第六節 【RUN!】
〝聴覚障害者〟ではない。
〝音失おとせ〟だ。
第六節 【RUN!】
回転はかけない。
青空に放ったテニスボールの溝がよく見える。手首は捻らず、腕全体をねじり、青空に向けてまっすぐ伸ばす。
弾音を響かせて曲線を描きながら伸びて行ったボールを相手が打ち返す。ラリーするための打ちやすい球だ。こっちも打ち返す。少し回転がかかってしまったか、跳ねる。けれど大したことはない──また返す。一歩下がって打ち返す。
五分ほど続いたラリーはやがて、顧問のホイッスルで討ち取るためのラリーに変貌する。弾むような音だったのが破砕音に変わり、ボールを打ち返す手に逐一、衝撃が迸るようになった。
「あっ!」
ボールの勢いを殺しきれず、ラケットを上擦らせて打ち上げてしまった相手が声を上げる。
チャンスは、逃さない。
「──あーっ! 負けた! あー疲れた」
「お疲れさん。ジュースおごりな」
「ンな約束してねーだろ神社!」
スマッシュが決まり、打ち合いに終止符を打った俺たちは片付けるべくボールを拾いに行く。
夏休みも終盤に差し掛かり、登校日と部活動で学校に行く日が増えた。今日はテニス部の練習日である。
「なー神社、お前あのコと付き合ってんの?」
唐突な問いかけに面食らったが、そういえばあの時いたな、と思いつつ付き合ってないと返した。
「付き合うの?」
「んー、わからん。知り合ってまだ一ヶ月しか経ってねーしな」
そういえばそうだった、と自分で言って自分で気付く。
夏休みが始まったころに知り合って一ヶ月。もうずいぶん時間が経ったような感覚でいた。
ほぼ毎日スマートフォン越しに駄弁っていたからおとせの日本語能力もだいぶ上がって、登校日が重ならなくとも会ってお喋りに勤しんだから俺の手話技術も結構上がった。
夏休みももうすぐ終わる。終われば、会う機会もぐっと減る。せっかく身に付けた手話技術を衰えさせないようにしたいところだ。
もっと覚えるのに時間かかるかと思ったけれど、覚えよう使おうとしていると結構身に付くもんだ。鬩兄も、聾学校に着任した新人教師でやる気のある先生は一ヶ月ほどで手話を使いこなせるようになると言っていた。逆に、手話を覚える気がない教師は何年経っても覚えないと。
聾学校で仕事しているのに手話を覚えないのか、と驚いた俺に鬩兄は年々そういう教師が増えている、とやるせない表情で返してきた。聾学校、つまり〝特別支援学校〟──そこに自ら望んで赴任したがる教師は極少数であるし、誰も明確に口にしないものの左遷先としての意味合いもあったりすると。だから赴任してきた教師の素行が褒められたものじゃないこともままあり、大学を出たばかりの新人教師が特別支援学校に配属されて涙を流すほど嫌がることもあるのだという。生徒に八つ当たりする先生もおり、鬩兄はいつだって真正面から理詰めでそういう教師たちとぶつかってきたと語っていた。
おとせを取り巻く環境が思ったよりも複雑なことに驚いた一ヶ月でもあった気がする。身近に、それも身内に鬩兄という聴覚障害者がいたにも関わらず、何も知らなかったのだと自省してばかりの一ヶ月でもあった。
「好きなん?」
「それ何でおめーに言わねーといけねーんだよ」
「その返事、肯定してるようなもんじゃねーか」
「うるせえ」
たぶん、好きなんだとは思う。
そうじゃなかったらこの一ヶ月、律儀におとせに付き合っていないだろうし。おとせはいつだってまっすぐで努力家で、人を恐れるけれど向き合う時はきちんと姿勢を正して真摯になる子だ。
うん、これからもいい関係でありたいと思う程度には、好きだ。
「耳聞こえないんだよな」
「おう」
「手話で話すの?」
「おう」
「へぇ。結構可愛かったよな。どんな子?」
「真面目な子だよ。ちゃんと人の話理解しようって聞いてくれるのが印象的かな」
「あ~、お前チューボーん時酷かったもんな~」
「思い出させるなよ」
中学生の時、彼女がいた時期があった。明るくてさばさばとした子だったけれど、いざ付き合ってみると自分の気持ちばかりを主張する子だった。俺の都合も考えず、メールがないと怒る。電話に出ないと怒る。会いたい時に会えないと怒る。
俺なりに真摯に向き合ってきたつもりだったけれど、それは相手がきちんと俺の方を見ていなければ意味をなさないと学んだ。
だからこそ、おとせには真摯でありたい。
真摯な姿勢には真摯な姿勢を。
「そういや、進路希望書いた?」
「あー……あったなそんなの。忘れてた」
夏休みの宿題として進路希望を書いて提出するよう担任に言われていた。すっかり忘れていた。
「まだ高一だってのにな」
「まーな。でもやっぱ大学は行っとかなきゃな」
「今時はなー」
中学校までが義務教育で、高校・大学・専門学校などは任意。そんな時代は既に終わっている──今や、大学を出るのがスタンダードになっている。一次産業でさえ、大学に進学しておくことは大きなメリットになっている。
だからか大学の乱立が著しく、どんなに成績が悪くとも進学できる私立大学なんてのも多々ある。少子化のあおりで潰れつつあるが。
「進路なぁ……」
「神社継ぐんだろ?」
「そりゃな。継ぐよ。でも神社って儲からねぇの」
将来の夢なんてのはない。
九尾神社で生まれ育って、九尾神社に親しみ馴染んだ身としては神社を継ぐのは確定事項だ。でもそれだけじゃ生活していけない。何か仕事をしなければならないのだ。公務員あたりをぼんやり考えてはいるけれど。
「公務員って副業禁止だろ?」
「宗教職は副業扱いになんねーの」
「へぇ~」
将来の夢。
さて、どうしたものか。
◆◇◆
「大学には行っておけ」
その日の夜、食後の憩いで熱い茶を啜っていた俺に、久方ぶりの休日に羽を伸ばしていた父さんが言う。なんとなしに投げかけた、将来どういう道に進むかについての話題に対する答えだ。
「だが生半可な大学しか受からないなら就職しろ」
刑事である父さんの厳しい顔つきは息子である俺でさえ、委縮してしまうほどの威力がある。優しいんだけどね。
「大学には行くつもりだけど……色んな学部があるだろ? よくわかんないなって」
「そうだな。高校生のうちにやりたいことが見つかればいいが……そうじゃなくても自分に合ったところに行っておいたほうがいい」
「わたしは武者修行にいきたい」
「どこの覇者になるつもりだお前」
「本当に覇者になれそうだからやめてくれ、戦」
父子で戦を全力で止める。野生児のコイツを世に放つのはあまりにも危険すぎる。猛獣使いがどこかにいないものか。
「俺の得意なこと、かあ」
「まもにいは教えるのがじょうずだと思うぞ」
「教える?」
確かに戦の勉強をいつも見てやっているが。だが教える、なあ。おとせにてにをはを教えている時にも思ったけれど、戦やおとせに対して親身になれるのはひとえに、相手が戦とおとせだからだ。
赤の他人に対して親身に接していける自信はない。
「先生って仕事、結構損だよな」
教師は聖職、なんていう時代は終わった。何十人もの生徒が均等に、かつ高等な学力を身に付けられるよう教えなければならず、ひとりでも脱落する生徒がいれば評価が下がる。保護者からの要請に逐一応えつつ、クレーム処理も行い、悪ガキどもの対応にも追われ、土日は部活動の顧問で潰れ。
そのくせ、給料は決していいとは言えない。
「うん、なりたくねえな先生にだけは」
先生になりたいって言うクラスメイトが何人かいるが、ありゃ現実を知らないだけだよなあって思う。
「〝理不尽〟の相手はキツい」
神社での仕事は主に売り子。お守りや絵馬などを売ったり、甘酒を配ったり、道案内したり、色々。大晦日から元旦にかけての繁忙期には地獄を見る。
そうやって働いていると、時々相対することになるのだ。〝理不尽〟と。
「わたし、甘酒配ってただけなのにちょろちょろすんなって蹴られたな」
「ああ……去年の大晦日ん時か。蹴ったアホの方が足痛めててウケたけど」
理不尽な客。理不尽なクレーム。理不尽な注文。理不尽な八つ当たり。
大体途中から母さんが処理してくれるけれど、それでも初撃のダメージはある。一番キツかったのは〝こんな子どもを働かせるなんてひどい親ね〟という、同情に見せかけた悪意まみれのなじり。神社の手伝いをすることについて、面倒臭いと思ったのは一回や二回じゃない。けれど友だちと遊びたいと言えばそっちを優先させてくれるし、バイト料だってきちんとくれる。それに、宮司として働く母さんはかっこいいと思っている。誇りは、ある。
それをなじられた時が──本当に、一番キツかった。
「大学を卒業して社会経験ゼロのまま教師になるヤツが多いだろうしなぁ」
そういう〝理不尽〟を想像しきれないんだろうな、と父さんは言う。
「まあそれはさておき、護。神主にいずれなるつもりなら神職養成所に行くなり通信教育を受けるなりする必要があるぞ」
「あ……そうか、大学でも神主の資格は取れるんだよな?」
「神道科専攻ならな。日本でふたつしかないぞ。日國學大學と皇帝學大學」
「マジか……」
「一般人は大学で専攻しないと神主になれないけどな、お前は九尾神社の関係者だから神職養成所に行けるんだ。神社関係者なら通信教育も受けられる場合がある」
「……考えてなかった」
すっかり跡取りになる気で、でもそれじゃあ生活していけないからサラリーマンなり公務員なり仕事をするつもりで。いや、よく考えりゃ当たり前だ。神職にそうほいほい成れるわけがない。何でなれる気でいたんだ、俺。
「母さんと相談してみろ。仕事するつもりなら、大学に通いながら通信教育か、あるいは母さんがまだ現役だからな。お前は母さんの息子だし、焦らなくてもその時期が来たら資格を取りに行くことはできる」
「そうかぁ……うん、母さんに聞いてみる」
ああ、落とし穴にハマった気分だ。
自分がいかに何も考えずぼんやり高校生活送っていたか、つくづく身に詰まらされる。
「そうでもない。お前はしっかりしてると思うぞ。鬩なんかギリギリまで大学に行くつもりなかったんだ」
「え、鬩兄が?」
「真田羅さんとこ就職するからってなー。先生たちがもったいないって縋りついててなぁ」
……〝もったいない〟か。その〝もったいない〟の先には、何があるんだろうな。
「大学に行けるなら行っておいたほうがいいのはわかるけどさ、なーんか……個人じゃなくて学歴の方が大切って感じだよな」
鬩兄は斑さんとこで働くことを決めている。実際、住み込んで下地を整えにかかっているしね。でも、きっと先生たちはそれを否定したんだろう。
「その通りだ。随分揉めてたよ。母さんがキレたのを久々に見た」
斑さんとこは個人事務所だし、知名度はそう高くない。収入は鬩兄が手伝ってるおかげもあってそこそこいいらしいけど。
「聾学校は特殊なところだからな。自前の就労パイプ持っててなぁ~そこに生徒を就職させたがるって鬩が言ってたな」
それで揉めに揉めて、最終的にまだら相談事務所を法学面にも伸ばすってことで大学進学を決めちゃった感じらしい。
あのストイックでクールな鬩兄にもそんなことがあったのか、と意外性に思わず感心してしまった。
──と、その時スマートフォンが鳴って視線を落とす。画面に表示された通知欄には、おとせからのメッセージ。
/まもるくん/
たったそれだけの、メッセージ。
続きが来るかと待ったが、来る気配はなく画面がブラックアウトしてしまったのでスマートフォンに触れる。
/おう、どしたん?/
返事はない。既読表示はすぐ付くところを見るに、チャットルームは開いたままなのだろうが──長文を打っているのか、文章に悩んでいるのか。
そこでまた、おとせからメッセージが届く。
/護くん、ど/
メッセージを消そうとしたところで誤送信、といったところだろうか。
/こっちごはん食べ終わったとこ。おとせは今、家?/
返事はない──と、思ったら〝外〟とだけ答えが来た。
もうこのあたりで、おとせに何かあったことは明白だった。普段のおとせなら拙いながらもきちんと順序立てて話す。それに、今はもう夜の二十時過ぎ。高校生が遊び歩いてもおかしくはないんじゃないか? と思うだろうが──滝宮の夜は、真っ暗だ。高松市中心部なら繁華街で夜も明るいし人はいるが、こんなド田舎の夜には何もない。
/外ってどこ?/
/滝宮北小学校から、農業高校への道/
真っ暗も真っ暗、外灯さえおぼつかない田園地帯と来た。今そっちに行く、とだけ送って乱暴に立ち上がる。
「父さん! じいちゃんばあちゃん! ちょっと外行ってくる!」
「おう、彼女か?」
「んぐ、まだそんなんじゃ、ああもう行ってくる!」
「おー」
俺が険しい表情でスマートフォンと睨めっこしていたからか、父さんは事情を聞いてくるでもなく玄関にある懐中電灯を持っていけ、と言うだけだった。
ありがたく懐中電灯を借りて忙しなく外に飛び出す。小さい頃は窓を開けていれば夏の夜でも涼しかったものだが、近年ではむしろ夜の方が熱と湿気が籠って蒸し暑い。ぶわりと玉汗が噴き出るのを感じながら、滝宮北小学校に向けて駆け出す。
◆◇◆
十分ほど走っただろうか。
滝宮駅から滝宮北小学校、農業高校の位置関係は直線上にある。そして、滝宮駅から滝宮北小学校への道は心臓破りの急傾斜になっている。
もっと普段から走り込みしてりゃよかった、と悪態を吐きながら坂を登り切って田園地帯に出る。ただっ広い水田を横切るようにアスファルトの道路が一本走っている、田舎ならではの田園地帯。
ここまで来ると外灯が劇的に減ってほとんど闇に包まれてしまう。懐中電灯のスイッチを入れて、また駆け出す。おとせにはその場から動かないよう伝えてあるから、近いはずだけれど。
「ああくそ、暗いなもう」
駆けろ。駆けろ。とにかく駆けろ。
駆けろ、駆けろ、とにかく駆け抜けろ。
先走る気持ちそのままに、はやる気持ちを抑えきれずに、後先考えず少年少女が駆け抜ける。理屈から零れ落ちる気持ちをそのまま歌にしたような曲。
無為のうちに鼓膜の奥で流れていたピースメインを代表する名曲のひとつ、RUN!に急き立てられるままに駆けて駆けて駆けて、その先に見えたのは──
「──おとせ!!」
当然ながら、俺に背を向けているおとせから返事はない。
けれど懐中電灯がちかちかとおとせの視界を照らし、ふらりとおとせが振り向いた。
ああやはり、とおとせの赤く腫れた目を見て思う。
「まぁ、もりゅくぃ」
声も、ひどく掠れている。どれくらい──泣いていたのだろうか。
「おとせ、怪我とかは?」
「……」
俺の口を読み取って、おとせはふるふると首を横に振る。──と、ぽろりと涙がまなじりから零れ落ちた。堰を切ったように溢れ出してくる涙に俺はどうしたらいいかわからず、おろおろとおとせの肩に手を置く。
こういう時、どうすればいいんだ? 抱き締め──て、いいのか? いやさすがに恋人じゃねぇのにそれはダメだよな。じゃあどうすれば……声をかけようにも、おとせは聞こえない。はらはらと涙を零していて、俺の口を読む余裕もなさそうだ。
聞こえないおとせに、どうやって声を届ければいい?
「──あ、そうか」
こうすればいいのか、とおとせの肩を引いて鎖骨のあたりに顔を据える。おとせが抵抗しないのをいいことに、そのまま音を響かせる。
「おとせ」
声帯を震わせて生じた振動は喉から首筋に、そしておとせの頬に響く。しんしんと響いてきたであろう〝音〟に、おとせの肩がびくりと震える。
「おとせ」
おとせの涙は止まらない。だから、繰り返す。
「おとせ」
俺が何を言っているか、おとせにはわかっていない。けれど、今はそれでも構わない。
〝音〟を伝え、触れ合い──繋ぐ。
それこそが、大切なのだから。
「おとせ」
聞こえるも、聞こえないも関係ない。
肝心なのは、伝えたいという気持ち。
「おとせ」
気付けば、おとせの涙は止まっていた。鼻を啜ってはいるけれど、先ほどよりは落ち着いたみたいだ。さて、どうしたものかと考える。何かあったのかは明白だが、俺が聞いていいものか。
と、遠いながらも車がこちらに向かってくる音がしたのでおとせを抱えたまま脇に移動する。やがて眩しいライトとともに道路を横切ってきた白い軽ワゴン──あれ?
「護? あなたこんなところで何してるの?」
俺とおとせのちょうど真横で停車した車から聞き慣れた──母さんの声が掛かってくる。そうか、そういえば今夜は母さんもじいちゃん家に来るって言ってた──待て。おい待て。この状況なんかマズくねえか。
「あら──その子、確か夏祭りの時の……護?」
「何もしてねえ」
「何も言ってないわよ」
顔が言っている。ともかく。
《おとせ、おとせ。大丈夫?》
《う、うん……ごめんなさい。あの、わたし》
「確か音失さんとこのお子さんだったわよね? 家まで送ってあげられるけれど?」
母さんの唐突な登場に泣き腫らした目ながらもぺこぺこと頭を下げているおとせに、母さんの言葉を通訳する。
そして、確信した。
おとせが泣いた原因は家にあると。
《……とりあえず俺の家でちょっと休んでく?》
「護、その言い回し怪しいからやめなさい。とりあえず乗りなさいな」
顔を強張らせているおとせの手を引いて母さんの車の後部座席に乗り込む。
さて、どうしたものか。
◆◇◆
おとせが家出した原因は、やはり家族のようであった。
じいちゃん家の和室を借りて、おとせとふたりきりになった俺はおとせが途切れ途切れながらも謝罪と、家族と喧嘩した旨を伝えてきた。家の中に入ったことで気持ちが緩んだのか、またはらはらと涙を流しているおとせに氷嚢を差し出す。
《それ、俺が聞いても大丈夫?》
《……うん。でも、うまく、言えないかも》
《ゆっくりでいいよ。なんならスマホでもいいし》
口で話すよりも文に起こした方が整理できる、って言うし。
おとせはしばらく考えて、スマートフォンを取り出して何かを打ち込んでは考え、また打ち込んでは考え、を繰り返す。
/ふるめえくんが欲しいって話したの/
和室のテレビに映し出されているバラエティ番組をぼんやり眺めていた折に、ようやく送られてきたメッセージはそれだけだった。俺はうん、と頷いてどうなったのかと問う。
/聞こえないのにって、また言われて。高いって、もったいないって、無駄だって、言われて/
うん、うんと逐一相槌を返す。
/でもわたし、どうしても欲しくて、だから、音にすごく興味があることを、話したの。/
聞こえなくても音に触れることはできることに感動して、もっともっと色んな音に触れて、できることならば音に触れる方法について考えたいと話したんだそうだ。
/いつも、護くんに聞いてばかりじゃ、だめだと思って、讃岐大学のね、創造工学部について、調べてみたんだ/
讃岐大学の創造工学部知能機械システム工学科ではありとあらゆる障害児のためのシステム作りが考えられていて、聴覚障害児が発音の仕組みをより円滑に学べるよう発話ロボットも開発されたんだそうだ。それは知らなかった。
/すごく面白そうだって思って、わたしもいろいろ、考えて作ってみたいって思って/
でも、とおとせの喉がしゃくりあげられる。ぼたりぼたりと涙がスマートフォンに落ちる。
/馬鹿なことを、言うなって/
アンタが讃岐大学になんて行けるワケないでしょうって。聞こえるお兄ちゃんさえ受からなかったのに聞こえないアンタが受かるワケないって。馬鹿なことを言っていないで勉強しなさいって。遊んでばかりのアンタが大学に行けるワケないって。聞こえないアンタが行けるような大学なんて底辺の私立大学だけって。私立大学なんて通わせるお金もったいないって。塾に行かせるお金ももったいないって。くだらないおもちゃを欲しがる暇があったら勉強しなさいって。聞こえない人でも雇ってくれる会社に入れるよう頑張りなさいって。
がたり、ととうとうそれ以上打てなくなったのか、力が入らなくなったのか──おとせの手からスマートフォンが零れ落ちる。ただひたすら嗚咽するおとせの顔を、ばあちゃん自慢のふんわりタオルでばふばふと数回叩いて、それでおとせはどうしたのかと問う。
《……わたしは〝聴覚障害者〟じゃない、〝音失おとせ〟だって……言って、逃げてきちゃった》
《おー、いいじゃんいいじゃん。その通りだよ》
おとせはおとせで、おとせ以外の何者でもない。当たり前のことだ。当たり前のことを言って何が悪い。
《とりあえず飲めよ。梅ジュース。じいちゃん家の自家製梅シロップを炭酸で割ったヤツなんだけどうめーぜー》
俺の勧めに頷いて、こくこくと梅ジュースを口にしたおとせがおいしい、と笑うのを見て俺も笑う。
梅ジュースを飲み干すころにはすっかりおとせも落ち着いて、泣き腫らした目を氷で冷やしながらぽつりぽつりと静かな会話を交わす。
《お母さんの言っていることは、わかるんだ。わたし、頭悪いから》
《頭悪いんじゃなくて勉強の仕方がわからなかっただけだろ? これからだって》
《でも……讃岐大学は、無理かな》
《どうして? 鬩兄もいちずさんもそこ行ってるぞ? 創造工学部、行きたいんだろ?》
《わからない》
行ってみたいと思ったけれど、でもよく考えたら〝音〟が聞こえないのにどうやって〝音〟に触れる仕組み考えればいいんだろうって考え直したと、おとせは昏い眼差しで語る。
〝聞こえないのに〟──もはや呪いの言葉だ。
何で、〝聞こえない〟如きでやりたいことを手放さなきゃならないんだって、ふつふつと怒りが沸いてくる。
〝聞こえない〟は、そんなに悪いことなのか? そんなに、否定することなのか?
ピンポーンと、インターホンの音が響く。十数秒ほどの間を置いて、和室の外──玄関からじいちゃんと、聞き慣れない女性の声がした。
《おとせ、お母さんが来たみたいだ》
目に見えて強張ったおとせを見て心が痛む。このまま、会わせていいものか。
けれどその迷いも空しく、和室のふすまが開け放たれてじいちゃんが手招きしてきた。
《おとせ!! アンタ何しているの!? 日向さんにご迷惑おかけするなんて!!》
出会い頭に一発、といった感じだった。
おとせとはあまり似ていない、けれど髪質は似ているようにも感じられる四十代くらいの女性が和室から出てきたおとせに怒鳴る。じいちゃんに聞かせないためか声は出さず。手話を覚えてよかったと、内心ため息を零す。
《お母さん恥ずかしかったのよ!? ワガママばかりで勉強もせず遊び歩いて本当に恥ずかしい!》
おとせは、答えない。体を強張らせたまま、動かない。
《日向さんに謝りなさい!》
《えーと、その前にいいですか?》
俺が手話を使ったことに驚いてか、おとせのお母さんがぎょっと目を見張る。でも構わず、続ける。声もきちんと添えて。
《突然すみません。俺、夏休みのはじめにおとせと──おとせ、さんと知り合って、友人として親しくさせてもらっています》
「……聞こえる友だち?」
聞こえない子としか付き合ってなかったのに、という囁きは聞かなかったことにして、話を続ける。
《おとせさん、助詞の使い方をきちんと覚えたいって、この夏休みずっと勉強していたんですけど、ご存じですか?》
「え……」
やはり、気付いていなかったようだ。今までどんなに叱っても直さなかったのに、とまた囁きが漏れる。
〝叱る〟と、〝教える〟は違う──当たり前だけれど、意外とみんな気付かない。俺たちにとっててにをはは常識だから、間違えること自体があり得ない。おそらくはその考えが根底にあるのだろうなと、思案する。
《どうかおとせさんと、ちゃんと話をしてあげてください》
どうか、頭ごなしに全否定するのはやめてほしい。
おとせのお母さんは決して、おとせを嫌っているわけじゃない。実際、滝のような汗を拭うことも忘れて、髪は乱れたままで、靴だって簡素なサンダルだ。きっとおとせが家を飛び出した後、必死に探していたに違いない。
ただ、思い込みという名の固定概念に囚われているだけでおとせのことは大切なんだろうと思う。
《お母さん、勝手に家を飛び出して、ごめんなさい》
おとせが若干強張りは抜けないままながらも、前に進み出て母親と向き合う。
《でも、わたしの気持ちは、本物です。音にすごく興味があって、護くんにいろいろ協力してもらって、色んな音を色んな方法で感じて、すごく楽しかった》
改めておとせの手話をつぶさに観察して、てにをはが合致していることに気付いたのだろう──おとせのお母さんが、目を丸くしている。
《讃岐大学の、創造工学部でもっと色んなことが、できるかもしれないって、興味を持ったから、お母さんと相談、したかった》
《讃岐大学なんてアンタには……!》
じいちゃんがいるのも忘れて声を荒げる母親に、おとせは首を横に振った。
《行くかどうかは、まだわからないけど、でも今から勉強すれば》
《無理よ! お兄ちゃんだって受からなかったのよ? それに予備校なんて無理よ。おとせみたいな聞こえない子にちゃんと教えられる予備校があるなんて思えないし、何よりそんなお金、もったいないわ》
《じ、じゃあ自分で勉強……》
《無理に決まってるでしょう!? 聾学校の進度がどれだけ遅いと思ってるの!? あなたたち高一なのに中三の教科書まだ使ってるじゃない! 高三の子だってまだ二年の教科書に入ったばかりだって言うし!》
──ああ、そういえば鬩兄が言っていた。
聾学校という場所は少人数教育であるからして、どうしても集団ではなく個々に合わせた進度になりがちで、だから授業進度が遅くなるんだそうだ。鬩兄は自力でどうにかしたと言っていたし、いちずさんも塾に通い詰めていたと言っていた。
鬩兄みたいな天才でもなきゃ、聾学校の遅れた授業だけで公立大学に進むのは確かに、難しいだろう。
どうしたらいいんだろう。
おとせの努力が円滑に進められるようにしたい。けれど、塾に行くかどうかは家庭の方針次第だ。俺が口を出せることじゃない。じゃあ、俺が勉強を見るか? ──できるのか? 俺の成績は今のところ中の上と上の下をうろうろしている程度。責任を、持てるか? てにをはを教えるのとはわけが違う。何より、俺自身も俺自身の将来のために勉強しなければならない。生半可な気持ちでやっていいことじゃない。
けれど、おとせの手助けはしたい。
「ちょっとごめんなさい、音失さんお久しぶりです。私を覚えていますか? 神社です」
玄関に落ちた沈黙を見計らってか、母さんがリビングから出てきた。どうやら──鬩兄が聾学校にいた時、PTAでともに仕事をこなしたことがあるようだ。
「え……神社さん? なぜ……ここは日向さんのお宅じゃ」
「夫の実家なんです。うちの息子がおとせちゃんにずいぶん仲良くしてもらっているようで」
「あ……そう、だったんですか。じゃあ、きみのお兄さんは耳が聞こえないのね」
道理でおとせと仲良く、と囁かれてカチンとなって、思わず、ふたりの会話をおとせに通訳していたにも関わらず、声を荒げてしまった。
「おとせが聞こえないから仲良くなったんじゃありません。おとせがおとせだからです」
「っ……」
「護、下がっていなさい。この通り、おとせちゃんがあんまりにも素敵な子だから入れ込んじゃってるみたいで。ほほほ」
ほほほじゃねえ。ここは通訳しないでおく──と、考えたところでそうやって〝除外〟するのはおとせのお母さんと同じだと気付いて、ぐっと堪えて全部通訳する。ああ、おとせの顔が赤くなった。くそ、恥ずかしい。
「それで、音失さん。うちの上の息子はおとせちゃんと同じ聾唖なんですけれど、讃岐大学に通っています」
「……知っています。でも、それはおたくのお子さんが特別だからですわ」
「否定はしませんけれど、そうじゃありません。別にうちの子が行けたからおとせちゃんも行けるはず、だなんて無責任なことは申し上げません。けれど、先ほど少しうちの子と話しまして」
讃岐大学に行くかどうかはこの際置いておいて、勉強にやる気を見出している子に機会を与えないのは忍びない。よければ、僕に塾講師を依頼してみないか。
──要約すると、鬩兄が提案してきたのはこんな内容であった。まだら相談事務所では個人塾の依頼も請け負っていて、時折斑さんが小学生に勉強を教えるらしい。その応用で、鬩兄がおとせに勉強を教えてもいい、ってことらしい。予備校や塾よりもずっと安い分、質は保障されないという体で行っているようだ。
「あくまで提案です。おとせちゃんの成績を上げるのにも役立つでしょうし、ぜひ、おとせちゃんと相談してみてください」
大学に行くかどうかはあくまで二の次、三の次にして今はおとせのやる気と相談なさっては、という母さんの静かな言葉がさざ波のように響く。
神社の宮司をしているからか、母さんの声はよく通っていて、するりと滑るように入ってくる。
だからだろう。おとせのお母さんも幾分か落ち着きを取り戻していて、若干沈んでいるようにも見える面持ちで母さんに頭を下げた。言葉はない。母さんの、鬩兄の提案を考えるかどうかは、わからない。提案を受け入れるか受け入れないかはさておいても、おとせのことを〝聞こえないから〟と、否定するのはやめてくれればいいと、思う。
《おとせ、帰るわよ》
《あ、うん……護くん、ありがとう。えっと、ご迷惑おかけして、すみませんでした》
「いいのよいいのよ。うちの愚息とこれからも仲良くしてやって頂戴ね」
《愚息言うなよ。……これからも俺と仲良くしてね、だってさ。おとせ、また後でスマホな》
ぺこぺこと頭を繰り返し下げながら立ち去っていくおとせ母子にああ似ているな、と思いつつ手を振って見送った。
「……話、できるといいな」
やりたいことを否定されて涙を流すおとせは、もう見たくないから。聴覚障害者であることばかりを挙げられて、自分自身を見てもらえないことに傷付くおとせは──もう、見たくないから。
──他の子たちも、どこかで否定されているんだろうか。
【駆けろ、駆けろ、駆けろ】