聖別
「…………。」
「…………。」
老人は音もなく指を引き抜くと、油でテカテカと輝いている聖遺物をベッドで拭った。
坊主頭の巨漢は、黄色く縮れた麺を箸で持ち上げたまま静止している。辛うじて浄化を免れたスープが二本の箸を纏綿し、それはやがて雫となり疎雨のように丼の中のサンクチュアリへ降り注いでいる。
老人は坊主頭を聖なる右手でナデナデし、十字を切った。
「†ラーメン†」
「…………。」
数舜の沈黙が訪れたのち、中空に持ち上げられていた麺は神の慈愛を受け入れたかのように、かすかに波紋を残して聖なる湖へと還っていった。
清流に湧いた水煙のように、ドス黒い茶色がじんわりと薄く広がってゆく。失楽園の対義語とはなんだろうか……と考えを巡らせていると、コトンという音と共に箸が丼の中で横たわった。
「…………」
「我が辞書に……」
「不可能の文字はなぁぁぁぁぁぁいッッッッッ!!!!」
「……貴様からはこいつと同じ臭いがするな。」
坊主頭の戦士が俺でも知っているナポレオンの言葉を雷喝すると、再び箸を取り凶暴な顔で楽園へと立ち向かっていった。その様子をよそに老人はこちらに向き直る。
同じ臭いとは不名誉極まりないが、この時ばかりはナポレオンの勇気に敬意を表して受け流すことにする。
「あなたは一体何者なんですか?」
「ワシは神だ。だが貴様に教えてやる名などない。」
「神…」
「神 "様" と言えぇ!!」
「ハイ神様。」
今更ながらこの状況に涙が出てきた。先ほどの恐ろしい廊下とはベクトルが異なるが、恐怖の質は暗闇へのそれと同等だろう。生理的・精神的ダメージのダブルパンチで今にも膝を着いてしまいそうだ。
神様は再び黄ばんだブリーフに手を入れて股間を弄っている。今度は讃美歌のメロディーが聞こえないので神罰が下るのだろうか。
「…宜しい。」
「そこの男よりは信頼できると見込んで、貴様にはこれを授けよう。」
そう言うと手のひら程の小さな板を取り出した。黒く長方形をしたそれの片面はガラスのように光を反射し、側面には細長いボタンが二つ……それは紛れもなく液晶端末であった。
ガラス面を天井に向け横軸に回し、端末の上部を指で挟んでこちらへと突き出す。
「これには我が力の一端を与えている。」
「寄ってみよ。」
「……エ゛ッ゛!!」
「ゴッド・スメル【神の芳香】を纏わせておいた。」
「貴様のような人間には少々刺激が強いだろうが、じき慣れる。」
嫌々ながらも端末に顔面を近付けると、濃厚に熟成されたチーズのような臭いが鼻を衝いた。胃袋から食道、そして喉まで何かが込み上げてくるのを感じると、胸の筋肉が硬直して上半身がせり上がる。
身体の反応により舌が押し出され、それでも吐き気と怒りを必死に堪えながら端末を受け取った。
「クソが……」
「糞はオマケだ。」
「クソォ!!」
端末を握る手に泥のような何かが触れたので、必死に振り回してそれを振り落とす。
「さて、状況を説明してやりたいところだが……この部屋もそろそろ安全ではない。」
「時間がないので端的に説明しよう。貴様はこの鍵を持って対応する部屋へ行け。」
「協力者は一人でも多い方が良い。」
「協力者ってどういうことだよ……。」
「それにその鍵はどうしたんだ?」
「少しばかりくすねてきた物だ。」
「貴様も勘付いているだろうが、ここは普通の場所ではない。このままでは死ぬぞ。」
「嘘だろ……。」
「……分かったよ。後で詳しく聞かせろよな。」
神様はベッドから鍵と布切れを拾い上げると手渡してきた。
鍵は真鍮だろうか、少し黄色がかった金属製と分かる。手渡された白い布切れは地図のようだが、それは指でなぞったような太い線でこの部屋から目的地への進行方向が記されているだけだ。右下には数字で「91」と書かれている。
この部屋にペンやインクは見当たらないので、塗料の正体は考えないことにした。
「この数字は?」
「この部屋から地図通りに向かった場合通過する扉の数だ。」
「鍵は92番目の扉に使え。」
「多過ぎだろ……」
「これマカロニ入ってんじゃん」
聖なるラーメンの味にも慣れてきたのか、ナポレオンは箸でマカロニをつまみ上げ嬉しそうに眺めていた。多分それは聖遺物の一部だろう。
神様は坊主頭をペシっと叩いてドアノブに手を掛けた。
「おいウンコ製造機、貴様はワシと一緒に来い。」
「今ごろ自己紹介か?」
ナポレオンは気怠そうに立ち上がると、大きな尻をボリボリと搔きながら神様へ追従する。
俺もその二人に続いて部屋を出ると、ひんやりとした空気を顔に感じた。左方を見てみると、弱い光が点々と続く気味の悪い廊下が広がっている……
「貴様はそちらへ向かえ。何かあればワシに連絡を寄越すがよい。」
「だがその板切れの活力は残り僅かだ。使用は最低限に抑えろ。」
「……番号は電話帳の一番下に登録しておいた。それ以外は通じぬが、試そうなどと馬鹿な気は起こすなよ。」
神様は先ほど手渡した端末と同じ物を取り出してみせた。
やはり鼻を衝く悪臭を感じて顔をしかめてしまう。
「わ、分かった……神様。」
「ふむ、宜しい。合流は再びこの部屋の前だ。」
「ワシらは反対から出口を探すことにする。」
そう言って二人のウンコ製造機は背を向けて薄暗闇を歩きだした。
しばらく二人の背を眺め続けていると、それらはやがて暗闇の中へと消えてゆく。
――――再び静寂が訪れた。
体力が持たず投稿が遅れました。
頑張って完結させます。