014
しばらくしてからエンドハイドは目を覚ました。時刻を確認すると、日付は変わって夜中の一時になっていた。三十分だけ仮眠を取るつもりが、いつの間にか深い眠りについていたようだ。
エンドハイドは立ち上がり、体を伸ばすとヴィクトリアの方に目をやった。ヴィクトリアは可愛い顔をして眠っている。
寝顔を確認してそのまま椅子に腰掛けようとした瞬間、研究所内にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。そのサイレンは侵入者を知らせるサイレンだった。ヴィクトリアはその音で跳ね起きた。
オルカ・エルドルトが来る。エンドハイドを始め、首輪の野良犬全員がそう思った。
エンドハイドはオルカ・エルドルトがこの部屋に来るまでの時間を予想した。
この研究所の入り口は全部で六ケ所。この部屋に一番近いのは客人や所員が通るようになっている東口だ。それなら、そこから十分足らずでここに来る。しかし、相手も馬鹿ではない。そこは頻繁に人が出入りするから警備は常駐している上に、今は警備員以外にも見張りが付いている。
それなら、一番遠い物資運搬口から侵入してくる可能性がある。そこなら見張りも手薄だ。
だが、普通に考えて、わざわざ人が出入りするような所から侵入してくるだろうか? ダクトから侵入してくるなど充分有り得るだろう。考えれば考える程分からなくなる。
「全く、どこから来るのか見当もつかない相手を待つというのは神経使うから嫌いだ」
エンドハイドは後ろにいるヴィクトリアのことを気遣いながら呟いた。
「まぁ、やることはヴィクトリアの死守ね。
どこからでも来なさい、オルカ・エルドルト」
―――
――
―
「くしゅん、風邪ひいたかな?」
オルカはくしゃみをして鼻をかみながら呟いた。
「オルカお兄ちゃん、大丈夫?」
モニカは心配そうにオルカの顔を覗き込んだ。
「うん、大丈夫だよ。
でも、まさか警報が鳴るなんて思わなかったなぁ」
オルカは苦笑を浮かべている。
「まぁ、いいか。
モニカ、早いとこコンピュータ室に行って仕事を終わらせて帰ろうか」
「うん! じゃあ、モニカ探してくるね!」
モニカはそう言って走り出した。
「ちょ、ちょっと! 単独行動はダメだって!」
オルカはモニカを止めようとしたが、間に合わなかった。モニカは目の前にあった壁をすり抜けてどこかへ行ってしまった。こうなるとどうしようもない。
この警報が鳴り響いているのも、元はといえばモニカが変なボタンを押したからだ。せっかく交渉人が抜け道を教えてくれたのに、これでは何の意味もない。幸先が曇り出し、オルカは深いため息をついた。しかし、嘆いていても仕方がないのでオルカは行動を開始した。とは言っても研究所内の見取り図もあるわけではないので、ただ気が向くままに歩いているだけだ。
各段焦る様子もなく、ふらふらと歩いているとオルカの目の前を慌ただしく走っている白衣姿の研究員を見つけた。
「おーい、そこの君!」
オルカは大きな声を出して、研究員を呼び止めた。研究員は足を止め振り返り、オルカの姿に驚いて尻餅をついた。
「ひぃ、お、お前は誰だ」
尻餅をついた研究員にオルカは「大丈夫?」と声をかけ手を差し伸べた。研究員はその手を払いのけ尻餅をついたまま後退りをして逃げようとしている。
「…ふむ、なるほどね。
ブラッドさん、そんなに驚かないでしょ。僕は今、この研究所に配属されている首輪の野良犬だよ」
オルカはそう言って微笑んだ。
「な、何故、私の名前を…?」
「そんなの決まっているじゃないか。配属先の人の名前を覚えるのは基本中の基本だよ。
それで、今警報が鳴り響いているけど、どういう状況なの?」
「こ、これは十五支部を襲撃した人物がここにやってくることになっているから、そいつが現れた時のための警報だと思うが」
ブラッドがそう言うとオルカは驚いた表情を見せた。初めからここを襲撃されることがバレていた? 情報が漏れたのか? 一体、誰が?
しかし、今考えても仕方がない。
そんなオルカを余所にブラッドは話を続けた。
「君も首輪の野良犬なら、この警報のことは知っていると思うが。それに、君は首輪がついていないみたいだけど」
「あぁ、もちろん知らないし、首輪もついていないさ。だって、僕がその侵入者だからね。
ブラッドさんにはもっと聞きたいことがあったけど、もういいや。バイバイ」
オルカがそう言うと突如ブラッドは苦しみだした。そして、数十秒踠いた後、倒れた。
「はぁ、面倒臭いことになったなぁ。一体誰が?
まぁ、いいや。それにしても、首輪の野良犬ってのが気になるな。…早いとこ仕事を終わらせてモニカと合流しないと。
モニカは大丈夫かな」
オルカはそう言いながらブラッドから手に入れた記憶を頼りに足を進めた。
しばらく進み、ふと興味を惹かれる扉の前で足を止めた。その扉は他の扉とは違い木製で出来たまるで一般家庭にあるような扉だ。研究所内にある所為で余計に目に留まった。いつもなら面倒事を避けるオルカだったが、好奇心から扉を開け、中に入った。
中はとても薄暗いが誰かが生活しているような雰囲気があった。
「…なんで研究所にこんな部屋があるんだ?」
オルカがそう呟くと部屋の明かりが点いた。
「うわっ、眩しっ」
オルカはその眩しさに顔の前に手をやった。
「ようこそ、オルカ・エルドルトさん。
女の子の寝込みを襲うなんて、あなたってそんな趣味があったりするの?」
部屋の明るさに目が慣れたオルカは顔の前にやった手を戻した。するとそこには椅子に座ったオッドアイの女の子がこちらを見ている。そして、その横には人形のような顔をした綺麗な女の子の姿もある。どちらも首輪がついていた。
「生憎、僕にはそんな趣味はないよ。君は僕の名前を知っているけど、僕は君のことを知らない。どこかで会ったことあるかな?」
「いえ、初めましてよ」
オルカの問いかけにオッドアイの女の子が答える。
「…そうだよね。それなのに僕の名前を知っているということは、僕のファンなのかな?
残念だけどまだサインは無いんだ」
「私はあなたのファンなんかじゃないよ。それにあなたみたいな子ども趣味じゃない」
「そうか、それは残念。
それで、君は何ていう名前なの? 僕だけ知られているのは不公平じゃない?」
「どうせ、これから死ぬのに教えても意味ないでしょ。
まぁ、せっかくだし、冥土の土産に教えてあげる。
ニヒルよ。ニヒル・エンドハイド・ダミー。
よろしくね」
「ふーん、ニヒルさんって言うんだね。ニヒルさんはもしかして首輪の野良犬だったりするの?」
オルカがそう言うとエンドハイドは少し表情を曇らせた。
「そんな情報どこで手に入れたの?」
「ちょっと、ズルをしてね。
逆に僕の情報をどうやって手に入れたのさ」
「こちらも少しズルをしたわ。どういう訳か知らないけど、あなたは一切、映像に映らないみたいね。だから人の記憶を覗かせてもらったの」
「記憶? どういうこと?」
「前回の襲撃での唯一の生存者。ここまで言えば分かるかしら?」
エンドハイドにそう言われたオルカは少し考えて納得したような表情を見せた。
「まさか、あの産業廃棄物がこんなところで役に立つとはね。あの時殺しておくべきだったか。失敗したなぁ。
でも、どうやって人の記憶なんて見るのさ。もしかして、機械で弄り回したとか? やっぱり悪魔はやることが違うなぁ」
「あら、随分と余裕ぶっこいているのね。今日はお仲間の男は一緒じゃないの?」
オルカの表情が曇る。
「返事が返ってこないということは、もう連れの男は研究所内に侵入しているという事でいいっぽいね。
そして、その姿がここにないってことは、今はあなた一人でしょ? それなら好都合だわ。さっさと殺してあげる」
モニカのことを知られてはいないようだ。それならこちらも好都合と思ったオルカはニコリと笑った。
「結構な自信家だね。殺せるもんなら殺してみなよ。首輪の野良犬さん」
オルカがそう言うとエンドハイドは立ち上がった。オルカは身構える。未知の相手が二人、見た感じでは何か武器を持っている感じでは無い。エンドハイドの後ろに座っている女の子、先程のブラッドの記憶を読み取った時にあの女の子に関する情報を少しだけ得ていた。特殊な力があるものの、戦闘能力はさほど高くないということだ。
そうなると、やはり面倒な相手なのが目の前にいる、ニヒル・エンドハイド・ダミー。こちらに関しては何の情報もない。それに加え、相手はガレットの記憶を覗いて情報を得たと発言した。ということはオルカの能力が相手にバレている可能性がある。
オルカが策を練っているとエンドハイドが話しかけてきた。
「ビビって動けないの? それならこっちからいこうか?」
「…お好きにどうぞ」
「それじゃ、遠慮なく」
エンドハイドはそう言うとオルカとの間合いを一気に詰めた。一瞬でオルカの眼前に現れ、コメカミ目掛け右拳を放った。オルカはそれを左手で掴み、引き寄せ、エンドハイドのボディに膝蹴りを入れた。
エンドハイドは蹴りの衝撃で二、三歩後ろに下がった。しかし、ダメージを受けている様子はない。
「あれ? 結構手応えあったんだけど、もしかして効いていない感じ?」
「…これ、本気? それなら全然痛くないけど。
はぁ、拍子抜けってやつね。これなら、力を使うまでもない」
エンドハイドはやれやれといった様子でオルカを挑発した。しかし、オルカの耳にはエンドハイドの言葉は耳に入っていなかった。
エンドハイドとの接触の際に違和感があったのだ。その違和感とはオルカが触れたのにも関わらず、エンドハイドの記憶を読み取ることができなかったのだ。
オルカにとって初めてのことで、オルカは少し混乱した。しかし、今はそんなことを深く考えている余裕はない。すぐに我に返り戦闘態勢を取った。
「次からはニヒルさんみたいな敵を想定して肉弾戦も特にならなきゃね」
オルカがそう言うとエンドハイドは鼻で笑った。
「ふっ、次なんて無いでしょ。あなたは今からここで死ぬの」
エンドハイドはそう言ってまた距離を詰め、攻撃を仕掛けた。先程の探りを入れるようにして攻撃をしているわけではなく、完全にオルカを仕留める為の威力の攻撃だ。
今までたくさんの修羅場をくぐって来たオルカもその攻撃を躱すのに精一杯だ。
徐々にエンドハイドの攻撃がオルカに決まるようになってきた。オルカは既にノックアウト寸前のところまで追いやられている。
すると、エンドハイドは攻撃を止めた。
「つまらない。あなた本当に十五支部を二人で潰したの? 本当なら証拠見せてよ」
「はぁ、はぁ、…証拠? いいよ」
オルカは息を切らし、ふらつきながら手をパンと叩いた。しかし、何も起きる気配はな。
「…何をするのかと思えば手を叩いて終わりだなんて、冗談にしても笑えないわ」
エンドハイドはそう言ってトドメを刺そうとした。
「それはどうかな?
出でよ! 炎の精霊、イフリート!」
オルカが叫ぶと地面から、全身を炎で纏った大きな人影が現れた。
「前言撤回。なかなか面白いことするじゃん。
やっぱりそうじゃないとね」
エンドハイドは炎に包まれた人影を見て楽しそうに呟いた。すると、それを見たヴィクトリアが口を開いた。
「エンドハイドさん! 気を付けて! それはきっと偽物です!」
エンドハイドはイフリートから視線を外すことなくヴィクトリアに尋ねた。
「どういうこと?」
「エンドハイドさんにはどう見えているのか分かりませんが、オルカ・エルドルトが叫んだイフリートは私には見えていません!」
エンドハイドは眼前にいるイフリートをしっかりと見据える。確かに自分に見えている。だが、ヴィクトリアには見えていない。
「…! 幻覚か!」
エンドハイドはそう呟いた。
エンドハイドはイフリートに触れようと試みるが、エンドハイドが手を伸ばすとイフリートは跡形もなく消えた。そしてオルカの姿もない。
部屋の外に飛び出て辺りを見渡すが、どこにも見当たらなかった。