込みがランプの明かりを反射し、部屋の中に無数の光がちらついた。
『この中に、あなたの心を移していくのよ』
『……そんな魔術が、あったんですね』
『ええ。今は禁術に指定されているから、ロンカイネン家の者しか知らないと思うわ』
ザハラが小瓶をテーブルに置いて羽ペンを持ち、まっさらな羊皮紙にさらさらと術式を写し取り始めた。その淀みない作業を見て、ラークは抗うことのできない大波に呑まれるように息が苦しくなってきてしまった。――もう後戻りをすることはできない。一度了承した契約を撤回したいと言い出せば、機嫌を損ねた魔女が今後取引に応じることはないだろう。
(……でも、このままじゃ)
ラークは心を――感情を失ってしまう。そうなった自分が島に帰ることができたとして、家族を――シエラを守りたいという本懐を忘れずにいられるのかラークは不安だった。これから自分は、もう二度と泣いたり笑ったりできなくなり、新しい魔術に心を踊らせることも、誰かを愛しく思うこともできなくなってしまうのだ。
(……怖くないかと言われれば)
正直、今すぐ「契約を辞めたい」と叫びだしてしまいそうなほど怖かった。それでもラークは襲い掛かる不穏な未来から目を背け、館に残って自らの心と命だけを守って家族を見捨てることなどできなかった。ラークは心を鎮めようと一度深く息を吸ったあと、吐き出す勢いに任せて師に呼びかけた。
『先生。――ひとつ、お願いをしてもいいでしょうか?』
いそいそと術式を写していたザハラが顔を上げ、頬にかかったレンガ色の髪をうっとうしそうに耳にかけたあと、ペンを握ったままちらりとラークを見やった。
『……なあに、ラーク?』
魔女の手元の羊皮紙には、既に術式が4分の1ほど書き込まれていた。途中で水を差したことを彼女に頭を下げて詫びながら、ラークは慎重に言葉を選んで話し始めた。
『……僕がブランに帰るのは――家族を守りたいからです』
『…………?』
『ですから、家族への思いだけは失いたくありません』
テーブルに額をつけたまま微動だにしない白いつむじに、ザハラは眉根を寄せた。島へ帰らせてあげるだけでも相当譲歩しているのに、後出しで注文を付けられたことが不愉快だったのだ。
『そんなこと、今更言われても……。この魔術、書くのとっても大変なのよ?』
『…………申し訳ありません』
『心を丸ごとじゃなくて、取捨選択するなら失敗する可能性だってあるのに……』
げんなりした様子で魔術書とラークを交互に見比べているものの、魔女が自身の要望を門前払いしなかったことに希望を見出し、ラークはここぞとばかりに畳みかけた。
『……無理を言っているのは承知の上です。ただ、偉大な先生であればできるのではないかと――期待してしまったんです』
『…………』
(……“偉大な”、先生?)
滅多なことではお世辞など口にしないラークの誉め言葉に、ザハラはドクドクと高鳴る鼓動を鎮めようと、ペンを握った手を胸にギュッと押し付けた。見た目が好みの異性におだてられて、平静でいられる女がいるだろうか? 何か思うよりも早く、魔女はつい口を滑らせてしまっていた。
『………………仕方ないわね』
『……っ!』
きらきらとした銀の瞳を向けてくるラークに向かって、そう期待するなと言わんばかりにザハラは彼の目の前に人差し指を突き立てた。
『……ひとりよ』
『……?』
『家族全員はダメ。――誰か一人だけなら、気持ちを残してあげてもいいわ』
(…………ひとり、だけ?)
ラークの脳裏に母と父、シエラの顔が順番に浮かんでは消えていった。とても選ぶことなどできないと喉元まで出かかった言葉は、笑みを消して弟子の答えを待つ魔女の目を見た途端、氷のように溶けて消えて行ってしまった。――これ以上、交渉の余地がないのは明らかだ。
(……たった一人しか、選べないのなら)
目を閉じてしばし悩んだ後、ラークはゆっくりと瞼を開けた。
『……決めました』
『ふふっ、誰にしたの?』
無邪気に身を乗り出す魔女の反応は、まるでゲームでも楽しんでいるかのようだ。本当に彼女でいいのかと何度も自問自答し、それでも家族の中で最も幼く“守るべき存在”として刷り込まれている妹の名を、ラークは囁くように口にした。
『……シエラへの想いだけは残してください。お願いします』
レンガ色の瞳が何かを思い出すようにちらと天井を見上げたあと、ラークに視線を戻した。
『……シエラ? 確か、妹だったかしら?』
『……はい』
『そんなに想われているなんて、妬けるわね。――でも、分かったわ。彼女に対する気持ちだけは残してあげる』
『……ありがとうございますっ!』
ぱっと顔を明るくしたラークの態度が、魔女にはひどく癪に障った。ラークの心の真ん中に座っているのはザハラではなくシエラだと思い知らされ、まんまと彼にしてやられたような気になったからかもしれない。――だから、少年の心を完全に手に入れるためにザハラはこう付け足した。
『……ただし、もし妹が死んだりしたら、彼女への想いも記憶も“全部”私がもらうわ』
『…………ぜん、ぶ?』
『ええ。この魔術は本来人の心を奪うものだもの。術式を書き換えても、終着点は同じにしなきゃね』
『…………』
シエラの死によって、ラークの心を余すところなくザハラのものにする。それこそまさに魔女の狙いだったが、シエラさえ無事であれば自分を見失うことはないと安堵しているラークには、彼女の策略に頭を巡らせる余裕などなかった。
――話がまとまると、ザハラは書きかけの羊皮紙の上にまっさらな羊皮紙を1枚乗せて、新しい術式の文字や図形の構成を練り始めた。
『手を加えるのに時間がかかるから、その分島に帰る日取りは遅れるわよ?』
『……構いません。よろしくお願いします』
魔女は弟子に禁術についてほとんど教えていなかったため、頭を下げて部屋を去っていくラークの足取りは軽く、とても禁術を施される者には見えなかった。戸口に立って振り返り、はにかみながらお礼を言う少年の、こんな笑顔を見られる女は世界中でもうザハラしかいない。
(……ここを離れたところで、お前は私のものなのよ)
術式に集中するザハラだけでなく、帰還の許しに胸をなでおろすラークも、廊下に隠れて聞き耳を立てていたシュルツに気づくことはなかった。――その夜、シュルツの部屋からクーリエで生み出された光の鳥がグリーズ島へと飛び去っていったが、眠っていたザハラとラークがその姿を認めることはなかった。
――数日後、感情を失いながらもシエラのことはしっかり覚えているラークの姿に、ザハラは改変した術式の成功を確信していた。まさかシエラが死んでから、思惑と違う方向に術式が作用するなど魔女は予想もしていなかったのだ。




