グレープフルーツ
リタがテヌール収容所で働き始めてから、今日で4日目になった。昨夜ペンダントを握って眠ったお陰か、今朝は日向ぼっこをした後のように胸がぽかぽかと温かい。――しかし、ぼんやりと石組みの天井を眺めている内に、夢の記憶と一緒にぬくもりは少しずつ薄れていってしまった。
(……寒い)
リタはベッドで横になったまま、夢の中で“お母さん”に抱かれていたように、毛布で身体をぎゅっと締め付けてみたが、虚しくなるだけだった。――ペンダントを手にして眠ると、夢を見ている間は幸せでいっぱいになるが、目が覚めてから襲われる引き攣れるような寂しさが耐え難く、リタは本当に辛いときしか使わないようにしてきたのだった。
「……っ」
きつく握りすぎたのか、塞がったはずの指の傷がチリリと痛んだ。それと同時に、昨夜向けられたラークの優しい面差しがふっと頭をよぎった。
(……起きようかな)
ひとりでいるよりも気が紛れそうだと、リタは個室の戸を開けて監視部屋へと足を踏み入れた。監視部屋のランプに火を灯すと、ぼうっと部屋が明るくなり、鉄格子の向こうではラークがいつものように背を向けて寝そべっていた。
「……おはよう、ございます」
どうせ返事は返ってこないだろうと思いながらも、人恋しい気持ちが勝ったのか、リタはラークに声をかけていた。
「…………」
やはり返事はなく、リタは一抹の寂しさを感じながらも椅子に座ると、裾上げの続きを始めようと監視服を手に取った。昨日の内に丈詰めと左足の裾上げは終えていたため、右足の裾だけなら午前中には終わってしまいそうだ。針に糸を通したところで、鉄格子の向こうでラークが身を起こして壁に背を預け、リタの方を向いて座りなおした。
(……起きていたんだ)
起きていたのに、挨拶を無視された。――孤児院でも料理店でも、さんざん無視されてきたというのに、今さら胸がチクリと痛んだ。夢を見たせいに違いないと自分を落ち着かせながら、リタは手元の作業を粛々と進めていった。
「…………」
それでも、昨日ラークが向けてくれた眼差しが頭にちらついて離れず、リタは気づけばもう一度口を開いていた。
「…………あの」
「……」
「……頭の痛みは、おさまりましたか?」
目は針に向けたまま、耳だけを鉄格子の向こうへとそばだてた。しかし、返事はおろか身動きする音すら拾うことはできなかった。
(…………ばかみたい)
囚人相手に勝手に期待して、裏切られたと落胆している。孤独を癒そうとしても、家族も友人もいないリタには、こんな人間しか相手がいないのだと、自分がひどく惨めに思えてきた。――リタが羞恥に耐えられなくなってきた頃、ラークが思い出したかのようにポツリと答えた。
「………………ああ」
(……えっ?)
リタの質問に答えてくれたのだと理解するまでに、数10秒はかかった。ラークが返事をしてくれたのだと気づくと、じわじわと喜びが込み上げてきた。
「……もう、大丈夫なんですか?」
「…………ああ」
「……っ!」
返事が、返ってくる。――ただそれだけのことに、リタの心は羽が生えたように浮き立っていた。リタの話や質問にラークは「ああ」としか答えないが、2人の間には碁を打つようにぽつぽつと会話が紡がれていった。
◇◇◇
半日が過ぎて夕食が運ばれてくる頃には、リタにとってラークは奇しくも気の置けない話し相手になっていた。これまで罵倒されるか嫌味を言われることしかなかったリタには、例え相手が人形のように無感動であったとしても、会話を通して人と交流できることが嬉しくて仕方なかったのである。――今も、リタはラークの分の夕食を分けながら彼に話しかけていた。
「今日の果物は、グレープフルーツですよ」
「…………」
「ブランでも、取れますか?」
「………………ああ」
リタが薄皮を傷つけないように、グレープフルーツを手の平で半分に割ると、ぎっしりと詰まった身が顔を出した。柑橘類のさわやかな香りが広がり、リタはすうっと鼻で息を吸い込んだ。
「どうぞ」
「…………」
いつものように小窓から食事を差し入れるも、ラークが取りに来る気配はなかった。人慣れしていない野生動物のように、壁に張り付いてこちらの様子を窺っている。
(……どうしたんだろう?)
リタが冷める前に食べてほしいと伝えてからは、ラークは食事を渡すとすぐに取りに来ていたため、こんなことは初めてだった。何か気に障ることでもしてしまったかと、リタは自身の言動を思い返してみた。
(……舞い上がって、話しかけすぎてしまったかも)
そのせいで、ラークは嫌気がさして近づいて来なくなってしまったのかもしれない。リタが小窓を閉めて椅子に戻っても、ラークが動きだす気配はなかった。早く食べなければ、湯気をたてている豆のスープは冷え切り、パンだって硬くなってしまうだろう。
「……どうしたんですか?」
「………………」
心配になり声をかけても、返事はない。もうあまり話しかけないほうが良いのかもしれないと、リタはいったん口をつぐむことにした。盆を前にしても自分だけ先に食べる気になれず、スプーンを手にしたままぐるぐるとスープをかき混ぜていると、ようやくラークが小窓のそばまで寄ってきた。
(……よかった)
さり気なさを装ってリタが見ていると、彼は盆からグレープフルーツをおもむろに取って、床にそのままポンと置いた。流れるようにさっと盆を持って壁際に戻ったラークは、何事もなかったかのようにスプーンを手に取って食事を始めた。
「…………!?」
リタは半分に割られたグレープフルーツと、我関せずといった様子でスプーンを口に運ぶラークを交互に見つめた。身の部分が上に向いていて、床に接しているのは皮とはいえ、あまり衛生的ではない。席を立ったリタは、小窓から手を伸ばしてグレープフルーツを手に取ると、恐る恐るラークの背中に向かって問いかけた。
「……あの」
「…………」
「……もしかして、苦手なんですか?――グレープフルーツ」
「…………っ」
器を持ったラークの左腕が、ビクッと震えた。肯定、と捉えて間違いないだろう。
(……苦手、なんだ)
ラークが食事を残すのは初めてで、与えられるものは何でも食べていたから、リタは彼には食べ物の好みなど無いと思っていた。
(……子ども、みたい)
目の前にいるのは血の通った人間なのだと、リタは唐突にまざまざと思い知らされた。思いもかけない一面に、ぬるくなった果実を口に含みながら、リタは緩んだ口元からつい声を漏らしてしまった。
「…………ふふっ」
必死に噛み殺そうとしたが、ラークには聞こえてしまっていたようだ。不機嫌そうな銀色の瞳と視線がぶつかったが、不思議と怖くはなかった。――そしてラークもまた、リタのそんな反応を不快に感じてはいなかった。
(……前にも、こんなことが――)
ラークの中で、愉快そうに顔をほころばせるリタの表情が、屈託のないシエラの笑顔と重なっていった。シエラのことを考え出した途端、怒涛のように頭痛が押し寄せてきたが、構わず記憶を手繰る内に、ラークの脳裏に“家族”で食卓を囲んだ日の思い出が浮かび上がってきた。
『……あっ、お兄ちゃん! お兄ちゃんなのに、ごはん残してる!』
食卓の隣にいるのは、母と揃いの布カバーをかけた椅子に座っているシエラ。彼女は告げ口をするように母に向かってラークの皿を指さし、不満そうに唇を尖らせていた。テーブルに並んでいるのは揚げた鶏肉で、臭みを消すためくし形に切られたレモンが添えられていた。
『ラークは、小さい頃から酸っぱいのが苦手なのよ』
パッチワークのエプロンをかけたレイラが、シエラの向かいの席から手を伸ばし、やれやれといった調子でラークの皿からレモンを取った。
『ずる~いっ! お母さん、私には好き嫌いするなって言うのにい』
シエラが椅子の上でゆさゆさと体を揺らし、それに合わせて紫のリボンがピョンピョン跳ねた。ラークはそんなシエラを横目に、ぼそっと呟いた。
『……レモンは食わなくても、生きていける』
悪びれもしないラークを、シエラが恨めしそうに睨みつける。微笑をたたえて兄妹を見ている父は肩を持ってくれないと感じたのか、シエラが母に泣きついた。
『お母さん! 何とか言ってよう』
『……お兄ちゃんは、食べられないの酸っぱい果物だけでしょう? シエラはお野菜、ほとんど嫌いじゃない』
『…………そうだけど』
頬を膨らませるシエラの皿には、付け合わせのニンジンとブロッコリーがまだ残っている。
(……仕方ないな)
母が飲み物を取りに席を外すと、ラークは彼女の皿からニンジンをかっさらって口に放り込んだ。
『――!』
『母さんには、内緒な。ブロッコリーは自分で食えよ』
『……うん。お兄ちゃん、ありがとう』
シエラがブロッコリーをフォークで突き刺し、ちまちまとかじりついた。先に食べ終えたラークは、シエラの頭をなでると食器を下げに行った。
(……こんなことも、あった)
シエラを失った自分には、もう何も感じることはできないと思っていたのに、リタを前にすると何故か過去の記憶が色鮮やかな感情とともに蘇ってくるのだった。
(……この娘には、何かがある)
ラークと魔女が交わした契約に、恐らくリタは何らかの影響を及ぼしている。具体的に何が起きているかは分からずとも、この小さな少女が自身にかけられた呪いを解くきっかけになるかもしれないと、ラークは薄々気づき始めていた。