第4話
◇
その後の日々はとにかく歩いて歩いて、歩き続けた。
ユイマース男爵領に入るとすぐ、ロロは最初の集落の村長宅に押しかけ、客間にいたユイマース男爵の所に乗り込んだ。
「ローラン?南の街道を見に行ってたんじゃ……」
「積もる話も多々あるのですが、時間が惜しいんです。父上先ずは人払いを」
有無を言わせず押し切るロロはカッコ良かったが、何か焦っているように見えるのが気になる。ロロの勢いにユイマース男爵はただならぬものを感じて言うとおりにしてくれた。
「まずは時間を頂きありがとうございます父上。恐らくこれから信じられない話ばかりになると思いますので、まずは謝っておきます」
「あ、ああ……ところでローラン、後ろにいるのは……」
「ああすみません、色々経緯の説明が大変なのですが、後ろにいるのはエレナ、エレナ・カミロ男爵令嬢です」
「ご無沙汰していますユイマース男爵。ごく簡単に申しますと、ロロ……ローランと駆け落ちしてこちらに参りました」
「か、駆け?」
「エレナごめん、ややこしくなるからそこまでで」
未来のお義父様の驚く顔が見たくて出した悪戯心を、少し嗜めるような遮り方で返された。まあ、今のは私が確かに悪い。
その後ロロは男爵にこれまでの流れを説明する。
自分が十四年後のロロで、『天恵の門』を潜ってこちらにやって来た事。この時代のロロは今頃南の街道で不安に駆られた領民に囲まれて難儀している事、カミロ男爵一家の全滅と領の惨状、アナン商会のカミロ男爵領乗っ取り工作と、執り行われる予定だった私とラザロ氏の婚姻とロロの介入について……
話の中でどうしてロロがアナン商会の人々に一服盛れたのか判明した。こちらの時代に飛ばされたロロは、自分の来た時代がいつか確信するとすぐさまアナン商会に雑役の丁稚として入り込んだのだそうだ。
数か月間面倒な案件や汚い仕事もこなし、投機に有利な情報を会長に囁き、徐々に信頼を得て人脈を広げ、商会の裏帳簿と贈賄の記録を手に入れた。
その際カミロ男爵領への融資契約書も見つけ、カミロ男爵に不利となる項目を改変したと言う。
「ローラン、契約書というのはカミロ男爵も保管している。改ざんが判明すれば極刑は免れないぞ」
「カミロ男爵の保管する契約書は、分厚い土砂の下……です」
それはその通りなのだけれど、ロロの言い様にユイマース男爵は絶句している。
私もその分厚い土砂の下にいる家族を思うと悲しくなるけれど、ロロの冷酷な眼差しに背筋をぶるっと走り抜ける震えを感じた。
「父上、カミロ男爵領は正直どうしようもない状況です。そして現段階ではアナン商会の経済力が無ければ立ち行かないのが現実です。当座をしのぐためにはエレナは汚名を被り、商会の操り人形でなければならないのです」
「ローラン、お前はそれでいいのか?」
「……良い訳ないでしょう」
地の底から絞り出すような声でそう切り出したロロの言葉から、最も犠牲を少なくするための方法として、その選択肢を選んだのがありありと伝わってきた。
ユイマース男爵は今の発言は軽率だったと謝罪し、話は私の身をどうしてゆくかという話になった。
「父上、今ここでエレナが表に出れば、カミロ男爵領の件が公になり、捜査や立件、裁判を同時進行で行う羽目になる。それは近隣の領での復旧や復興の足かせになりかねません。それに……」
「それに、何だね?」
「私は、エレナからカミロ男爵領の領主の責務から解放したい、と、思っています」
疑いようのない責任放棄の発言に、ユイマース男爵も色めき立つ。
「貴族としての責務から逃げだすと、そう言っているのか?」
「そう解釈して頂いて結構です。父上、二週間後にはジンガー侯爵が頭になり、復興支援の組織が立ち上がります。その際現地での拠点はここユイマース領になります」
「そんな話は聞いていないが」
「二日後に王宮で復興支援の議案が承認され、そこからの通達になるかと思います。父上が知らなくて当然かと」
「なぜローランがそれを知って……ああそうか、『天恵の門』だったな」
「はい。ユイマース領を拠点とした復興支援活動が、近隣の犠牲を最も少なくするためのカギとなります。なにせユイマース領だけが、復旧作業に耐え得る組織を残しているからです」
「その話は正直有り難い。ならばエレナ嬢は自領で支援が来るのを耐え忍ぶべきでは?」
「先ほど申した通り、カミロ男爵領はアナン商会に牛耳られました。正直エレナが女主人として采配を振るえるかというとまず出来ません。そして、商会の財産全てを食いつぶしても、カミロ男爵領の復興どころか、残った領民が三年以上生き永らえる事すら叶いません」
ユイマース男爵は迷いなく断言するロロの言葉に唸り声をあげて沈黙する。
貴族の責務を痛感しているのはユイマース男爵だけではなく、私自身もそうだった。ここに来るまでロロから聞いた話の内容から、故郷から立ち去るのもやむなしと思ってはいたけれど、責任放棄の事を第三者から言われるのは身に詰まされる。罪悪感は軽くなる事はあっても、無くなる事はない……
そして何より、この後のロロの言葉が驚愕だった。
「ジンガー侯爵の復興支援は、もう一つ別組織の支援があります。そしてこの組織が、一時的にカミロ男爵領の管理を行うよう、すでに王宮に計画書を渡しています」
「そんな大掛かりな事に対応できる組織など、他にあったか?」
ユイマース男爵が疑問を口にした話を、私も昨日耳にしてまさかと思っていた。でも確かにそこなら可能だと思う。
「ありますよ」
「それはどこなんだ?」
ロロは思いつめたように話してきた前のめりの姿勢を改め、大きく深呼吸する。再びユイマース男爵を見据えて発した言葉に、ユーマース男爵は驚愕した。
「――――教会です」
◇
『天恵の門』を潜ってきたロロの話は断片で聞いていたが、てっきりユイマース領を引き継ぐかしてこれまで生きていたと思っていた。
けれど話を聞いてみれば、今の災害の二年後に教会の扉を叩き、修道士になったのだという。ロロはつまり、十二年間は教会に身を捧げ生きていたのだ。
「あの頃はエレナが生きているなんて思ってもいませんでしたし、助けの手一つ差し伸べられない自分に深く絶望し、せめてその魂が安らかであって欲しいと思っていたのも、修道士になった動機でした」
私、生きています……とよほど横から言いたかったが我慢した。修道士になり結婚せず自分のために祈りを捧げてくれていたと思うと、なんというか……それはとても面映ゆい。
私は頬が紅潮して口元が緩むのをどうする事も出来ず、深刻な話の最中に惚気たことを逆恨みして少々恨みがましい目線をロロに向ける。
幸いというか、ロロはユイマース男爵との話に夢中で私の事なんて眼中にない。
「その教会での生活も、残念ながら純粋に祈りを捧げるだけでは生きていけない所と知りました。しかし誰に何を言えば自分の思いが通じるのか、それを知る事が出来たのは幸いでした」
ロロは近領にある教会を統括する教区長に手紙を送り、カミロ男爵領の惨状と国を仲介とした教会による暫定統治の提案をしたのだという。
細かい話はこれから詰めていく流れだそうだが、権威と影響力を強くしたい教会と、膨大な復興資金の大口出資者を求める王宮との利害が一致して、二年後に復興の立ち遅れたカミロ男爵領が教会の暫定統治領になるのだという――――
「信じられない……」
「時間がありませんので、私の知る話をあと二つほどお伝えします」
「……聞こうか」
「六年後、被災地の振興のために、王宮の肝いりでハテの森を切り開いて港が開かれます。そこはジンガー侯爵の直轄地となります」
「積み出し港が私たちの領地の近くに出来るのは助かるが、あそこは港にできるのか?」
「近在四つの領地の誰もがただの通り道と思っていましたからね。けれど森の奥の入江は、水深が深く風よけの山に囲まれていて、港の適地だと言う事がこれから判ります」
ハテの森がどこにあったか思い浮かばない私には二人が何を話をしているか判らなかったけれど、港の話になって、何か将来的に大きな利益に結び付く事を話していると察しがついた。
ユイマース男爵は、この先やってくるチャンスにぎらついた感情を露見させている。ユイマースの奇跡を演出した将来の義父は、普段の温厚な為人が剥がれるとこんな一面を持っているんだなと少し嬉しくなる。
「それとまだ何かは確証はないのですが、恐らくカミロ男爵は領内で何か売り物になる資源を見つけたのではないかと思います」
そしてロロの話の内容は父さまの事になり、私も生唾を呑み込むと傾聴の姿勢を取る。
「どうしてそう思った?」
「エレナの話から、アナン商会から受けた融資の使い道が街道整備に偏重している事がわかりました。つまり、何かを効率よく運ぶ必要があったのだと考えます」
「確かにな。そして何かを買う余力なんてないなら、何かを売るために街道を整備しようとしたと」
「その通りです」
確かに父さまは、この道が完成すれば借りたお金なんてすぐに返せると豪語していた。
ロロとユイマース男爵はその産物の正体が何なのかについて熱い議論をしている。
蚊帳の外に置かれた私は、つい昨日までの絶望を忘れて自分の現状に頬を膨らませた。
けれど決して目の前の情景が嫌な訳では無い。まだ家族が生きていてユイマース男爵家に一家総出で遊びに行った時の賑やかな記憶を思い出し、目の前の光景を愛おしく感じてもいた。
もしありきたりに訪れる日常が続いていたら、私はユイマース男爵の館で、ゆらゆら揺れる暖炉の炎の前でこんな風に議論を重ねる二人を眺めながら、ゆったり笑みを浮かべてレースを編んでいたと思う。
けれどそんな日々は私には訪れない。そんな未来は家族を押し潰したあの土石流の下に埋まってしまったのだ。
ここから先は、不確かな足取りでロロに手を引かれながら進んでいかなければならない。そしていつかは足が竦んで進めない私を助けてもらいながら、決断に迷うロロの背中を押しながら、二人では何とかなると笑いながら、前に進んでいかなければならないのだ。
覚悟しなければならない事を思い浮かべては考えて、時間は過ぎた……
いつの間にかロロの膝枕で意識を失い、私は二人の話を最後まで聞けなかった――――
◇
ユイマース男爵とロロは結局一晩中話し合っていたらしい。
お別れする前、ユイマース男爵はシソ・エルマの港町にあるフーシェ商会への推薦状を書いてロロに預けた。
「ありがとうございます父上。申し訳ありませんがこの度の話は……」
「わかっている。誰にも話さないし、今のローランにも何も言わない」
「明後日には館に帰ってエレナの手紙を見るんですよね……なんだか色々すみません」
「驚いたフリなど朝飯前だ。ローラン、今のお前なら良く分かるだろうが、ユイマースの奇跡は正義感や誠実さだけで成し遂げたものではないよ」
「それはまあ、そうでしょうね。フーシェ商会では、私も父上のようでありたいと思います」
なんだろう?私は感動的な親子のやり取りを見ているはずなのに、張り付けられた笑顔を浮かべ握手する二人は、厄介な悪霊の騙し合いを見ている気分になる。
「エレナ嬢、ローランをよろしく頼む。融通効かないし女心に疎いから呆れる事も多いと思う。だけれどどうか、見捨てず添い遂げてやってくれ」
「父上、私が不甲斐ないのは確かですが、いささかそれは言い過ぎと思います。人生経験で言うと、私と父上は数年ほどしか違わないのですよ?」
「ローラン、こういうのは理屈じゃないんだよ」
訳知り顔で諭すユイマース男爵の表情に、ロロは悔しそうな沈黙で返す。
大丈夫だよロロ、これから二人でお義父様に追いつくのだから。そう思って腰の裏側をポンポン叩いて、こちらを見た瞳に微笑みを返す。
ロロからは子ども扱いの頭なでなでを返され、鳩尾にストレートを叩き込もうとして防がれる。
そんな二人のじゃれ合いを眺めていたユイマース男爵は、当座の路銀といって少し重そうな小袋を差し出した。ロロは『商会のお金かっぱらって来たので当面大丈夫』と突き返そうとする。
私はムッとしてロロに一言物申した。
「ロロ、商会からお金抜いたら、うちの領民その分大変になると思う」
その言葉にロロは地面に膝をついて両手で顔を覆った。
ユイマース男爵は路銀をロロの懐にねじ込み、商会からせしめた路銀は渋々といった感じでユイマース男爵に手渡された。
人目に付かないようにと、少し白み始めた空を背に二人で歩き始める。
今生の別れと覚悟して、姿が見えなくなるまでユイマース男爵に振り返っては手を振った。
これは一種の婚前旅行……という事になるのだろうか?
シソ・エルマまではおよそ六日間、時折そんな事を考えてニヤけつつ歩き続けた。
道中宿はないから野宿になるにせよ、ロロと二人で過ごせるのはこれ以上ない喜びだった。これまでのひと月に一回の手探りな逢瀬に較べると、格段に密度も愛情も濃密な時間になる。
そのせいか道中二日目にはお互い勢い余って体を重ねる。
相手が必死になると存外自分は冷静になるのだなと考えつつ、ロロと一つになるのは涙を流すほどうれしい出来事だった。
ただ、勝手にもぐりこんだ干し草小屋の中で、下半身に突き刺さる干し草の痛みだけは一生忘れられそうにない。
慣れない野宿と人目を警戒して進む旅路は楽ではない。神経も体力も削られ、眠りに落ちるひと時もどこかに警戒心を忘れられず浅い眠りに終始する。
優しい言葉や叱咤激励を織り交ぜながら励ますロロの存在が無ければ、私は三日目くらいには心折れていただろう。
だからこそ、幾重にも折り重なる山々が途切れ、広い海と眼下に白壁の連なるシソ・エルマの町が見えた時、もうろうとした意識が覚醒して私は我を忘れる。
生まれて初めて見た海はキラキラしていて、吹き抜ける風に潮の香りが漂う。
私はその場で膝から崩れて訳も解らず泣きだした。山育ちの私には、陽光に照らされて反射光をまき散らす眺めは現実のものと思えなかったのだ。
ロロはそんな私を優しく後ろから抱きしめる。
このひと時ばかりは、すべてを捨てた後ろめたさも未来の不安も忘れ、ロロの胸元に顔を埋めた――――