第八節 【We are!】
音失おとせ。
第八節 【We are!】
桜色高校での補講は午前中に終わって、今日はテニス部活動もないので足早に学校を出る。
夏休み最後の日、八月三十一日。
太陽がさんさんと照り付ける猛暑は過ぎたものの、まだ熱気と湿気はこびりついていて暑い。台風が発生したニュースがあったから、もうすぐ涼しくなるだろうけど。
太田駅から電車に乗って瓦町に向かった俺は、お菓子くらいは自分で用意した方がいいかもしれないと考えて瓦町駅地下スーパーで買い物を済ませる。いくつかのスナック菓子を入れた袋を片手に、ショルダーバッグを背負い直してまだら相談事務所へ急ぐ。
「おじゃまします! 斑さん、昼飯ゴチになります!」
「やあいらっしゃい」
《護くんこんにちわ、お疲れ様!》
ひと足先に夏休み最後の補講を終わらせていたおとせがダイニングテーブルで勉強していて、斑さんにお菓子を手渡しながら隣に座る。
「わざわざ買ってくれなくてもよかったのに」
「場所貸してくれるんでせめて、っす」
おとせとは今後、なかなか会えなくなる。今日だって朝の電車で、隣におとせがいなくて寂しく感じたものだ。
だが会うとして、学生の俺たちではカフェやカラオケで過ごすにはお小遣いが心許ない。ファストフード店も最近は長時間の滞在を禁じているところが多いし、落ち着いて一緒に勉強する場所を探していたところに鬩兄から提案があったのだ。
まだら相談事務所ならば依頼がない限り自由に使えるし、鬩といちずもいるから話を聞く分には不足しない。正式な講師契約が成れば個人塾として勉強を見てもらうこともできる。
至れり尽くせりだな、と人間関係に恵まれたことに感謝しつつおとせの解いたドリルを見ていく。
鬩兄製作のドリルをノートに写して解いていく形で、書き写された問題文や解説にも逐一主語、述語、接続詞と分類されていて言葉がどこに掛かっているか矢印で示されている。単に問題文を読むに終わらず、日本語の構成を理解して叩き込もうとしているのが見て取れるノートだった。
《あのね、今までのわたしのノートや作文もね、見直しているの》
そう言って手渡されたノートをぱらぱらと捲れば、赤ペンで何箇所も助詞や文法のミスを修正していた。
《護くんにいろいろ教えてもらってから、今までのわたしがどれだけ、いろんなことを無視していたか、わかったの》
どうせ無理だから。
どうせ頭悪いから。
どうせ聾唖だから。
──そんな言い訳を胸に、自分と向き合うことを避けていたとおとせは言う。
《宇々兎先生がね、わたしに合わせた大学進学コースを組めるよう、校長先生や主事と相談するって》
高松市立聾学校高等部は元々、産業工芸科、理容科、被服科の三種類があったのだそうだ。平成前半あたりまでは〝障害者は手に職を〟という考え方が強く、ある中学生が普通科のある学校に入るために高松市立聾学校を出て行ったのを機に、考え方を転換して普通科を創設したらしい。そうして今では普通科がメインになり、技術系コースはなくなってしまった。
〝手に職〟を望む生徒には相応のコースを準備するが、システム化・機械化の著しい現代においては、生活できるだけの糧を得るには聾学校で学べる技術だけでは困難を極める。技術を身に付けたいと望むならば職業訓練所ないしは聴覚障害者専門の大学に進学する方がよい、とこのような形に収まったのだと。
《わたしが、小学部の時にはもう、普通科しかなかったかな。ちょっと残念だった。幼稚部の時にね、文化祭でね、高等部の被服科が作ったウェディングドレスが展示されていて! すっごく綺麗だったのを、覚えているの》
だからおとせは被服科がないことを残念に思いながら普通科に進学したと。今となっては大学進学コースを選べる普通科でよかったと思っているらしいが。
《先生ね、わたしの日本語褒めてくれたの! どうしたんだ? ってすっごくびっくりしてた!》
《お~いいじゃん。さすが先生、見るところは見ているな。それ以上におとせの成長がすごいんだろうけどな》
《護くんだって、手話、すっかり上手!》
それは感じる。手話を使っても詰まらなくなった。わからない手話は指文字に変換すりゃいいし。むしろ手話過多だと伝わりにくく、指文字オンリーだと読み取りにくく、ってのも学んだ。〝グラウンド〟〝オーディオ〟なんかのカタカナ単語は特に、手話よりも指文字の方がわかりやすい感じ。
〝運動場〟は手話の方がわかりやすいんだけど、〝グラウンド〟は指文字の方がいい。不思議だ。
それに創作手話なんてのもあって、斑さんの名前は〝涙〟の手話で表現されている。いちずさんと鬩兄発案で、理由はよく泣くから。斑さん……。
おとせの学校の先生、宇々兎先生も〝ウ〟の指文字を三角形に動かす創作手話になっているみたいだ。面白い。
《おとせちゃん、護くん。ごはんできたよ~》
と、ちょうどその時斑さんがキッチンから声を掛けてきた。外で昼を食べてから行くと言った俺たちに斑さんがごちそうするよ、と言ってくれたのだ。
礼を言って、机の上を片付けて食事の用意に入る。
《あれ? ちっちゃなお皿》
《それは椿狐のぶん》
《つばき……つね?》
ダイニングテーブルに並べられた三人分のクリームパスタ以外に、もうひとつ、小さな小皿に盛りつけられたクリームパスタを見て首を傾げるおとせに斑さんが言う。
《九尾神社の祀神さまだよ。椿のようなしっぽの、九尾のお狐さま》
《ぼくもなんだかんだ、九尾神社にはお世話になっているからね。いつもありがとうって、祀る意味で?》
《なるほど……神社……護くんは、神社の跡を継ぐんだよね?》
《うん、そのつもり》
俺の言葉におとせは何回か頷いて、考え込むような素振りを見せる。
《神社のことも、色々知りたいな》
《いいよ。神道や神社について興味持ってくれるのは嬉しいし》
敬虔な信者かと言われると違うけど、敬っているし好きだから、少しでも面白いって思ってくれたらいいな。
《よし、じゃ食べようか》
準備を終えて席に着いた俺たちに、斑さんが笑顔で召し上がれと促してくる。遠慮なく、手を合わせていただきますしてクリームパスタにかぶりついた。
「うめっ」
《おいしい》
《それはよかった。バゲットもあるからどんどん食べちゃってね》
マジでうまい。鮭の切り身がクリームをたっぷり吸いこんでとろとろにほどけて、クリームをたっぷり絡めたパスタと食べると最高にうまい。バゲットを千切ってクリームに浸しても最高にうまいし、幸福感で満たされる。
「マジで何で彼女できないんすか」
もごもごと行儀悪くパスタを頬張りながら言う。言わずにはいられなかった。ほんと、何でもできるいい人なのに。
と、おとせが俺を見て首を傾げていたので同じ言葉を手話で伝える。そうしたらおとせは視線を斑さんに移して、考え込むこと数秒。そして、ぽつりとひとこと。
《お母さんだから……?》
撃沈。
《お母さんみたいな男の人も、素敵です。料理ができるって、すごいです。こんなおいしいごはん、毎日食べたいです。とっても優しいところとか、お母さんみた……あっ》
遠い目をする斑さんに慌ててフォロー入れるおとせを眺めつつ、バゲットを頬張る。生きろ、斑さん。
《うん、まあぼくのことは置いといてさ。勉強の方はどう?》
《えっと……今は、復習ばかり、しています。神社せんぱいのドリルをやって、わたしが中一の時のノートを見直して、復習》
《俺もぼちぼちかな。夏休み明けに模試があるし、そこで今の学力を知ってどうするか決めます》
《あっ……そうだ、模試……》
俺の学校では大学受験対策として統一模試を受けることが全生徒に義務付けられている。そしておとせの学校もまた、同じらしい。
《どうしよう……模試、いい点とったことない……》
《勉強始めたばかりなんだし焦らなくていいよ。今の自分がどれくらいなのか知るためのもの、って思えばいいんじゃないかな》
実際、模試とはそういうものだ。模試の成績を見て自分の強み弱みを知り、伸ばしていくべきところ補っていくべきところを探り、今後の学習方法を決めていくものだ。
……中学二年生の時、模試の結果を見てこのままじゃ第一志望が無理だってわかった時の絶望感は凄まじかった。
《うん。最初からあれもこれも、って考えない方がいいよ。今のおとせちゃんが頑張りたいのは中間試験なんだろ?》
《はい……》
「…………」
おとせは、何事にも真摯だけれどその反面、何もかも抱え込んでしまうのかもしれない。勉強だって軽く見回っただけで、ドリルやらノートの復習やらいろいろ一気にやってしまっているように思った。最初からいきなりこれだと、潰れてしまいかねない。
先細りの努力になってしまわないよう、コントロールすることを最初に覚えるべきなのかもしれない。鬩兄に聞いてみよう。
ほどなくして食べ終えた俺たちに斑さんが食後のお茶を淹れてくれた時だった。斑さんのスマートフォンが鳴り、少しの会話の跡に事務所を空けることを謝罪してきた。
《ごめんね。すぐ戻るから。お留守番お願いしてもいい?》
《大丈夫ですよ。気を付けていってらっしゃい》
《あっ、お皿、洗います》
出る前にお皿を、と動いた斑さんを制しておとせがお皿を運ぶ。俺も付き合って、お皿を重ねて持っていく。
《ありがとうね~》
《いいえ。──あれ? お皿が、からっぽ》
ふと、ダイニングテーブルの端っこに供えられていた椿狐さまの分のお皿が、すっかり綺麗になっていることに気付いておとせが首を傾げる。
《ははは。神さまもおいしいってさ》
斑さんは笑って、後をよろしくと手を振って事務所を後にしていった。
《椿狐さまが……食べたのかな?》
《そうかもね》
こういう不思議なことは神社に住んでいて、時々起こる。そんな時に我が家はいつだって〝椿狐さまがいらしている〟と笑ったものだ。
《へぇ……なんか、素敵だね。不思議……》
ますます神社について知りたくなった、と笑うおとせに俺も笑って、並んで皿洗いに勤しんだ。
◆◇◆
斑さんが出ていってから一時間ほど経っただろうか。思った以上に手こずっているようで、〝ごめんおそくな〟と、中途半端なメッセージが届いたきり音沙汰がない。続けて、鬩兄から〝こっちは気にするな〟と来たので大丈夫だろうけど。
《やっぱりおとせは計算に強いね》
《そう? でも、式を覚えるのがたいへん》
それに、とおとせは文章問題に対してどの公式を当てはめるべきなのかまだわからない、と言った。
《解の公式がどういうたぐいの問題に当てはまるか結びつけるのも読解力がモノを言うね》
《国語かぁ》
《長文問題を解けるようになったら文章問題も大体できるようになると思うよ。こればかりは数をこなして慣れるしかないね》
《うん。頑張る》
《頑張るのもいいけど、休憩も入れないと疲れちゃうよ》
きゅーけーきゅーけー、とおとせから筆記用具を取り上げてソファで休もうと促す。まだやりたそうだったけれど、立ち上がってみて自分が思った以上に疲れていることに気付いたのか素直に応じてくれた。
《脳みそってね、働き続けていても頭に入らないんだって》
《頭に?》
《うん。覚えたこととを脳みそが整理するのは休んでいる時なんだって。体を休めて考えるのもお休みしている時に、脳みそがせっせっと覚えたことを整理して本棚に仕舞っていくんだって》
だから徹夜で勉強するよりもしっかり睡眠を取った方が身に付きやすいんだそうだ。
だからと言って何日も何日も休んでいたらせっかく整理した本棚を脳みそが必要ない本棚って判断してぽろぽろ捨てちゃう。
《ははぁ……なるほどぉ……》
《うん、だから休憩。お菓子食べよう》
飲み物は冷蔵庫からオレンジジュースを頂戴して、ここに来る前に勝ってきたお菓子をローテーブルの上に広げる。
《あっ、ふるめえくん》
《ほんとだ。いちずさんが置いてったのかな。テレビでも見ようか》
ふるめえくんをセッティングしてテレビと繋げて、適当にニュース番組を流す。ドコドコと面白いくらいに振動するふるめえくんを抱きしめておとせが笑う。
《これはヘリコプターの音なのかな?》
《うん》
《すごい振動。楽しい》
《あ、そういえばDVD持ってきてたんだった》
そう言いながら引き摺り出したのはアニメピースメインの一巻目。昨日レンタルショップで借りたのだ。
《わあ、懐かしい!》
《な~》
衛星放送で再放送はあったけれど、第一話は見逃していたから久々に見たいと、あとついでにおとせと一緒に観れたらと借りたのである。
プレーヤーにセットして、再生ボタンを押す。
《We are! 懐かしいなあ》
《へえ、We are!ってそんな手話なんだ》
《ASL──アメリカ手話だよ》
《それアルファベットの指文字? そっちも覚えないとなあ》
〝ア〟の指文字はアルファベット〝A〟の指文字から来てるから同じとか、結構ゆかりがあるみたいだ。
《英語の時間にね、ASLの勉強もするんだ》
《へぇ~》
──と、話している間にアニメピースメインOPが終わって本編に入ってしまっていたので、巻き戻す。今度はふるめえくんをちゃんと抱き締めて歌を聴く。
ありったけの夢を搔き集めて飛び出していく、ピースメインの代表曲に相応しい歌。
気付けば、口遊んでいた。おとせも、ふるめえくんを抱きしめながら体でリズムを取っている。少しちぐはぐだったけれど、ピースメインじゃなくておとせのリズムに合わせて、俺も口遊む速度を緩める。
すぐ終わるOPだけれど、これを見ていた当時は目を輝かせて心を弾ませて、これから始まる冒険に胸を躍らせていた。この曲が伝えたいのは、ひとこと。
〝わたしたちはここにいる〟
《懐かしかったなぁ》
《本当にな。それ、やっぱいいな。銃声とかすごかった》
《ほんと! びっくりしちゃった》
第一話丸々見終わって、テレビを消した俺たちは余韻に浸りながら〝音〟について語らう。けれどふと。
でも、とおとせがもっと〝音〟を身近に感じられるものが欲しいと言った。
《護くんの声とか、車の音とか、周りの色んな音を、振動にしてくれるバンドとか、あればいいなって》
《あぁなるほど》
《でも欲しいなーって、思うより、作れるかなーって、試してみたいんだ》
《なるほど、だから創造工学部に興味持ったんだ》
《うん。わたし、昔ミニカーを作ったことあるんだ》
車のおもちゃが欲しいとねだったおとせに父親が子ども向けの制作キットを買ってきて、父親の助言を受けながら自力で作ったのを思い出して、欲しいものがあれば自分で作る手もあると思い至ったらしい。
《いいな、そういうの》
《へへ。だから、勉強頑張らなくっちゃね》
《うん。まずは文章を読むことに慣れないとな。本、どう?》
《今ね、ハニー・ポタージュの二巻を読んでいるんだ。すっごくハラハラドキドキしちゃって、読むのが止まらなくて、夜更かししちゃって、お母さんに怒られちゃった》
そう言って照れ笑いするおとせに、俺も笑う。
ああ、なんかいいな。こうやって、誰かがやりたいことをやっているのを見るのは。うん、なんか嬉しくなる。不思議な気持ちだ。
《でもね、お母さん言ってくれたの。欲しい本あったら買ってあげるから言いなさいって。漫画はいつも渋るのに》
《ははは、わかるわかる。俺の母さんもだ。なんだかんだ買ってくれるけどな》
《うん。わたしのお母さんも》
漫画が増えすぎて怒られるのもあるあるで、一緒に笑い合う。
《あ! あのね、ピースメインもね、読み直して、いろいろ、見方が変わったの! それでね、好きな台詞! できた!》
《お? どんなの?》
《その台詞を言っているキャラは、好きじゃないんだけどね──あのね、『笑われていこう』って台詞》
──『いいじゃねぇか、笑われていこうぜ』
後々主人公の敵になるキャラが口にした、口さがない他人なんざ気にする必要はないという言葉。
ああ、と吐息のような声が漏れる。
確かにこれは──主人公たちの心情を理解した上できちんと推察しないと、わからない。
《前、読んだ時は、ロマンスたちがどうして、笑われているのにぶっ飛ばさないんだろうって、思ってた》
この台詞の直前に、主人公であるロマンスが夢を語り、大笑いされてボコボコにされるシーンがある。それに対してロマンスは怒るでも泣くでもなく、無表情で──無抵抗で、馬鹿にされ続けた。仲間にも〝手を出すな〟とまで言って。
笑われることに対し何も返さないことを情けないととるか、あるいは。
《笑っている人たちをぶっ飛ばしたら、スッキリするのにってずーっと思ってた》
何故やり返さない? ムカつかないのか?
笑われているままでいいのか? ぶっ飛ばしてほしいのに。
そんな気持ちを抱えながら読んでいたと語りながら、違うんだねとおとせは笑った。
俺は何も返さず笑顔で頷く。
もう今のおとせに説明は、いらない。
《わたし、笑われるの、怖かったし嫌だったから。今でも、怖いし嫌だけど》
〝聞こえないのに?〟と、世間話でもするように笑いを向けられる。それはおとせの〝やりたい〟という感情を萎ませる原因となった。〝やりたい〟という衝動を他人に伝えるのを怖がるようになった。
けれど、この台詞の意味と、ロマンスたちがやり返さなかった理由を悟って──少し、励まされたのだとおとせは微笑む。
《護くんみたいに、わたしを笑わない人もいるし。だから、わたしのやっていることを、馬鹿みたいって笑う人は、これからは無視しちゃおうかなって》
《うん。無視しなよ。斑さんとか先生とか、色々助言してくれる人の言葉は聞くべきだと思うけど、最初っから否定する人なんて無視すればいい》
自分の人生だ。他人に口出しされる筋合いはない。
《俺も、堂々とする》
《護くんも?》
《前、言ったろ? 俺、ぬいぐるみ好きなんだよ。でも笑われるから恥ずかしくて、本当は鞄にぬいぐるみキーホルダーぶら下げたいんだけどできなかったんだ》
〝女みてー〟と笑われた時の記憶は、未だに色濃い。
でも女みたいだからなんだというのだ。かわいいものはかわいい。嗜好に男女差はない。男だから青色、女だからピンク色、なんていう時代はもう終わった。
《実はいっつも持ち歩いてるんだよな。コレ》
そう言いながら通学用のショルダーバッグの奥に仕舞い込んでいる、椿狐のぬいぐるみキーホルダーを取り出す。九尾神社の祀神さまである、八本の朱尾と一本の金尾を持つ真っ白な九尾の子狐。
おとせの目が、輝く。
《かわいい! もしかしてこれ、椿狐さま?》
《そうそう。斑さんが作ってくれたんだ。でっかいぬいぐるみも家にある》
《かわいい~! いいなぁ、わたしも欲しい!》
《ぬいぐるみはプレゼントされたものだけど、こっちのキーホルダーは二〇〇〇円で作ってくれたヤツ》
《あっ、それなら払えそう》
ハンドメイド、特にオーダーメイドは高い。椿狐のぬいぐるみキーホルダーだって普通に、お店や職人にオーダーメイドしたならば六〇〇〇円以上はするって斑さんは言っていた。それがこの価格である。ただし、一度に一個限定で複数個製作の受け付けはしていない。中高生からの依頼が多いみたいだ。
《すごいなぁ》
《ね。──んで、今日からこのキーホルダーはココにセット》
ショルダーバッグのベルト部に輪を通して、ぶら下げる。
《かわいい》
《な。笑われても可愛いだろって言い返すよ、これからは》
今の時代、男も可愛いものを好むことについてとやかく言われることは減った。それでも、ゼロではない。けれど──たとえ言われたとしても、今の俺なら気にならない。
こうやって一緒にかわいいって言ってくれる、おとせがいるから。
そして願わくば。
これからも、こうやっておとせと一緒に。
《護くん?》
言葉もなく唐突にショルダーバッグを漁り出した俺をおとせが見守る中、瓦町駅の地下スーパーでお菓子と一緒に買った風船を取り出す。
あの時と同じ赤色の風船を選んで、大きく息を吹き込む。
《風船、いいよね。ふるめえくんの振動も、楽しいんだけど、声を出した時の、風船の振動の方が、好き》
《わかる気がする。響いているんだって実感できるんだよな》
そう言いながら、風船をおとせに差し出す。そうっとおとせの両手が風船に触れて、ぺたりと頬もくっつける。
唇を寄せて、紡ぐ。
「俺はおとせのことが、好きです」
響く風船。伝わる音。触れる、音。
「俺はおとせのことが、好きです」
響かせる。震わせる。繋がる、音。
「俺はおとせのことが、好きです」
繰り返す。繰り返す。奏でる、音。
「俺はおとせのことが、好きです」
おとせと視線が、合う。逢う。
あの日のように怯えた目では決して、ない。俺のことをまっすぐ見つめている──〝神社護〟という人間を見てくれている、目。
だから、俺も〝音失おとせ〟という人間を、まっすぐ見据える。
《俺はおとせのことが、好きです》
そっと風船から離れて、手話で伝える。
おとせの目が驚愕に見開かれて、和紙に落とされた絵の具のように赤く色づく。
ぎゅむ、と風船を口に押し付けられる。
《もう一回》
風船越しに、赤い風船と変わらないくらい赤く花開いた顔でおとせが強請る。
「俺はおとせのことが、好きです」
だから、もう一回。
「俺はおとせのことが、好きです」
もう一回。
「俺はおとせのことが、好きです」
何回でも、何回でも。
「俺はおとせのことが、好きです」
おとせが強請るままに、何回でも。
何回でも、何回でも。おとせが願う限り、音を伝えよう。おとせが触れるように、音を伝えよう。
音は決して、聞こえる人間たちだけのものじゃないから。
《わたしも、護くんのことが、好きです》
何回、何十回繰り返しただろうか。
赤みのかかった桜色で頬を彩ったおとせが、赤い風船を下ろして微笑む。晴れやかだけれどしっとりとした恋慕の色も染み込んでいる、晴天に降る雨──〝狐の嫁入り〟を思い出させる笑顔だった。
おとせの濡れた眼差しに惹き寄せられるように、手がおとせに伸びる。
「まだらさん、こんなところでどうしたんですか?」
手を音速で引っ込めた。
今のは──いちずさんの声? 玄関の、ドアの向こうからだ。
「いや……ちょっと甘酸っぱい夏の熱気にやられてね」
続けて、弱々しいながらもいちずさんに答える斑さんの声が上がる。ヤバい、もしかして聞かれてたのか?
おとせが首を傾げていたので、伝えるかどうか数秒ほど逡巡し──結局、伝えた。
おとせが爆発した。そりゃそうだ。
「おかえりなさい、斑さん……こんにちは、いちずさん」
おとせがふるめえくんに顔を埋めているのをよそに、俺はとりあえず斑さんたちを出迎えた。
「やあ護くん。留守番任せてごめんね。爆発してくれ」
「本音出てます」《いちずさん、大学は終わったんですか?》
《うん。今日は二限までだったから》
大学での講義は一時限九十分。午前は二限分、三限目からは午後に割り振られていて、どの講義を取るかで時間割が変わるんだそうだ。講義の取り方によっては一限と三限だけ、なんて日もあって空き時間を持て余すこともあるらしい。
《七限目ともなると八時前から九時過ぎまでになっちゃうんだよね。あたしたちはまだ一回生だからないけど》
鬩兄といちずさんは全学共通科目は一緒に、また空き時間が被った時も一緒に過ごしているとのことだったが、今日みたいに終わる時間が違う時は待たず、まだら相談事務所へバイトしに行くみたいだ。
《あれ? おとせちゃんどうしたの?》
《あ~……うん、えーと》
《爆発すればいい》
未だにふるめえくんに突っ伏しているおとせにいちずが頭をひねるが、どう答えればいいものか。あと斑さんは落ち着け。
それから、いちずさんの好意に乗って数学の勉強を一時間ほどした。いちずさんは理数系だそうで、特に数学に強いとのことだった。鬩兄は文系で、けれど天才だから理数系もイケる。くそ。
《何でもできる鬩くんだけどね、斑さんのことになると必死な顔になって》
腐海に呑まれる前におとせを引き摺ってまだら相談事務所を後にした。
◆◇◆
《そっか、護くん高松築港方面なんだね》
《うん。端岡駅が最寄りだからね。高松駅でJRに乗り換えなきゃなんねーの。めんどくせぇ》
瓦町駅一番・二番ホーム。瓦町駅は一階がホーム、二階が改札口になっている。だからか地下鉄に近い造りをしているそこは無機質なコンクリート造りで、全体的に暗い灰色の世界。そこで俺とおとせは向き合う。
夏休みも終わり。
ひと夏の奇跡のような、滝宮駅から始まった電車での物語は終わる。
けれど代わりに、俺たちが望む限り続いていく関係がこれから、始まる。
どうなるかはわからない。不安が少しもないと言えば嘘になる。鬩兄のように女心に敏いワケじゃないから、傷つけてしまうことがあるかもしれない。やりたいことが変わって、歩む道筋が合わなくなるかもしれない。聞こえると聞こえないで、どうしようもない差を感じることだってあるかもしれない。
けれど、少なくとも。
《おとせ。電車が一緒じゃなくても、俺はこれからもおとせと一緒にいたい》
率直に気持ちを、言葉にする。
《うん。わたしも、護くんと一緒にいたい。護くんと一緒に、色んなことを頑張りたい》
おとせもまた、気持ちを言葉にする。
真摯な姿勢には真摯な姿勢を。
真摯な言葉には、真摯な言葉を。
真摯な気持ちには──真摯な気持ちを。
俺たちがこれを忘れない限り、大丈夫。
《あ、電車が来ちゃう》
ちかりと灰色の世界を照らすライトを先頭に灯した電車が遠目に見える。まずは、琴平方面──滝宮駅へ行く路線の電車。
《じゃあね、護くん》
《うん。また明日、朝に太田駅でね》
名残惜しそうにおとせの手が俺の袖口を掴んで、やがて離れて行こうとしたのを掴む。
同時に、生ぬるい夏風と一緒に入ってきた電車が金属音を響かせて停車する。
構わず、おとせの小さな手のひらを俺の喉元に押し付けた。
「好きだよ、おとせ」
こんな場所だから少し恥ずかしくて、つい声を潜めてしまったけれど。
振動は確かに、おとせに伝わった。
《わたしも》
おとせの──愛くるしい、狐のような目が、零れ落ちはしなかったけれど、涙で潤む。
するりと今度こそおとせの手が──離れる。ゆるりゆるりと、線路の向こうから吹き込んでくる生ぬるい夏風に促されるまま、未練を背中に貼り付けておとせは電車に乗り込んだ。
すぐこちらを振り向いておとせは手を振る。扉が閉まる。ああ、と名残惜しさで胸が締め付けられる。もう少し、瓦町駅ビルでもぶらぶらすればよかっただろうかと後悔する。
《護くん》
閉じた扉の向こうで、おとせが窓越しに声なき手話で言葉を届けてくる。
《わたしに声をかけてくれてありがとう》
いつか聞いた言葉。
おとせの、心からの感謝と恋慕を窓越しに見つめて、動き出した電車に合わせて遠ざかっていくおとせに俺も、伝える。
《何度でも声をかけるからな!》
遠ざかっていく電車の窓の向こうに、おとせの笑顔が見えた気がした。
こうして、俺──神社護のひと夏の物語は終わりを迎えた。
滝宮駅で出逢った奇跡のような邂逅から一ヶ月半弱。あっという間の夏休みだった。毎年、風のように過ぎ去っていく夏休みに嘆いていたものだけれど、今年の夏休みはなんだか違う。
あっという間なのは確かだったけれど、いつものように物足りなさを感じることはなかった。
むしろ、濃かった。端から端まであんこでぎっしり詰まったどら焼きのように濃かった。いや、今朝どら焼き食べたからつい例えに使ったけどなんかヒドい例えだ。えーと。果汁百%……うーん。センスがないな、俺。
ともあれ。
本当に濃厚で、夏休みの一日一日がありありと思い返せる。例年は夏休みのうち一日をどう過ごしたかなんて思い出せないくらい、全体的に薄味だった。けれど今年は、おとせの出会いから今日の別れまで、一日一日、どんなことがあったか──どんな風に過ごしたか、どんな会話をしたか、どんな考えを巡らしたか、ありありと思い出せる。
じいちゃんとばあちゃん、父さんや母さん、鬩兄に戦、斑さんにいちずさん。おとせのお母さん。そして、おとせ。
色んな人間と深く関わったな。色んな人に助けられて、支えられて、教えられて──色々、考え方が変わった。
そしておそらく、きっと。
これからも、考え方は変わり続けるのだろう。今までは流されるままに、何も考えず知識だけつけただけだったけれど、これからはそうならないから。
これからは、たとえ流されても思考は止めない。学び取れるものがあれば学ぶ。反面教師となり得るものがあれば反面教師とする。そうして俺は俺のために、俺自身と──そして、おとせと向き合っていきたい。
やがてホームに入ってきた高松築港行きの電車に乗り込んで、俺は笑う。
──俺たちは、ここにいる。
音を聞きなさい。
音は貴方に心を教えてくれます。
音は貴方の魂を癒してくれます。
音は貴方の命を守ってくれます。
音を聴きなさい。
音は言葉です。心を通わせます。
音は情緒です。魂を満たします。
音は知識です。命を強くします。
音を訊きなさい。
音こそが、万象の始まりなりや。
──では、音を持たぬ者たちはどうすればいいのでしょうか。
大丈夫。
音を持たざるとも、音に触れることはできる。
ともに触れようとしてくれる存在が、いるならば。
【わたしたちはここにいる】
これにて「おとのさわりかた」完結です。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
またいずれ、続編も書けたらと思います。
「おとのさわりかた」に登場した神社鬩、真田羅斑、甘神いちずについては、別作品「憑訳者は耳が聞こえない」に出会いが描かれています、ぜひ、そちらもどうぞ!