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おとのさわりかた  作者: 椿 冬華
おとのさわりかた
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第五節 【Okey dokey!】

《おとせ》


 名前を呼ぶと、キミが笑ってくれるから。




第五節 【Okey dokey!】




 夏休みも中盤を過ぎて、登校日も部活動もない日が続くようになった。けれど俺は相変わらず、おとせと会っていた。祖父母の家に滞在している今だけはおとせといつでも会えるからと、近場のショッピングモールで毎日のように待ち合わせた。映画館からレストラン街、ゲーセンまで揃っている──田舎の主要デートスポットのひとつ。いや、デートじゃねえけど。

 夏休みが終われば、俺は九尾神社に──国分寺町に戻る。電車だって端岡駅からだからおとせとはひと駅たりとてかち合わなくなる。


/でも、学校は太田駅なんだよね。帰りに少し会えるかな?/

《塾 ある だから 難しい ?》


 指文字は全部頭の中に叩き込んだ。手話は数が半端なくて、おとせも全てを覚えているわけじゃなくて、わからない手話は指文字ないしはジェスチャーで表現するそうだ。だから、おとせとの会話に合わせておいおい覚えていくことにした。

 おとせはスマートフォンで。俺は手話で。

 お互い学ぶために、多少やりづらくともこの方法を選んで勉強している。


《塾 ?》

/行っていないよー。勉強、あんまり好きじゃないから/

《勉強 好き 見える》

/そう?/

《てにをは 頑張っている》

/う~ん……てにをはは、楽しいんだよね。どうしてだろう? 護くんだからかな?/


 どきりと、少し跳ねた鼓動は無視しておとせが勉強を好まないことについて考える。好きな科目はと聞いたら〝よくわからない〟と返ってきた。


/小学部の時は、算数が好きだったんだけど、どんどん何のことか、わからなくなって、苦手/


 どんどんわからなくなっていく。

 複雑化していく内容についていけなくなる──と考えて、いや、とかぶりを振る。手話だと追い付かないのでここはスマートフォンで。


/なんのことかわからなくなるって、もしかして文章問題を読んでもよくわからないとかじゃないか?/

/たぶんそう? 国語の教科書を読んでいるみたいで。式だけの問題は好きなんだけど/


 ああやはり、と改めて〝勉学〟の複雑さを思い知る。国語、算数、社会、理科、英語──それぞれ全く別の教科のようでいて、実は綿密な相互関係にある。まず大前提として、国語力がなければ問題文を読み解けない。算数も社会も理科も英語も、国語力が前提となる。数学の証明問題とかその筆頭だな。


/今のおとせなら大丈夫だと思うよ。どのあたりで難しいって思い始めたの?/

/たぶん……関数?/


 健常者の中学生でもつまずくところの多いポイント。

 文字式が主流になるあたり、式と方程式を混同しやすくなるあたり、証明問題が登場するあたりなんかでつまずく生徒が多い。俺もヤバかった。戦、来年中学生だけど大丈夫か?


/数学って国語なんだよ。本読むのが好きな子ほどできちゃったりする/

/そうなんだ。本、といえばわたし、本読んでいる/


 お、と小さな声を上げてどんな本を読んでいるのか問う。〝ハニー・ポタージュ〟という児童向けファンタジーの金字塔とも呼べる魔法学校ものを読んでいるとのことだった。


《俺 それ 好き 映画 見た》

/わたしも映画見た! 映画は見たけど、本は読んだことなかっただから/ /読んだことなかったから/


 映画から入っていれば確かに、読みやすいだろう。確かピースメインの劇場版にもノベライズがあったはずだ。それを伝えると、既に購入していると返ってきた。

 こういう貪欲な姿勢は、好きだ。見ていて気持ちがいいし、ついていきたくなる。


「あれ? 神社じゃん」


 聞き慣れた、些か粗暴な印象を受ける声。

 振り返るとやはり、クラスメイトたちの姿。そういえば映画に誘われて断ったな、と数日前のやりとりを思い出しながら軽く手を挙げる。


「おう。これから映画?」

「んだ。なんだよ、彼女?」

「いんや、まだ」


 おとせが聞こえないのをいいことに、ちょっと見栄を張る。牽制、かもしれない。


「神社のくせに」

「なんだよ、失敬な」

「やっほー、キミどこ高?」

「おいっ」


 馴れ馴れしくおとせにちょっかいかけるクラスメイトに少し怒気を込めた声で制止を掛けるが、その必要もなく──クラスメイトたちは、すぐ引いた。


「あ……くぉんいち、は」


 いびつな発音。

 おどおどと怯えた眼差しと、いびつに吊り上げられた口元の愛想笑い。

 しん、とあからさまに固まったクラスメイトたちに怒りを覚えつつ、耳が聞こえないことを伝える。


「あ……聞こえねえんだ。お前の兄ちゃんと同じ、か」

「そう。つか俺らこれから瓦町行くから」

「そ……そうなんか。じゃ、またな」

「おう」


 そんなあからさまに戸惑わなくてもいいだろう、と内心毒吐きつつおとせを連れてショッピングモールを後にする。時刻はちょうど正午過ぎ。待ち合わせは一時だから、今から電車に乗れば余裕でまだら相談事務所に行ける。




 ◆◇◆




「しかたないよ」


 まだら相談事務所、二階。

 猫っ毛なおとせとは明らかに髪質が違う、ふわふわの綿あめのような髪を揺蕩(たゆた)わせている女性、甘神(あまがみ)いちずさんが微笑む。


「だって〝知らない〟んだもの」


 (せめぐ)兄やおとせに比べるとだいぶん通って聞き取りやすい発音で、いちずさんが俺とおとせに珈琲を出してくれる。背もおとせよりずっと低くて、けれど立ち振る舞いのひとつひとつがとても愛嬌あって、鬩兄が惚れるのも頷けるかわいらしい人だと思う。


《護くん、電車の中でからだがおおきい黒人がいたら、どう思う?》


 手が空いたからだろう、いちずさんがおとせにもわかるように手話も交えて、ゆっくり話してくる。


「え、っと……怖い、からちょっと距離を取っちゃいます、かね?」

《うん。それはなんで? 差別?》

「いや……だって」


 ──〝知らない〟から。


 そう言いかけて、ああと納得する。

 さすがはいちずさん、鬩兄の彼女。いちずさんは微笑んで、母数が少ないからどうしても接する機会の少ない障害者に戸惑うのは仕方ないのだと語る。


《知ったあとにどうするか、がたいせつだね》


 最初から全部受け入れなければ差別になるというなら、それこそが〝差別〟だといちずさんは囁く。


《わたし も 聞こえる人 は 怖い です》


 普段はてにをはを意識せず、むしろてにをはをつけず手話で会話するというおとせが、書き言葉だけでなく話し言葉でも円滑に使いこなしたいと、てにをはを意識しながら話している。これだけゆっくりなら俺にも読み取れて、勉強になる。


《あたしも。初対面の人は怖いよね》

「怖い……んですか? えっと」 《口話 上手 ですよね いちずさん》

《相手によるかな》


 難聴であるいちずさんは補聴器を着用すればある程度の聴力が保障されていて、健常者とは基本的に発声のみの口話で会話する。しかし、聞き取れるとはいえ読唇に頼る部分が大きいため、口が小さくぼそぼそとした喋り方の健常者とは会話がままならないようだ。


《だからそういう人とは筆談の方がいいかな。手話もね、人によって癖があるんだよ。鬩くんや斑さんは手がおっきいしものすごくはきはきと使うからすっごくわかりやすいんだけどね》


 ロボットダンスのようにカクついた手話を使う人、逆に流動的すぎて目が滑る手話を使う人と個性があるらしい。いちずさんも、手が小さいから時々読み取りにくいって不満を言われるみたいだ。


《どんなコミュニケーションがいいかってのは人によるんだ。だから、歩み寄る必要があるの》


 人差し指と中指を立てて二本足の人間に見立てて、両手の人間がとことこと歩み寄る様子を手話で表現して、いちずさんは話を締めくくった。

 改めて、自省させられる。おとせと出会って、斑さんに気付かされるまで手話を覚える発想がなかったことに。


《さ! ふるえるスピーカーぬいぐるみ、〝ふるめえくん〟! 持ってきたよ~》


 本題。

 いちずさんが家から聴覚障害者向けに開発されたというスピーカーを持ってきてくれて、さっそく俺たちに見せてくれる。真っ白な毛皮で覆われた、黒い顔がかわいい羊のぬいぐるみだ。


《これね、すごいんだよ。スピーカーになっているから音を間近で聞けるのはもちろんなんだけど、音を内部で共振させて振動を増幅させる仕組みになっているのよ》


 大学合格祝いに家族から贈られたものだそう。いちずさんは早速スピーカーをテレビに接続していく。無線通信も可能で、設定していればわざわざ繋ぐ必要もないらしい。


《なんなら映画とか見る? 斑さんが帰ってくるまでまだ時間かかりそうだし、あたしも仕事しなきゃだし》

《忙しい時 に すみません。甘神せんぱい》

《いいのいいの。おとせちゃんと久しぶりに会えて嬉しいし、護くんも元気そうだし》


 変わったね、といちずさんがおとせを見て感慨深げに言う。以前のおとせはいつも下を向いて自分の手元だけを見ていたが、今は俺やいちずさんの目を見て、俺たちの意図を読み取ろうとしていると。


《──護くんの、おかげです》


 はにかみながら俺の名を呼ぶおとせに、胸が擽られる。


《俺も おとせの おかげ で いろいろ わかった》


 〝聞こえない〟ということ、それだけじゃない。

 人と向き合うということ。それを、噛み締める日々だった。鬩兄にも、斑さんにも、そしていちずさんにも色々教わった。

 いつもと変わりない、登校日と塾と部活とバイトで明け暮れつつ友だちと遊ぶ夏休みだと思っていたけれど、ずいぶんと充実したものになってしまった。

 悪くない。




 ◆◇◆




 ふるえるスピーカーぬいぐるみ〝ふるめえくん〟


 凄いシロモノだった。

 〝音〟とは〝空気振動〟──振動数を増やすには単純に音を大きくする、あるいは低くする必要がある。大きな振動には大きな音が伴う、当たり前のことであるが──これでは健常者と聴覚障害者の共存が難しい。ならばどうするか。

 そこで考えられたのが音の〝共振〟だ。机に置いたスマートフォンが震えて、コップも一緒に震えるアレ。より振動が増幅する素材を、けれど普通のスピーカーのようにしびれる振動ではなく和太鼓のような安心する振動を、と試行錯誤が重ねられて発明されたみたいだ。

 ふるめえくんに使われているソフトエンクロージャースピーカーは注目されていて、鬩兄やいちずさんが通っている讃岐大学の教育学部・特別支援教育分野と、創造工学部・知能機械システム工学科でもさらなる応用が考えられているらしい。

 ちなみに鬩兄は法学部、いちずさんは経済学部に在籍している。

 ともあれ。

 斑さんの所有している映画DVDからちょうどおとせが読んでいる〝ハニー・ポタージュ〟シリーズを見つけたので、一作目を鑑賞した。


《これすごいですね! 欲しいなあ》


 おとせがほうっと感嘆のため息を漏らす。当然だ。俺が普段聞いているのと変わらないボリュームで、結構大きな振動を、それこそ音の種類に合わせて細やかにふるめえくんは伝えてくれた。

 例えば画面外で起きた爆音に主人公が振り向くシーン。俺は聞こえるけれど、おとせには聞こえない。だからいきなり主人公が振り返ったようにしか見えない。けれど、ふるめえくんは爆ぜるような振動で異変を伝えてくれた。

 おとせと一緒に観ている。

 そう実感できた二時間だった。


《いいよね、これ。四万くらいするからお父さんお母さんに相談するといいかも》

「あ……」


 嬉しそうにふるめえくんを抱きしめていたおとせが、(しぼ)んでいく風船のようにテンションを下げる。そして、思い出す。兄が捨てようとしたヘッドフォンをもらおうとしただけで笑われたという話を。

 〝聞こえないのに?〟の悪気なき悪意。

 きっと本人たちからすれば〝それくらいで?〟と驚くかもしれない。それさえも悪気なき悪意だと知らず気付かず。


《お父さんとお母さんは知らないんだね。おとせちゃんが〝音〟好きなこと》


 いちずさんはおとせの隣に座って、ぽんぽんとおとせが抱いているふるめえくんの頭を撫ぜる。


《〝知らない〟なら教えてあげたらいいのよ。馬鹿にされるかもしれない、変な顔をされるかもしれない、笑われるかもしれない、話を聞いてくれないかもしれない──不安になると思うけれど、でも伝えないとわからないのが人間だから》


 ふるめえくんを貸すからそれでお話してみる? と、いちずさんが優しくおとせに提案する。それでも、おとせはきゅっと唇を硬く引き締めて億劫な表情を浮かべていた。

 おとせは別段、家族を嫌っているわけじゃない。〝笑われる〟だってからかわれているのだとおとせは理解していたし、家族で海に行った話を楽しく語っていたこともあった。ピースメイン好きなおとせのためにピースメイン展覧会なるイベントに連れていってくれたこともあると。

 ただ、〝違う〟ことを突き付けられることが多かっただけ。

 カラオケでおとせが静かにしているよう家族に言われた件もそうだ。〝健常者の家族と聾唖のおとせは違う〟──それを幾度となく、そのひとつひとつは些細だとしても積み重なれば山となり、おとせという個人を殺す。

 おとせに、〝健常者と自分は違う〟と、すり込んでしまう。

 それはやがて──家族に対する信用の欠如へと繋がった。信頼はしていても、信用はできない。

 〝きっと否定される〟──その思いがおとせを億劫にさせてしまうのだ。


《ふるめえくんを借りたい時はいつでも言ってね》


 いちずさんはそれ以上突っ込まず、けれど戸口は開けていつでも声を掛けてと(いざな)った。

 他人の家庭事情だ。あまり首を突っ込んでいいものじゃない。それはわかる。わかるけれど──どうにか、できないものか。


《あの、それよりも! このふるめえくんは 結構簡単な仕組み なんですか?》


 話題を逸らしたい、というのがあからさまに見て取れたけれど俺もいちずさんも、触れない。


《そうなの? あたし、そんなの考えたことなかったな。単純なの?》

《簡単 というか、無駄がないというか》


 ふるめえくんは音の響きをよくするためか、おしりの部分が空いている。そこから見えるスピーカー部は確かに、結構シンプルな造りになっていそうだった。


《でも調べたところによるとこの仕組み、特許申請されてるよ》

《ん~……簡単なんだけど、すごいなって》


 わたしならスピーカーをいっぱい使う方法を考えちゃう、と零すおとせに俺といちずさんは顔を見合わせて確かに、となる。


《機械の中身なんて気にしたことなかったなぁ》

《わたし、護くん に スピーカーの仕組み を 教えてもらって》


 スピーカーの仕組み。そういえば出会ったばかりのころ、そんな話をしたな。空気振動を生むために機械が前後に動いていて、大きすぎると限界幅越えちゃうってヤツ。


《それから なんとなく 色んな機械の 中身 が 気になって》

《へぇ~。そういえばおとせ、 計算 好き 言ってた だから 理数系?》


 くあー、手話難しい。てにをはを挟む余裕がない。単語ぶつ切りでも通じるからいいけど。

 ともあれ。理数系と単純に決めつけるのは早いかもしれないけど、おとせは頭の回転が速いし、素質はあるのかもしれない。

 俺? 文系。理数嫌いじゃないけどね。


《わからない。テスト、いつも悪いし。頭悪いって、家族にも言われるし。先生 も もっと頑張れって、言うけど》


 どうすればいいのかわからない。

 そう落ち込むおとせは、けれどそのまま落ちこぼれはしなかった。顔を上げて俺をまっすぐ見据えて、嬉しげに声を上げる。


《でも、国語 は 今度、いい点とれるかも。護くんの、おかげで 本が 楽しいから!》


 ──やはりおとせは努力家だ、と思う。

 テストの点数が悪い=努力不足、ってみんな言うけれど。そりゃあ、何がわからないのかわかっていないのに努力のしようがない。わからないまま置いてけぼりにしておいて、何を言っているんだって話だ。


《社会とか 丸 暗記 しない?》

《えっと……墾田永年私財法とか、覚えるのはいいけど、順番……流れ? が わけわからなくて》


 ひとつひとつを単独として覚えるのは問題なくても、数珠繋ぎにしていくのが苦手──ってところだろうか。分類の仕方がわからないのかもしれない。これもある種の国語力だ。奈良時代、七四三年に聖武天皇が発布した(ちょく)──単純に丸暗記できそうに見えても、いくつもの重要なキーワードがある。奈良時代・聖武天皇・勅・七四三年・墾田永年私財法──これらを前後の出来事や人物と混同せず繋げるのは、意外と難しかったりする。


《俺 おとせ 頭悪い 思わない》

《……そう?》


 うん。思わない。

 おとせと話していて、おとせの頭が悪いと思ったことなんて一回もない。最初こそ日本語のおかしさに眉を顰めたけれど、指摘すればすぐ吸収する。おとせの頭の良し悪し云々よりも俺の、おとせに対する親切に猜疑心を抱えていた気がする。本当に親切なのかとか、優越感から優しくしているだけなんじゃないのかとか。


「たっだいま~ごめんねいちずちゃん、留守番任せちゃって」


 その時だった。まだら相談事務所のドアが乱雑に開け放たれて、くたくたにくたびれた斑さんが帰ってきた。いちずさんがおかえりなさい、と声を掛ける。


「おじゃましてます、斑さん」

「こぉんいちは」

《やー、いらっしゃい。ごめんねーほったらかしにしちゃって。面倒な仕事が来ちゃってね……ああ、疲れた……ひどい目に遭った……》


 どさり、と俺たちの向かい側のソファに寝転がって大きく息を吐き出す斑さんに、いちずさんが麦茶を出す。


「また面倒事ですか」

《うん、そう。鬩にヘルプ頼んだよ、もう》

《神社せんぱい? 一緒にお仕事していたんですか?》


 おとせの目がぱあ、ときらきらと輝く。ぐ、と言いようのない不快感──いや、不愉快さ? 腹立たしさ? 何とも言えない感情で、喉が引き攣れそうになる。

 ──僻み、ですとも。ああ。それ以外の感情、なんて。


《うん。すぐ大学に戻っちゃったけどね。ああ、いちずちゃん今夜食べてくだろ? 護くんとおとせちゃんはいつまでここにいるつもりだい? なんなら食べてく?》


 鬩も来るよ、という言葉に俺は急激に帰りたくなった。おとせを連れて。


《ごめんなさい。ごはんまで には 帰らないと。最近、遊びすぎ だって 怒られてて》

《あぁ~そうか。そりゃ残念。おとせちゃん、頑張ってるんだね》


 斑さんはおとせの親からの物言いには触れず、おとせがてにをはを頑張っていることを褒める。

 けれど俺は、つい口を出す。


《家族 おとせ てにをは 気付いてない?》

《う、うん》


 何でだよ、と思って、けれど少し前の俺も手話を使う発想に至らなかったことを思い出して口を噤む。

 ──〝知ろう〟としなければ、気付かない。気付けない。


《近しければ近しいほど、気付きにくいんだよね。親心子知らず、子心親知らず、って言うでしょ? 毎日顔を合わせているとどうしても〝いつも通り〟って思考停止しちゃうんだよねえ》


 ソファに寝っ転がりながらいいことを言う斑さん。締まらない。


《そういえば斑さんはそういう細かい変化、よく気が付きますよね》

《性分かな。鬩には細かすぎるって突っ込まれるけどね》

《鬩くんの些細な変化ひとつひとつ、斑さんにとっては大きな変化ですもんね》

《いやそうじゃなく》


 ほうっと恍惚とした顔でため息を零すいちずさんに斑さんが遠い目で突っ込む──え?


《わかってますよ。斑さんが常日頃、どれだけ鬩くんを見つめているか……斑さんの眼差しの先にいるのは、いつだって鬩くん。斑さんの眼差しに宿るのは、いつだって鬩くんへの、秘めた愛》

《ストップストップストップ。護くんたちいるから!》


 ……え?


《勘違いしないでね!? ぼくと鬩はそういうんじゃないからね!?》

《照れちゃって》

《いちずちゃん!!》


 ──え。


「え……あの、いちずさんは鬩兄の彼女じゃ……」

《そうよ?》

「え……」

《でもほら、言うじゃない? 〝萌えは別腹〟》


 初耳だ。


《だって萌えない? だめなおじさんとクールな男の人。面倒な仕事をしょい込んで鬩くんに泣きつく斑さんを、鬩くんは文句を言いながらも助けてあげるの》


 そして、知りたくなかったその世界。


《だめなおじさん言わないでよ!! それ以前にお客様にそんな妄想話しない!!》

《妄想じゃありません。事実です》

《君の中でだけね!! 鬩はきみの彼氏でしょうが!!》

《そうですけど、ほら。鬩くんの彼女はあたしで、彼氏は斑さん。問題ないじゃないですか》

《大ありだよ!! ぼくはノーマル!! 普通に女の子のお嫁さん欲しいよ!!》


 もしかしていつもこんなやりとりしているのか?


《だって萌えるんですからしょうがないじゃないですか。ぴいぴい泣きながら鬩くんに抱き着く斑さんとか、それをすげなくシバく鬩くんとか、萌えないほうがおかしいです。ねっ?》


 ねって。わからない。わからないよ。


《なんか、わかるかも》

「おとせ!?」


 そっちに行かないでくれ!!


《わかる? おとせちゃん》

《やめていちずちゃん!!》

《なんか、はい。可愛いですよね。まだらさんと神社せんぱいが、お話しているところ、見てみたいです》

「おとせぇ!!」


 これが腐海というやつか!?

 腐海が広がって手遅れになる前にと、大慌てでおとせをまだら相談事務所から連れ出す。連れ出す前に萌え語りしましょうねと、連絡先交換していたからもうダメかもしれないけれど!




 ◆◇◆




/鬩兄に会いたかった?/


 帰りの電車。

 そこそこ客入りのある車内で、並んでシートに座ってスマートフォン越しに投げかける。手話を使わなかったのは、おとせの顔をなんとなく見たくなかったからか。


/会いたかった/


 ずきりと胸が痛む。

 以前、好きだったのかと聞いた時おとせははっきりとした答えを返さなかったけれど、明らかに好意を抱いている反応だった。

 全くモテ男め、と僻む。誤魔化す。僻みだと誤魔化す。誤魔化しだってわかっているけれど、それも誤魔化す。


/やっぱり、今でも好き?/


 聞かなきゃいいのに、俺の指は止まってくれなかった。思わず表情を失くして唇を硬く引き締めてしまう俺に、けれどおとせは気付かないまま指を滑らせる。


/う~ん……中学部の時は、憧れてた。背が高くて、かっこよくて、何でもできて、かっこよくて/


 はいかっこいい二回いただきましたー畜生。


/好きだったのかどうか、ちょっとわかんない。甘神せんぱいも、とっても素敵で、すっごく憧れていた/


 鬩兄といちずさんが並んで歩いているのを見ると、すごく胸がどきどきしたのだとおとせはうっとりする。だから、恋慕めいた感情を鬩兄に対して抱いているわけではないのだと。

 それに、と続けて三文字だけ打ち込んでおとせはちらりと俺を見上げる。

 時刻は夕暮れ。日の入りにはまだまだ遠いけれど、西の空がうっすら小麦畑のような色合いになっている。

 おとせの視線が、俺から外れる。


/ないしょ/


 そう言いつつ、俯くおとせの横顔は赤く熟れていて。なんだか、俺も顔が赤くなってきた気がしてぱたぱたと手うちわで扇ぐ。

 それからしばらく、がたんごとんと心地よい揺れに身を委ねる沈黙が続いた。ちり、と視界に夕陽になりかけようとしている煌めきが入る。


/夕焼けを見るとさ、ピースメインの歌思い出すんだよね/

/どの歌?/

/Okey dokey/


 ピースメインのED曲の中でも名曲と名高い歌。そんなのわかっている、知っている。承知の助だ。頭では理解している。けれどそれじゃあどうにもならないものがある。考えるよりも先に動いてしまうものもある。理屈じゃないんだ。理屈なんてねじ伏せろ──そんな歌。


《いろいろ考えてしまうことも あるけれど、俺 これからも こうやって一緒 に やっていきたい 思う》


 おとせの目が、俺をまっすぐ見据える。


《よろしく、おとせ》


 俺のひとことに、おとせは心の底から嬉しそうに笑った。




 ──ひと夏のさざめきでは終わらせたくない。




 【波乱万丈? 承知の上さ】

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