第2話
◆
歳月は人を待たない。
あの災害から十二年。私は相変わらず聖堂で祈り、人々の救済に駆け回るうちに司祭となっていた。
「新設教会の司祭、ですか?」
「はい、この南にハテルマという港が開かれたでしょう。そこにこの度聖堂を寄進して頂きました」
道行く商人から時折その町の名は聞いていた。小さいながらも活気がある港町と聞き及んでいる。
また、ハテルマは被災したこの近隣の復興と産業振興を目論んで、王国肝いりで開かれた港でもある。
ラサ教区長は説明を続けた。
「ええ、その教会をローラン・ユイマース司祭、あなたにお任せしたいと思います。ちなみに読み書きを教える学校をやってくれないかとも頼まれておりまして、そちらの指導もお願いします」
「それはまた……まだ三十になったばかりの若輩者に務まるものでしょうか?」
「十年間、あなたの献身を見てきましたが、あなたほどの適任もここにはいないかと考えています。読み書きはできても、それを人に教えるというのはまた別のものですから」
どうやら貧民窟の子供たちに読み書きをたまに教えていたのを、ラサ教区長は聞き及んでいたようだ。それを引き合いに出されて説得を重ねられる。
そんな大したことは教えていないと思っていたのだが、大人に騙されて安くこき使われることも減ったとかで、直接お礼を言いに来た子供たちがいたらしい……
「ハテルマは商人の町でもありますが、商人の子供とはいえ、皆が皆読み書きが出来る訳ではありません。そして港で労役についているような身寄りのない子供たちに読み書きをできるようにして、自立を助けることも目的の一つです。どうか受けてはいただけませんか?」
――――そこまで懇願されて、否とはとても言えなかった。
新興の小さな港町ハテルマに赴任した私を待っていたのは、なんとも騒々しい教会での生活だった。
朝の祈りと礼拝が終わり朝食を終えるころには、小さな教場にちらほらと子供たちが集まり始める。下は六歳から上は十歳まで、多少読み書きや計算ができる子もいれば、書き並んだ文字を呆然と眺めるだけの子もいる。
昼過ぎに子供たちが帰れば、ほぼ毎日のように町の人々が集まってきては世間話や町の運営についての話し合いをしている。
おかげで町の中で何が起こっているのか把握しやすいが、ほとんどの会合に同席を求められ、町を見て回るために抜け出すのにも一苦労だ。
夜になれば酔い潰れた行き倒れの保護や色町の女たちの懺悔を聞き、痴話喧嘩の仲裁にたまに飲み屋のツケや支払いの立て替えなど、様々なトラブルに振り回される――――
それまでの静かな祈りの生活から真反対の場所に来てしまい、戸惑いながらもなかなか充実した日々を送ることとなった。
◆
「司祭さま、教典にあるこの『天恵の門』ってなんですか?」
文字の書ける子供たちの練習のために、最近は教典の書き写しをさせていた。
書き写された教典を、今度は文字を読めるようになった子供たちの授業に使って有効活用していたのだが、授業の終わりに呼び止められ、そんな事を聞いてくる子供がいた。
「エランさん、ずいぶん先まで読み進めているのですね」
「ん、なんか読めるのが面白くなってずっと読んでた」
「……ユラくんの教典朗読は聞いてなかったのですか?」
「えへへー」
可愛く笑っているが、全く聞いてないことを悪びれる事もなく白状している。
まあ、自分のペースで学んでくれればそれでいいと思い直し、質問に答えることにした。
「『天恵の門』というのは、信徒の熱心な祈りに神様が答えてくださり、その願いを一つかなえてくださるお恵みの事です」
「えっ!すごいっ!神さまがお願いなんでも聞いてくれるの?」
かなり食い気味にエランさんが立上り、人懐こそうな赤毛が踊り、茶色の瞳が輝く。
「あはは、何でもというわけではありません。死んだ人は生き返りませんし、悪い事をしようと願っても、神様が答えてくれることはないですよ?」
「えーじゃあどんな事だったらいいんですか?」
拗ねたようにどかりと椅子に体を預け、恨みがましい上目遣いが私を見上げる。
「たとえば誰かの幸せや健康を祈るものですとか、一所懸命に頑張っている人の成功を祈る事ですとか、困っている人に手助けがあるようにという祈り……でしょうか」
「ふーん、自分の事じゃダメなんですか?」
「そうですねえ、世の中の誰かの役に立つためのお願いであれば、聞いてくれるかもしれませんよ」
「そっかあ」
若干残念そうなのは、願い事がごく私的な可愛らしいものだったからだろう。赤毛に指を絡めて何やら考え込んでいる頭を、優しく撫でてみる。
そういえばと何やら思い出したように、小さな頭がこちらに向いた。
「あと司祭さま、『天恵の門』ってどこにあるんですか?」
「どこかにというと、どこにもないのですよ」
「?えっと、よくわかんないです」
揶揄われたと思ったのか、エランさんがむっとしながら答える。
「ああすみません、言い方が悪かったですね。ええと……私が昔読んだ本によりますと、熱心なお祈りをしている人の前に、『天恵の門』は姿を現す。と、言われています」
「司祭さまは見たことあるの?」
「残念ながら、まだお目にかかったことはありませんね。ところでエランさんは、教会の入り口の門柱はどんなものか覚えていますか?」
「覚えてるよぉ、朝も見たもん。門柱は神さまの家の入口のしるしで、右に『神さまの栄光』って書いてあって、左には『人の世に幸福あれ』って書いてあるんでしょ?」
「その通りです。昨日の授業もきちんと覚えていて、偉いですね。そして門には扉はありません。これは、神さまの国はいつでも信徒の皆さんに開かれている事を現しているからです。
『天恵の門』は、その門柱の所に現れると言われています」
「へーえ、そうなんだ!」
そこまで聞くと、もう聞きたい事はすべて聞いたのか、エランさんはまた明日と元気に言いながら一礼して教場を飛び出していった。走り去った方向を見るに、聖堂で早速お祈りをして帰るらしい。
どんなお願いを神さまにするのやらと思いつつ、私も教場の片付けをして軽く昼食にしようと思い、動き出す。
『天恵の門』――――
教会にもその出現は記録がいくつもある。
生来目の見えなかった男が見えるようになった、生き別れの娘と再会できた、年老いた声楽家が一晩だけ全盛期の美声を披露した……そういった話と共に、眉唾物の成功譚や復讐劇もある。そして天恵の門を潜ってその後行方知れずとなった人々もまた多い。願いを叶えるために何処かへ向かったとも、大それた願いをした魂を神が召し上げたとも言われていて、教会のお偉方は未だに侃々諤々の議論を行っていると聞く。
そのため『天恵の門』は神の奇跡と言われているが、本当にその願いを叶えてくれるものなのかは未だに賛否が分かれる出来事でもあった。
しかし私は、門は真摯に祈る人の前に顕現するものと信じている。
そして願わくば、私に門が顕れるなら、私は昔と変わらずエレナの魂の幸福と安息を願うだろう。もう誰も顧みる人のいない、救済されるべきその魂を。
◆
ハテルマの町にやって来て二年が経った。
子供たちの一部は家の都合で来なくなったり、ぼちぼち独り立ちする子もいた。ここに残った年長者の子供は四則演算や関数、法律などより高度なものを学び始めているが、本格的に学ぼうとすればどこかに師事したり、家庭教師を雇って学ばねばならないだろう。残念ながらそんな余裕のある子供はここにはいないが……
三人ほど残ってくれているエランをはじめとした十二歳組も、そろそろ身の振り方を考える時期に来た。
今は小さな後輩に読み書きを教えたり、自分たちで工夫して教材を作ってくれたりしている。
時折三人組は自分たちの稼ぎを持ち寄り、町の問屋から紙とインクを散々値切って入手してくれたりと、大いに助かっている。
問屋からは神の名を使った脅し半分のしぶとい値引き交渉に苦情が入ったくらいだから、さすが商人町の子は強かで逞しいなと逆に感心したものだ。
そしてここ最近は三人組たちと、年明けから港町で人脈を作るべく送り込まれてきた甥のセムがよく一緒につるんでいる。
十年もたてば家族とのわだかまりも随分解れた。セムが持参した弟からの手紙には、家を出た時に私に浴びせられた言葉への謝罪と、その後のユイマース領と旧カミロ領の出来事などが書いてあった。
その内容からは、どちらの領民たちも少しずつ日常を取り戻しつつあることを教えてくれ、その日は本当に心から神に感謝の祈りを捧げた。
ハテルマの町もゆっくりと成長を続け、集落の端では途切れることなく家を建てる槌音が響いている。
騒がしいながらも、穏やかに日々は過ぎる。
三人組が四人組になり、身の振り方を決めた二人が居なくなってエランとセムが年長者になるころには、周辺は収穫期を迎えていた。
ふと気づいてみれば、エランは騒々しく駆け回るだけではなく、時折女の子らしい仕草をするようになり、セムがそんなエランに時折熱のこもった瞳を向けていた。
今も授業の終わった教場で、二人が居残りして明日の教材づくりをしながら仲睦まじく過ごしていた。
なんとなく二人を見ていて、十六歳の時、私が初めてエレナと出会った日の事を重ねてしまい、胸が締め付けられる。
もっとも私の場合、二人が他愛もない話で笑っているようにはいかず、エレナが必死に振ってくる話にぶっきらぼうに答える事しか出来なかったのだが……
今日は午後から港の元締めから相談があると言われていたので、どうせ漁師連中とのもめ事だろうと思い、司祭館に資料を取りに戻ることにした。
教場の片付けを二人にお願いすると、なんとも間延びした返事が返ってくる。
妙に息の合った返事に苦笑を浮かべ、教場を出た。
そして転がるように司祭館に駆け込んでくるエランに驚かされ、そのまま強引に手を引かれて駆け出して教会の門柱に向かったのは、それから一時間もしないうちだった。
「一体何だというんです?」
「とにかく変なの!見ればわかる!」
興奮して要領を得ないエランに無茶苦茶に引っ張られてたどり着いた門柱の周囲には、徐々に人だかりができ始めたところだった。
呼吸を落ち着けて門柱を見て驚愕する。
確かに何事かがそこで起こっていた。
三メートルほどの高さのある門柱の間には薄い水色の幕のようなものが出現し、その表面を見たことのない文字や文様が時折横切る。
人だかりの中から、好奇心に負けて吸い込まれるように門柱を通過する男がこちらにやってくる。制止も聞かず熱に浮かされたように教会の敷地内に入ってきた彼には、しかし何事も起こらなかった。
「司祭様、これはなにかの仕掛でしょうか?」
無害とわかってホッとする面々の中から、至極当然のこれは何なのかという疑問が出てくる。
「いえ、私にも何が何だか……」
「司祭様、これが『天恵の門』ですか?」
「え……?」
期待の込もった眼差しで、茶色の瞳をキラキラさせながらエランがそう問いかける。
恥ずかしながらそう言われるまで、私は目の前の出来事が『天恵の門』の顕現と結び付いていなかった。
「ああ……確かにエランさんの言う通りかもしれません」
「てことは、誰かの願いが叶うということですよね?」
相変わらず興味のある事には食い気味に詰め寄ってくる。期待に赤毛はふるふる揺れて、瞳からは強い光が私に降り注ぐ。
「まあ、恐らくはそうなります。……しかし、一体誰の願いなのでしょう?」
「じゃあ私も試してみる!」
言うが早いかエランはダッシュで門扉の間を駆け抜け、制止の言葉をかける暇も与えてくれない。そして何も起こらないとわかると盛大に萎れた。
「それなら僕も!」
これまた私が言葉を発する前にセムが駆け出し、直後天を仰いでエランの横で仏頂面になった。
他の野次馬たちも同じように門柱の内外を往復して色々試し始めるが、特に何事も起こらなかった。
そもそもこういった不可解な事象は私が率先して試すべきなのだが、この町の人たちは好奇心が強く度胸もいい人がやたらと多い。おかげで助けられることも多いが、事が起こったときに出遅れて文句を言われることもあった。
「司祭さまも試してみましょうよー!」
門柱の向こうから、エランが挑発するように笑みを浮かべて私に手を振る。
いや別に怖くて潜れないわけではないと思ったが、取り敢えず試して教区長に報告の手紙を書くかと思い直し、エランに向けて歩き始めた。
門柱の膜に足がかかろうかとしたその瞬間、エランの口が何かを言うように動いた気がした。が、どういう事だろうと思う間もなく、周囲の景色は真っ白になる。
訳が分からないまま上下も前後もわからなくなり、拠り所のない空間に放り出された不安と恐怖に私は気を失った――――