第七節 【heart’s map】
先生。
第七節 【heart’s map】
讃岐大学創造工学部知能機械システム工学科の入試を受けるチャンスは四回。
AO入試。
二教科推薦。
大学共通テスト。
一般入試。
《鬩兄が言うには、AO入試を受けるのに必要な評定点は4以上》
《評定点?》
《中間試験、期末試験の成績で評価される点数。ほら、成績表のアレ》
《ああ~》
夏休み最後の日曜日。
二学期は水曜日から始まるからまだ終わりではないんだけれど、月曜日も火曜日も登校日になっているから実質的には今日が夏休み最後の日。
おとせの一件から既に三日が経過している。おとせはあの後、結局鬩兄に勉強を見てもらう旨を認めてもらえなかったらしい。まずは自分で頑張って二学期の中間試験でいい成績を取りなさい、ということになったようだ。ふるめえくんも成績次第で考えてくれるとのことだった。
だからこうやっておとせと落ち合って、おとせのクラスの授業進度を確認してどこから始めるべきか、俺に可能な限り手助けすることにした。鬩兄もメッセージでアドバイス程度ならば構わない、と協力的になってくれている。
それにあたって、ついでということで進学するかどうかはさておき、讃岐大学へ入るのに必要なものを確認することになった。
《AO入試は書類選考と小論文、面接。この小論文は今から練習しておくべきだって》
《小論文……作文とは、違うのかな》
《えーと、宇々兎先生っている? 鬩兄がその先生に相談しろってさ。親身になってくれるからって》
《うん、わかった》
《でも鬩兄もいちずさんもAO入試は落ちたんだって》
AO入試の書類選考では個人の成績や人柄以上に〝学校のブランド〟がモノを言う。高松市立聾学校の偏差値は低い方で、そこでいい成績を収めていたとてさしたる自慢にはならない──そういうことらしい。
《鬩兄といちずさんはその次の二教科推薦で通ったんだって。二教科推薦も評定点4以上が必要で、それに加えて二教科の筆記試験と小論文、面接》
鬩兄といちずさんが讃岐大学に受かったことで讃岐大学の高松市立聾学校への評価が上方修正され、AO入試が通りやすくなる可能性もあるが、楽観視はせず二教科推薦を狙ったほうがいいというのが鬩兄の見解だった。
《どっちにしても、中間試験と期末試験をもっと、頑張らないとだめだね》
《うん。俺もちょっと油断してた。評定点が足りてないと推薦受けられないってすっぽ抜けていた。真面目に考えないと……おとせはまずうううせんせーとやらに相談。そんで中間試験に向けて勉強、だな》
《うん。でもちょっと困ってるのが、数学》
他の教科と違い、数学だけは基本で躓いている状態のままではいくら勉強しても身に付かない。実際、おとせも夏休みの数学ドリルを改めてやり直してみたはいいものの、中一で習った公式や理論が下地にあることに気付いて慌てて中一の教科書を引っ張り出した。しかし、そこで詰まっていると。
《──〝わからない〟がわかっただけでもすごい進歩だよ》
ただなんとなく教科書にある通りの公式を当てはめて解いていくのと、問題文を讀み解いてどのように解を導き出していくか考えるのは、天地ほどの差もある。
それも先生に言うといい、と伝えて、俺が中一の時に活用していた数学ドリルを手渡す。
《これ、鬩兄手作りなんだ》
《神社せんぱいの!!》
花開いた笑顔ごちそうさま。ちくしょう。
《元々はいちずさんのために作ったものなんだって。わかりやすいし、基本が身に付くから俺も活用させてもらったんだ》
《すごいなぁ》
鬩兄を思い出しているのか、ほうっとため息を零しているおとせになんとなくむっとする。
──憧れの人だってのはわかっているけど。わかっているけど、それでもむっとするものはする。
──ああちくしょう、認めてやるよ。おとせに惚れているよ。惚れているともさ。鬩兄への僻み三割、嫉妬七割だよ悪かったな。
若干やさぐれ気味に、憮然とした面持ちで俺が中学生の時に利用していたドリルの山を整理する。
《いっぺんに全部やろうとすんなよ。俺もやる気に任せていっぺんにたくさんやって、ダレちゃったからわかるんだけどさ……勉強って継続することが肝心だから、一日に一ページ、二ページやったら終わりとかルール決めるといいよ》
《そっか。うん、わかった。がんばる》
《一度やったページをもう一回やるとか、復習も定期的にしておくと身に付きやすいよ》
一度やれば理解できて、かつ身に付くなんて鬩兄のような天才じゃないと無理だ。
《神社せんぱい、本当にすごいよね。中学部の時もね、先生がいつも〝神社を見習え〟って言ってたんだ》
それは──キツいな。
天才を基準にされるのは、キツい。父さんや母さんは鬩兄が特別だってわかってたから俺や戦と比べることはしなかったけど、でも優秀な兄弟と比べられて荒む同級生は、たくさん見て来た。
《……どうしてみんな、比べたがるんだろうな》
健常者と聴覚障害者。
優等生と劣等生。
大人と子ども。
天才と凡才。
男と女。
俺は神社護で、おとせは音失おとせだ。けれど個として捉えてくれる人間は、指で数えられるほどしかいない。実の両親でさえ娘を〝聴覚障害者〟にカテゴライズしてしまうほどだ。
《わたしも、お母さんやお父さん、お兄ちゃんのことを〝聞こえる人〟だからって、わたしとは違うって思ってたかもしれない》
あの一件後、家に帰って母親に謝られたらしい。日本語上手になったのね、と褒められたと。
その時に、やっと気付いたんだそうだ。おとせのお母さんが──サンダルのまま、おとせを探しに飛び出していたことに。
母親だって人間だ。間違えることはもちろん、気付かないことだってある。考えが偏ることだってある。好き嫌いだってある。
それに、気付いたとおとせは言って頬杖をつく。
《考えたことなかったなー。夏休みに入ってから、いろいろ考えている気がする。夏休み前のわたしって、なんであんな何も考えていなかったんだろう》
《……それは俺もだよ。おとせに会うまで将来のこととか障害のこととか、ちっとも考えてなかった》
本当に目まぐるしい夏休みだった。
おとせと出会って、聞こえないということを知って、自分の驕りを知って、悪気なき悪意を知って、進路の多岐さを知って。
《俺、おとせと出会えてよかったよ》
《ぇあ、あ、うん……わたしも》
頬をほんのり桃色に染めてはにかむおとせに、胸の奥が疼く。
《んじゃ、そろそろ何か食べる?》
今さらだが、ここはショッピングモールのフードコート。夏休みも終わりだからと、色々相談しがてら昼食を済ませて映画を見ることになっている。
《今年の夏は海行ってないや》
《わたしは家族旅行で川行ったけど……海、行ってないな~》
《んじゃ来年行く?》
《いいの? 行きたい》
うん行こう、と言ったところではっとする。
すっかり来年の夏も、来年の夏まで一緒に過ごす気でいることに。おとせは深く考えていないようだけれど、俺は何だか気恥ずかしくなって鼻を鳴らす。
《明日、俺九尾神社に戻るんだ》
《九尾神社……そっか、護くんのおうちって国分寺なんだよね》
《うん。だから滝宮からじゃなくて端岡駅からの通学になっちゃう》
──おとせとの電車通学が、なくなる。
《……寂しいな》
──俺もだよ、とは口にしないでおく。
《学校が終わったら部活と塾があるし、休みくらいしか会えなくなるかな》
《……でも朝、太田駅に着くのは同じ時間だよね?》
《ん、それは確かに》
滝宮駅から太田駅、端岡駅から太田駅では路線が真逆だからひと駅たりとて被る区間はない。けれど終着駅は同じなわけだから、到着時間を合わせることはできる。
《あいさつくらいなら、できるかな》
そう言ってはにかむおとせの気持ちが手に取るようにわかって、じわりじわりと熱が顔に集まってくる。赤い顔を隠そうにも俯いたらおとせと話せない。くそ、と内心悪態を吐きつつそうだな、とヤケクソ気味に頷く。
それから昼食を済ませて、映画を見て、ほどよく高揚した気分のままカフェでひと息入れて、そうしておとせを家に送って一日は終わった。
別れ際におとせの手を握って、けれど何も言えずそのままバイバイした意気地なしがいたというのはここだけの話だ。ちくしょう。
◆◇◆
月曜日、進路希望を提出した。
「神社は讃岐大学進学希望か。跡を継ぐんじゃないのか?」
「継ぎます。でもそれだけだと生活していけないので」
「なるほどなぁ。神社も進学コース、っと」
教卓越しにそんなやりとりを交わして、自分の席に戻った俺にダチが声を掛けてくる。
「讃岐大学行くのか? 何学部?」
「今んとこ教育学部」
そう、と決めたわけじゃない。
ただ、教えるのが上手だと言われたからひとまず案のひとつに入れてみただけ。
「先生なりてーの?」
「さあ。わかんね」
「そんな適当な気持ちじゃ失礼よ? 神社くん」
俺の適当な返事に、隣席の女生徒が若干不機嫌そうな声色で割り込んできた。そういえば教師志望だったな、と思い出す。
「先生は子どもたちの手本になるべき大人なんだから、中途半端な気持ちで先生になろうとするのは子どもたちに失礼だわ」
ふと、鬩兄が言っていたことを思い出す。
思い出して、女生徒に視線を向ける。
「じゃあもし、教員採用試験に受かって配属された先が特別支援学校だったらどうする?」
「え……」
──『普通の学校に行きたかった』
──そう言ってくる先生もいる。
いつだったか、聾学校に配属される教師について教えてくれた時、そんな先生も少なくないことを言っていた。
「免許が必要なんじゃ……」
「志願する場合はそうらしいけど、特別支援学校は教師不足が深刻だから特別支援学校教諭免許がない先生も配属されるってさ。むしろ、ない先生の方が多いみたいだ」
女生徒の顔は、強張っている。
考えてもいなかった、という顔だ。
「そ……そう言う神社くんは」
「うーん……先生になるかどうかはわかんねーけど、教育学部に入るなら特別支援教育分野に行きたいなって思ってる」
ぼんやりとした思考でしかないけれども。
「それに、生徒を〝子ども〟、先生を〝大人〟ってするのもなんか違う気がする」
子どもなのは間違いない。年齢的に未熟で、経験も浅く社会を知らない。そういった意味では明らかに子どもだ。
けれど、だからと言って先生と生徒を〝大人と子ども〟にカテゴリー分けしていいのだろうか。
わからない。
そう、わからない。偉そうなこと言っておいて、俺もわかっていない。
おとせは聞こえない。どう足掻いても聞こえない。当たり前だ。そして俺は聞こえる。音感があるかどうかはさておき聞こえる。俺は聞こえていて、おとせは聞こえない。そこには明白な違いがある。決して無視してはいけない違いだ。
けれど、だからといって〝健常者〟と〝聴覚障害者〟にカテゴライズしてしまうのは違うと思う。おとせには聴覚障害がある、それは間違いないんだけれど。でも。
ああ、まとまらん。難しいな。
「相変わらず真面目だな~」
「兄ちゃんがクソ真面目だったもんで」
「あ~はとこの兄ちゃんな。イケメンだよな」
「神社くん、お兄さんいるの?」
話題を転換できるチャンスとでも思ったか、女生徒が食いついてきた。こいつがどういう道を歩んでいくかは知ったこっちゃねえけど、色々考えてくれればいいな、と思う。
「うん。讃岐大学に行ってる」
そう言いながらスマートフォンを操作して、写真を見せる。大学生になって美青年に磨きがかかったにっくきイケメンモテ男、鬩兄の写真を。
案の定、女生徒の目が輝いた。
「かっこいい。こんなお兄さんいたんだ」
「正確にははとこな。すっげー天才で真面目で、でも無愛想」
滅多に笑わねえからな鬩兄。
「そんで、耳が聞こえない」
「え……」
話題を転換できたかと思ったか? 残念!
「先天性の聾唖」
「そ……そう、なんだ」
──これを機に、彼女が考えてくれるかどうかは知らねぇけど。
でも、そういう人たちもいることを、ちゃんと知ってくれたらいい。
「てかそーゆー進路にしたのってやっぱ彼女?」
「え? 神社くん、彼女いるの?」
「まだ付き合ってねえって」
──〝まだ〟な。うるせえ突っ込むな。
「彼女さん、耳が聞こえないの?」
「だから付き合ってねえって……まあな」
「そうなんだ。大変だね」
〝大変だね〟
その言葉に意味はないのだろう。けれど、なんとなく見下されているような気分になってきゅっと唇を引き締める。
「大変だと思ったことねえけどな」
「そうなの? ああそっか、お兄さんも耳が聞こえないんだものね」
道理でおとせと仲良く、とつい先日囁かれたおとせのお母さんの言葉が蘇る。
──なんで、鬩兄という身内がいたら納得するんだ?
──そりゃ、鬩兄がいたから聴覚障害に対して事前知識はあったけれど。
──なんで、みんな同じことを言うんだ?
「耳が聞こえないとなると、遺伝が心配だねぇ」
「は? 遺伝?」
「ほら、子どもも耳が聞こえなかったらどうしようとか」
「おいおいぶっ飛びすぎ。高校生なのになんで子どもの話になってんだ?」
「でも、付き合うならやっぱり結婚とか意識しない?」
「そりゃ一度は考えるだろーけどよー」
無言でいる俺の頭上で、勝手な会話が交わされる。
気が早すぎるというダチの意見には同意だが、それ以前に。
「──なあ、お前。〝先生〟になりたいってやつがそんな選民意識でいいのか?」
この場が、苦痛で不快で仕方なかった。
◆◇◆
俺が今まで気にしていなかっただけで、世界には無自覚の悪意が満ちている。
優等を選び劣等を切り捨てる生物としての本能だと言ってしまえばそれまでだが、俺たちは人間だ。野生動物じゃない。
いちずさんは言った。〝知らない〟からだと。
その通りだ。夏休み前の俺だってそうだった。知らないから、無自覚に悪意を振りまく。鬩兄との会話を見返すだけでもわかる。おとせや、聾学校の生徒たちに対する無自覚の蔑視が随所随所に見える。
「最初から全部知っている人間なんていないからね。傷付きたくないから〝知らない〟ままでいることを選ぶ人間だっている。〝知らない〟方がいいことだってある。いろいろ難しいよねぇ」
懐かしき我が家、九尾神社。
斑さんがわざわざじいちゃんばあちゃん家まで来てくれて、俺と戦と、山のような荷物を九尾神社まで運んでくれた。
十八時をだいぶ過ぎた夕暮れ時。
橙色の炎が西の空を覆い尽くしていて、九尾神社をも橙色の色彩に閉じ込めている。作家であればもっと情景的な言い回しができるのかもしれない。けれど言葉はいらないようにも思う。それくらい、九尾神社の夕暮れはとても美しい。
夏も終わり。まだ蒸し暑くはあるけれど、この夕暮れ時の九尾神社を見つめていたくて、境内の石造りのベンチに座っている。斑さんも俺に付き合って隣に座っていて、言葉もなく静かに夕暮れを眺めている。
戦も斑さんの膝を枕にして爆睡していて、なんとも平穏な夕暮れ時だ。
「護くんは先生になりたいのかい?」
「わからないです。戦に言われたからぼんやり〝先生〟を進路希望に据えただけって感じっす」
「それでいいと思うよ。流されていてもいいんだ。ぼくなんか流されてばかりの人生だしねぇ」
でも、気持ちは流されても思考は流されちゃいけないよ。
そう言って、斑さんは微笑む。
「昔ねえ、ぼくが未熟だったせいで人を死なせてしまったことがあったんだ。〝知らなかった〟がゆえの事故だったんだけれどね、でもぼくが起きている事象に対してちゃんと考えていれば防げたことでもあった」
〝知らない〟ことは罪じゃない。
けれど、〝知らない〟を知ったならば。
思考しろ。けれど懊悩はするな。考えると、悩むは違う。
「きみにとってのおとせちゃんは、ぼくにとっての鬩みたいなものなんだね」
「え……やっぱりそういう」
「〝知ろうとする〟きっかけとなった存在ってことだよ! あといちずちゃんの言ったことは忘れなさい!!」
うん、やっぱり斑さんはこういうちょっと抜けた表情の方が似合う。
「時々、思っちゃうんですよね。俺はおとせに対して優越感とか同情心とか義務感とか使命感とか、そういうのを抱いているだけなんじゃないのかって」
「で、そんなことを考えちゃう時点で根底には〝差別〟があるんじゃないかって思っちゃうんだね」
「そっす」
「大丈夫だよ。それを考えられる時点で、きみはちゃんとおとせちゃんという人間を見ている」
〝助けてあげないと〟という使命感に囚われた人間は、自分の使命感を自覚できない。
「ボランティア精神にもなり得るし悪いことじゃないんだけどね。でも、人間関係だと無自覚の〝差〟を作るきっかけになっちゃうからね」
〝してやった〟精神を抱えること自体はどうしようもないことだが、それを自覚できなければやがて〝してやったのに〟に変わってしまう。
「だから護くんは大丈夫だよ」
「……斑さん」
ああ、大人だと夕焼け色に染まる斑さんを見上げて思う。
そして、こういう大人に俺もなりたいと心から思う。
でも。
「──なんで彼女できないんですか、斑さん」
「ぼくが知りたいよ!! ぼくいい男だと思うんだけどねぇ!?」
うん、やっぱりこっちの斑さんの方が落ち着く。
「真田羅さん、護、戦! ごはんよ~」
「ごはん!!」
戦が飛び起きて弾丸のように消えてった。通常運転。
「ありがとうございます~さ、行こうか護くん」
「はい。ところで鬩兄は大学?」
「ううん。今日はいちずちゃんの家に招待されてるんだって」
ふっ、家族公認か。
結婚とか考えてんのかな。
「考えてるんじゃないかな。鬩、かなり先のことまで考えて色々準備してるから」
「……学生のうちにそういうのって、重くないですか? あと……遺伝、とか」
「そこは個人差だろうね。鬩もいちずちゃんも腰を据えた感じだし……って遺伝? ……ああ、クラスメイトがそんな話してたんだったね」
そういうのは当人同士がどうするかだと思うよ、と言って斑さんは頭を掻く。
「知ってるかい? 聴覚障害者同士の夫婦に生まれる子どもってね、健常者なことが多いんだよ」
「え、そうなんですか?」
「そもそも難聴自体、劣性遺伝……ああ、今は潜性遺伝って言うんだったけ。そのひとつだって言われているんだ」
「劣性……あー、優性遺伝とか劣性遺伝習ったな……優れているとか劣っているって意味じゃない、って」
「そう。優性は〝現れやすい性質〟、劣性は〝現れにくい性質〟ってだけでね。難聴遺伝子は劣性遺伝に含まれているってこと」
だから聴覚障害者同士でも難聴の子どもが生まれにくいんだと。
「今は出生前診断で障害や病気の有無を調べられるし、まあ子どもに関してどうしていくかは当人同士で話し合うことだね」
「……そーですよねぇ。ひとりで考えたって仕方ない」
「うん。恋人って、ひとりじゃなくてふたりでなるわけだからね」
考えるのは悪いことじゃないけど、独り善がりになるのはいけない──そう言って微笑む斑さんに、本当何故彼女ができないのか疑問に思う。いい人なんだけどな、ほんと。
◆◇◆
〝heart’s map〟──ピースメインの代表的なOP曲のひとつ。
大丈夫! さあ、前を向いて進もう。
大丈夫! さあ、海を泳いで渡ろう。
大丈夫! さあ、胸を張って走ろう。
こんな風に何があっても大丈夫だから前を向こうという、前向きでアップテンポな楽しい歌だ。おとせが好きなエピソード、エンド・ドアーズ編の前哨である水の宮編のアニメ版で流れたOPだ。
/わたし、このあたりでハトッポを好きになったんだ/
/ああいうのが好み?/
/う~ん、見ているだけならいいかな? 話すのはちょっと嫌かも?/
おとせがちょうど、水の宮編のアニメを自宅で見ているというので、heart’s mapを聴きながらスマートフォン越しにおとせと談笑する。
ドリルの進度チェックがてら、息抜きにピースメイン談話である。
/やっぱりふるめえくん欲しいな。バトルとか、楽しそう/
/いちずさんに借りる?/
/ううん。まずは勉強頑張って、いい点とってお母さんにお願いしてみる/
/そっか。おとせの努力を見てもらえるといいな/
結果こそが全て、と言うけれど努力を見てくれている人間がいてもいいと思う。
/そういえば、護くんの進路は、決まってるの?/
/まだ。でもとりあえず第一志望を讃岐大学の教育学部にした/
/教育学部! 先生ってことだよね。うん、護くんにはぴったりかな/
おとせに色々教えているからな、とおとせの言葉に頷いていたら違った。
/だって護くん、ちゃんとお話してくれるから/
わたしをちゃんと見てくれるから。
わたしと向き合おうとしてくれるから。
わたしのお話を最後まで聞いてくれるから。
わたしの気持ちを決めつけないでくれるから。
だから護くんはきっといい先生になれる。
──そう連ねて、おとせは笑顔で〝ありがとう〟と言っているキャラクターのスタンプで締めた。
「……ありがとうは、こっちの台詞だよ」
〝見てくれている〟って、こんなに嬉しいもんなんだな。
不覚にも涙ぐみそうになったのを堪えて、改めて音失おとせという人間について考える。
俺がおとせと向き合えたのはひとえに、おとせがおとせであるからだ。真摯な姿勢には真摯な姿勢を返す子だったからだ。それを、赤の他人で、しかも性質の違う人間が揃っている生徒たちに対して出来るかと言われると、自信がない。
おとせは最初から真剣だった。
〝音〟について知りたいと望み、実行し、過ちを犯した時は反省する。俺の言葉ひとつひとつをまっすぐ受け止めて、拙いながらも真摯に考え、自分の考えを口にしようと努力する。
だから好きになったんだと思う。
だから、改めて自分に問いかける。おとせのような子じゃなくても同じように接せるか?
わからない。自信がない。
実際、クラスメイトが口さがない話をしていた時だって不快に思って刺々しくつついて話題を終了させてしまった。
それを、おとせに伝える。
そうしたら、しょうがないんじゃないかなと返ってきた。それから、おそらくはどう言葉にするか考えて打ち込んでいたのだろう。やや間があって、おとせの言葉が送られてくる。
/先生も、わたしたちと同じ、人間だから。わたし、好きな先生と嫌いな先生がいるけど、わたしの嫌いな先生を、好きな子もいるから。だから、みんな同じようにお話する、って難しいかも。護くんが先生になっても、先生は護くんひとりじゃないから、協力しながら、やっていけばいいと思う/
目から鱗だった。
当たり前だった。
先生はひとりじゃない。何人もいる。個性だってある。当たり前だ。
そこで、気付く。俺もまた、先生たちを〝先生〟という一枠にカテゴライズしていたことに。桜色高校の先生だって面白い先生、つまらない先生、いい先生、よくない先生、色々いる。それなのに──〝先生〟にカテゴライズしている。
「…………」
流されてもいいけれど考えることはやめるな。
斑さんの言っていることって、こういうことなのかもしれない。先生に向いていると言われたから流されて目指してみるのは悪くないが、そこで思考停止するな──そういうことなのだろう。
/俺もまだまだ色々勉強しなきゃならねーなぁ/
/『とりあえず讃岐大学チーム』って感じで、一緒に色々勉強していこう!/
/いいな、『とりあえず讃岐大学チーム』/
明確な目標じゃなくたっていい。道しるべ程度で構わないんだ。夢を持っていなくたって構わない。やってみたい程度で構わないんだ。
大丈夫! という、heart’s mapの曲が俺たちの姿勢を後押ししてくれているようで、つい口元を綻ばせてしまう。
気付けば、指が動いていた。
/おとせ、明日学校終わるの何時? 会いたい/
──うん、とりあえず先生目指してみっか。
【心に広がる世界目指して】