第四節 【Believe】
疎外感。
第四節 【Believe】
瓦町駅から片原町駅にかけて広がる高松中央商店街。乱立するショッピングモールのあおりを受けてシャッター街になりかけていたのを地域再生計画でどうにか持ち直して、そこそこの賑わいがある商店街になっている。飲食店や居酒屋もそこそこあって、暇を潰すにはいい場所だと思う。
斑さんが営んでいる何でも屋〝まだら相談事務所〟はここの奥まった路地にあって、知っていないとなかなか気付けない事務所だ。けれど依頼人はそこそこ多いようで、いずれは改築も考えているらしい。
/暑いね。午前中部活だったんでしょ? 大丈夫?/
/大丈夫。わたし、体を動かすの好きだから!/
/陸上部だったけ? 何やってるの?/
/いろいろ。今度の大会には二〇〇メートル走と走り幅跳びで出るよ/ /に出る?/ /で出るも合ってる?/
/どっちも合ってる。『自分は種目に出る』、は種目を強調していて、『自分は種目で出る』は出ることを強調してる感じかな。てにをは、うまくなったね/
本当に目覚ましい成長だと思う。連絡先を交換してから毎日、それこそおはようからおやすみまで話し込んだ甲斐がある。──まあほぼピースメインの話だけどさ。うん、音失さんと話し込んでいるうちにすっかり俺もファンになっちゃった。だって面白い。
こんなにすんなりてにをはの習得がうまくいくんだから、聾学校での教育の仕方が悪いんじゃないか、とじいちゃん家にひょっこりやってきた鬩兄に言ったことがある。俺と音失さんの会話を見て、鬩兄はふっと笑って〝勉強したいと思っていないのに勉強しても身に付かないだろ。勉強したいと思うきっかけがあっただけのこと〟と言い、続けて〝女の子はこうなると本当に成長が早い〟とモテ男オーラ出してきやがったのである。
ともあれ。音失さんにとって、俺との出会いが勉強したいと思うきっかけになったのなら嬉しいことだ。ちょっと誇らしい。
/じゃ、そろそろ行こうか/
「ぅん!」
本日午後の目的地である〝まだら相談事務所〟の近くにあるしんべえうどんってうどん屋で昼食を済ませた俺たちは並んで店を出て、暑い暑い言い合いながら足早に事務所へ向かった。
まだら相談事務所は二階建ての事務所で、一階がガレージ兼倉庫、二階が事務所兼自宅になっている。何回か訪れたことがあるから勝手知ったるもので、迷うことなくガレージ横のドアに向かい、インターフォンを鳴らす。ほどなくして二階に上がるよう言われたので、音失さんを伴ってドアを潜り、二階に上がる。
「こんにちは、おじゃまします」
「おしゃんぁぃまう」
「やあいらっしゃい」
ついこの間の夏祭りでも顔を合わせた、柔和でほっとする笑顔に出迎えられて俺たちは事務所に上がる。スリッパに履き替えた俺たちをソファに案内して、斑さんが改めてこんにちは、と──
「初めまして。この前の夏祭りにもぼく、いたんだけど覚えてるかなあ? ぼく、真田羅斑、まだら、まだらって言うんだ。変な名前でしょ。まだらって呼んでね」
ああ、そういえばこの人手話使えるんだった。
と、身振り手振りで話し出した斑さんをぼんやり眺めていた俺の隣で──音失さんが、嬉しそうな声を上げた。
嬉しそうに声を上げて、身振り手振り──〝手話〟で話し出した。当然のことながら、俺には音失さんが何を言っているのかわからない。時折声も出すけれど、それでも何を言っているのかわからない。
斑さんには、伝わっているのに。
「うん。ほら、鬩。知ってるでしょ? うん、そうそう神社鬩。ここに住んでるんだよ。あと鬩の彼女のいちずちゃん。そうそう甘神いちずちゃん。あの子も時々バイトしに来るんだよ」
「そうそう。だから手話覚えたの。そう? 意識したことないなあ。読み取りやすいならよかった。鬩? ううん帰ってきてないよ。まだ大学。帰ってくるのは夜だと思う」
「ははは。だよねぇ。鬩はぼくから見てもかっこいいと思うよ。うん。いつも助けてもらってるんだよぼく。情けないけどねぇ~鬩ってほんと頼りになるんだ」
「ん~、四年くらいになるのかな? ぼくが鬩と初めて会った時、鬩は中学三年生だったから。そうそう。その時に手話覚えたんだ。いちずちゃんともそのくらいの時に仲良くなってね」
「そうそう。護くんとも四年くらい前に知り合ったんだよ。あの頃の護くん、まだ小学六年生だったなぁ……そうそう、こーんなちっちゃかったの。それが今ではこんなに大きくなっちゃってねえ」
「へぇ、おとせちゃんか。よろしくね、おとせちゃん。おとせちゃんって、手話だとこうかな? 音の手話でこう……あ、やっぱりみんなからもそう呼ばれてる? だよねぇ」
疎外感。
ひとことで状況を表すなら、それが一番的確だった。
斑さんと音失さんが──特に、音失さんがそれはそれは嬉しそうに、楽しそうに、生き生きと手話で話している。
斑さんの声で何を話しているか大体察せるけれど、察せるけれど。
「ここ? 護くんから聞いてない? うん、そうそう何でも屋。何でもやるよ。ぼくにできることで、犯罪にならなければなんでも請け負うよ」
「そうそう。一番多いのはハウスクリーニングだねぇ。そう、お掃除。他にも衣装作りとか資料作り、料理教室なんかもやるよ。依頼料は依頼内容に応じて変わるねぇ」
「うん。ははは。そうでもないよ。ここ数年は鬩が手伝ってくれているおかげでだいぶ儲かっているけれどね」
「そうだよ。鬩にずいぶん助けられているんだ。いちずちゃん? 彼女には経理事務をしてもらっているよ。ほんといつも助かっているよ、うん」
「あぁ……きっかけかぁ。ちょっと情けないんだけどね……ぼくがちょっと危ない依頼請けちゃって、やばかったところを鬩に助けられたんだよ。うん、そう。へぇ、聾学校でも?」
「あぁ、高校生になってからの鬩、成長期でむちゃくちゃ背伸びたもんねぇ……。そっか、おとせちゃんの憧れの人なんだね。うん、わかるよ。ぼくもかっこいいって思うから」
──言いようのない疎外感で酸っぱくなった口内をもごつかせていると、ふいに斑さんが俺を見やった。見やって、手話は付けず声だけで話しかけてきた。
「──ほんとはね、声を出すなって言われていたんだ。鬩に」
「え?」
「でも、護くんならこう言えば伝わるだろうって思ってね」
穏やかで柔らかい笑顔を浮かべて俺を見やる斑さんにつられて、音失さんも俺に視線を向ける。その顔はきょとんとしていて、斑さんが何を言ったのか理解していない様子だった。
そこで、気付いた。
──おとせちゃんと一緒に斑に会いに行ってみろ。そうすれば、お前にもわかる。〝聞こえない〟ということの意味が。
「それとね、護くん。彼女たちにとってはこれが日常だ」
──〝盲〟はヒトとモノの繋がりを断ち切り、〝聾〟はヒトとヒトの繋がりを断ち切る。
耳が聞こえないとは、そういうことだ。
今回、斑さんは声を出してくれた。だから、手話はわからずとも話の内容は大体察せた。けれど、もし。もしこれが音失さんの立場なら、どうだろう。声だけで会話する健常者を──音失さんは、どういう目で見ているのだろう。
疎外感。
そして、それだけじゃない。
それだけじゃないどころが、これが最大の──そして最悪の問題だった。
何で俺は手話を覚えていないんだ?
音失さんと出会って二週間、だろうか。
その間、俺は音失さんに合わせているつもりだった。そう、俺が音失さんに合わせているつもりだったのだ。耳が不自由で、日本語も不得手な音失さんに合わせているつもりだった。音失さんがわかりやすいようにと色々工夫して、最大限気を遣って音失さんに合わせているつもりだった。
とんでもない。
音失さんを俺に合わせているだけだったというのに。
鬩兄の時とはわけが違う。鬩兄は手話を使わずとも会話ができた。だから、手話を覚える必要がなかった。
でも音失さんは違う。口話は最低限程度しかできないし、筆談だって日本語が不得手だから若干片言気味になる。
それなのに、俺は音失さんが会話しやすいツールについて考えなかった。俺が音失さんと会話しやすいツールとして、筆談を、そしてチャットを選択しただけだった。
何が、真摯な姿勢には真摯な姿勢を、だ。
俺がやりやすいようにしてただけじゃねえか。
「まぁおるはん?」
黙り込んでいる俺を心配してか、音失さんがとんとんと肩を叩いてきた。斑さんは、お茶でも用意しているのかキッチンの方にいる。
/だいじょうぶ?/
/ごめん、ちょっとぼーっとしてた。大丈夫/
何が聾学校の教育が悪いんじゃないのか、だ。俺との会話で日本語が上達していることにうかれすぎていた。とんでもない──とんでもない、独り善がりだ。
/斑さん、いい人だよね/
/うん! 手話も、すっごい読み取りやすい! 手が大きいからかな? それに、すごく上手!/
そう言う音失さんは本当に嬉しそうで、手話で会話することに喜びを見出しているのは明白だった。手話で会話できる人に出会えたことに、かもしれない。
/やっぱり、手話の方が話しやすい?/
/うん。手話だと、ずっと顔を、見て話せるし!/
顔を見て。
そりゃ、そうだ。スマートフォンを使った筆談もどきだと、文を打っている時はどうしてもスマートフォンを見る。
/神社せんぱいと、甘神せんぱいが、ここでバイトする理由、わかるかもしれない。まだらさん、本当はいい人だね/ /本当に/
/うん。本当はいい人、だとまるで斑さんが普段は悪い人、になっちゃうね/
ふふふ、と俺の返信を見て音失さんが笑う。──そうだ、そういえば、スマートフォン越しに会話している時、大概スマートフォンを見て反応していた。こうやってスマートフォンを見て笑っていた。俺を見て、笑うことはあんまりなかったかもしれない。
また、胸がさざめく。
「お待たせ。はい、珈琲」
その時、斑さんがミルクと砂糖と一緒に珈琲を運んできた。いつもなら既に俺好みの味に仕上げられている珈琲が今日はブラックのままで、あれと首を傾げる。
「カフェオレにしちゃってもよかったのかい? おとせちゃんの前だし、一応ブラックにしといたけど」
「んぐっ、そ、そんな気を遣わなくていいです! 別に、そんなかっこつけるつもりとかありませんよ!」
斑さんは本当に、こういう細かいところに気が利くというか、気を回しすぎるというか。照れ臭さで少し熱くなった顔をそのままに、珈琲にミルクと砂糖をぶち込んでいく。
と、音失さんがぼうっと俺たちを眺めていたことに気付いて、ああそういえば手話を使っていなかったと少し焦る。
/ごめん、何言っているかわからなかったよね? 俺、いつもカフェオレなんだ。それが今日はブラックのままだったから、それについて話してただけ/
/あぁ、なるほど! 楽しそうだなあって、思ってた!/
/話、わからないよね。ごめん/
/ん? うん、話すの早いから、何を言っているか、難しいね。でも、しょうがないよ/
聞こえるんだもん。
──そう言って笑う音失さんは、疎外されていると感じているようではなかった。
──彼女たちにとってはこれが日常だ。
先ほどの斑さんの言葉が、甦る。
それこそ、生まれた時からそうだったのだ。たとえば両親。たとえば先生。たとえば道行く人々。彼らが何を話しているのか理解できない、それが音失さんにとっては日常だったのだ。
疎外されるのが日常だった。
「…………」
押し黙ってしまった俺を気遣ってか、斑さんが音失さんにお菓子を勧めて話題を変えた。茶請けは俺の好きないちごムースケーキで、けれど心はあまり弾まなかった。
「……斑さんは、どうして手話を覚えたんですか? 鬩兄は、手話を使わなくても話せますよね? いちずさんも」
音失さんが読み取りやすいように、意識してゆっくり話す。それに対して斑さんは、手話を交えて答えてくれた。
「うん。鬩は手話を使わなくても会話できるね。実際、鬩とふたりきりの時は手話使わないことも多いしね。でも、それだと鬩が疲れるから」
〝疲れるから〟
考えたことも、なかった。
「いちずちゃんもね、発音も口話もうまいんだけどね、口話だけの会話より手話ありの方がやりやすそうだったから手話を使っている」
「〝やりやすそう〟……」
「そう。健常者にもいるでしょ? 対面で話すよりも電話の方がやりやすいとか、声だとうまく話せなくても文字だと説明できるとか、いろいろ。人によって得手不得手なコミュニケーションがあるんだよ」
当たり前のことなんだけれど忘れやすいよね、と斑さんは穏やかに微笑む。
そう、当たり前だ。当たり前なのに──何で俺は、自分から歩み寄るのではなく音失さんに歩み寄らせようとしていたんだろうか。何で、鬩兄と暮らしていたのに鬩兄の負担を考えていなかったんだろう。
「……情けない、です」
ぽつりと、こればかりは音失さんに知られたくなくて、口をほとんど動かさず囁くように零す。
斑さんはやはり、穏やかに微笑んでいる。
──鬩兄は、俺にこれを教えたかったんだ。だから、斑さんに相談しろと言ったんだ。
「さて、確か今日の依頼は〝音を感じてみたい〟だったけ?」
珈琲カップが空になったところで斑さんが本題を切り出してきて、俺と音失さんは頷く。
「依頼料は──」
「ああ、いらないよ。鬩からもうもらっているから」
「え、鬩兄が?」
「〝金のことは気にせずお前の想うがまま向き合え〟だってさ」
「…………」
ああ、敵わない。
本当に──鬩兄はいい男だ。僻む暇もないくらい、本当にいい男だ。ちくしょう、これだから憧れるんだよ。
「んでね、〝音〟なんだけどさ。きみら、カラオケ行ったんだよね?」
斑の言葉に音失さんが頷いて答える。それを、斑さんが通訳してくれる。
「〝護さんと一緒にカラオケでいろんな音を聞いてみました。ボリュームも上げて、スピーカーにくっついたりとか、いろいろ試しました。すごく楽しかったです〟」
でも、と音失さんはちょっと物足りなさを感じるのだという。音を振動として感じるのは楽しいけれど、なんか違うのだと語った。それを聞いて斑さんは考え込むように無精髭の生えた顎をなぞる。
「カラオケでおとせちゃんが音を聞いている時、護くんは何をしてたの?」
「えーと、ちょっとうるさかったのでヘッドフォンを耳栓代わりに着けて、スマートフォン弄ったり音失さんに感想聞いたり……」
「ああ、なるほど」
じゃあこれだ、と斑さんが執務机の引き出しから取り出したのは──風船だった。何の変哲もない、ただの赤いゴム風船だった。呆けている俺たちをよそに、斑さんはぷうっと息を吹き込んで風船を頭ひとつ分くらいに膨らませる。
「はい、ふたりとも触って」
「?」「?」
言われるがまま、差し出された風船に音失さんと触れる。そうしたら斑さんが風船に唇が触れるか振れないかの距離まで顔を寄せて、あーっと大きな声を出した。当然震える風船──けれど音失さんはあ、と何かを思い出したような表情になった。そして何かを、話す。
「へぇ、発音訓練で使うんだ。ほら、〝音〟って〝空気振動〟だからね。こうやって音を風船に伝えると風船の中の空気が震えて、よく響くんだ。──ほら、護くん」
「え?」
「それを使って会話してみなよ」
会話してみなよって、いきなり言われても。
手渡された赤い風船を手に、俺は少し迷ってから横を向いて音失さんと向き合う。とんとん、と風船を指差して音失さんにも持たせて、口を近づける。
近付けて──何を言うべきか、迷う。考える。適当に、何でもいいんだけれど。
──おとせちゃん
そういえば鬩兄も斑さんも躊躇なく音失さんを名前呼びしているな、とふとよぎった思考そのままに、声帯を震わせる。
「おとせ」
赤い風船の向こう側で、音失さんがきょとんとした顔をする。また、繰り返す。
「おとせ」
繰り返す。
「おとせ」
また、繰り返す。
「おとせ」
ぴろりん、と小さくスマートフォンが鳴って、風船を持ったまま視線を下げる。画面には、音失さんからのメッセージ。
/なんて言っているの?/
ぐ、と息が詰まって答えるかどうか数秒ほど逡巡して──正直に答えた。
/おとせ/
赤い風船の向こうで、音失さんが驚いた顔をした。言わなければよかったか、と恥ずかしい心地になりかけた瞬間──音失さんの顔が、嬉しそうに破顔する。
/もう一回/
そうメッセージを打ち込んで、音失さんは赤い風船にぴとりと頬をくっつけた。俺も、口をそうっとくっつける。
「おとせ」
とんとん、と風船が叩かれる感触がして視線を滑らせる。音失さんの人差し指が立っていた。もう一回、というしるし。
「おとせ」
もう一回。
「おとせ」
もう一回。
「おとせ」
もう、一回。
「──おとせ」
もう一回、もう一回とそれからも何度も〝おとせ〟と呼んで─気付いたころには、斑さんが死んでいた。
「え? 斑さんどうしたんすか」
「いや……三十路超えた独身彼女なしには、ダメージがね」
青春がぼくには眩しすぎる、と哀愁漂う表情で零して斑さんはよろよろと立ち上がる。斑さん悪い人じゃないんだけど、なんというか、幸薄というか。不幸体質というか。いい人に巡り合えるといいね、と願うばかりである。
そこで、またぴろりんとスマートフォンが鳴る。
/もう一回、お願いしたいんだけど、ダメかな?/
/いや、別にいいよ。これ、そんなによかった? カラオケの時に比べると振動はけっこう落ち着いてると思うけど/
/うん、そうなんだけど/
──言葉が伝わってきているんだって、実感できるから。
そう言って堪えきれない喜びを噛み締めるように、音失さんの顔がくしゃりと綻ぶ。
それで、理解する。
カラオケの爆音ライブでも音失さんが納得しなかったのは、俺と一緒に楽しめていなかったからだと。音失さんが楽しめるような音量だと俺にはきつくて、俺が楽しめるような音量だと音失さんには薄すぎる。だから──ああ、そうか。
音失さんは〝音〟を感じたいんじゃない。
音失さんは、俺たちが聞いている〝音〟に触れたいんだ。
「──そっか。だからこその、疎外感か」
ひとりで楽しみたいんじゃない。
誰かと楽しみを共有していたいんだ。
/おとせって呼んでもいい? 今だけじゃなくて、これからも/
/うん! じゃあ、わたしも護くんって呼ぶね/
赤い風船越しに、笑い合う。
「おとせ」
「ん」
/手話、教えて。覚えるから/
/覚えてくれるの?/
やはり音失さ──おとせには、手話の方がいいのだろう。喜色を隠し切れぬ顔で、要はわくわくしている顔で俺を見つめている。それを見て、本気で、一刻も早く手話を身に付けようと誓った。
/じゃあ、手始めに〝おとせ〟……さっき斑さんも言ってたけど、〝音〟の手話でいいんだよね?/
/うん。こう/
人差し指と親指で丸を作って音符に見立てて、喉から出るイメージで動かす。なるほど、実にわかりやすくシンプルな表現だ。
《おとせ》
はじめての手話。
ただ名前を呼ぶだけのそれに、おとせは心底嬉しそうに、けれどどこか恥ずかしそうにはにかんで頷いた。
/手話もいいけど、風船も感じたい/
欲張りめ、と思いつつ赤い風船越しにおとせ、と呼びながら音符を作る。赤い風船越しに、おとせの目が嬉しそうに細められる。撫でられて嬉しそうに目を細める狐と同じ目だ。
斑さんがまた死んでいたけど放っておいて、俺の名前も手話で表現するとどうなるのか聞く。
/神はこう。神さまの手話/
神社護。
〝神〟は両手を合わせての柏手。〝社〟は平らに開いた両手を組んで屋根に見立てる。そして〝護〟は守るの手話──握り拳を作った左手を右手全体で覆い囲むように滑らせる。
《護くん》
〝くん〟は男を意味する、親指を突き立てたサイン。発音はとてもいびつだったけれど、手話で名前を呼ばれた俺は──何故だか、泣きたい心地になっていた。
ああ、とこれがおとせが求めていたものなのかもしれないと、ひとり静かに思う。〝伝わる〟ことの、喜び。〝通じる〟ことの、嬉しさ。〝繋がる〟ことの、楽しさ。
「やっぱり顔を見て話すって、いいですね」
「──だね。手話は使わないと上達しないからどんどんおとせちゃんと話すといいよ。これ、あげる」
そう言って斑さんが手渡してきたのは、手話の本だった。随分使い込まれてくたくたになっている、古びた手話の本。
心の底から礼を、言う。
「今時は手話講座が動画サイトで見れるからさ、どんどん覚えて、でも覚えるだけじゃあやっぱりうまくならないから、おとせちゃんとどんどん話してね」
「はい」
「手話を使うのと読み取るのってだいぶ違うんだ。ほら、英語だって喋るのと聞くのとでは違うでしょ? だから話して慣れていくことが肝心なんだ」
「なるほど」
うん、頑張ろう。おとせがてにをはを学んでいったように、俺も頑張ろう。
「それとね、護くんおとせちゃん。今度の土曜日、空いているかい? いちずちゃんが来る予定なんだ」
いちずさん。一体なぜ、と思ったらいちずさんがいいものを持っているから、とのことだった。
「いちずちゃんにはぼくからお願いしておくけど、たぶん大丈夫だと思うから。楽しいと思うし、おいでよ」
「楽しい、ですか?」
両手を胸の前で躍らせて、心が弾む様子を表して〝楽しい〟──先ほどまでは大して注目していなかった斑さんの手話を、斑さんの声と照らし合わせながら観察する。
それがわかっているのか、斑さんも先ほどに比べるとゆっくりした調子で話していた。本当にいい人だ。何で彼女ができないんだろうな。
「おとせちゃんは聾唖だよね? いちずちゃんは難聴で補聴器があればある程度は聞こえていてね。だから音楽を聴くのも好きな子で、音楽をより楽しむための道具をいろいろ持っているんだよ」
「へぇ~」
なるほど、それは会ってみた方がよさそうだ。
「聴覚障害者のための道具って結構世界中で開発されていてね。〝耳で聴かない音楽会〟なんてのもあったりするんだ」
オーケストラをリアルタイムで光と振動に変換する機械を使っての演奏会、らしい。なんだそれ。楽しそう。
「〝中学部の時、修学旅行で九州に行った時に演劇を見たんですけど、劇場が貸してくれたオペラグラスに字幕が流れていました〟──へぇ、そんなのもあるんだね」
俺が知らないだけで、世界では日々色んなところで工夫が凝らされている。いや、知らないんじゃなくて知ろうとしてこなかっただけか。〝知らない〟ことを自覚して、〝何を知らない〟のか認識して、〝知ろうとする〟──単純に見えて、かなり難しいことだ。だって、〝知らない〟を興味がないからというだけで切り捨てる人間が大半だから。
「じゃ、ちょっと待っててね。いちずちゃんにメッセする」
「はい」
斑さんがスマートフォンを取り出して操作し出したのを横目で眺めつつ、風船で音楽でも聴いてみるかとおとせに提案してみる。
迷いなく頷かれたので、どの音楽がいいか一緒に探す。
/これ。Believe/
/ピースメインの主題歌か/
これまた懐かしい曲。ピースメインらしい、未来や夢をまっすぐ信じてひたすら追い掛ける曲だ。うん、おとせらしい。
「んー、スマホに直接風船当てると画面見えないな……じゃあ、こうだ」
ヘッドフォンを赤い風船にセッティング。うん、なかなか可愛い。
/かわいい/
ヘッドフォン風船に音を流してみる──あまり震えない。
/震えてるけど、風船より、ヘッドフォンの方が、震えるね/
うん。音の出口を風船に宛てれば震えるかと思ったけれど震えなかった。
/振動を抑えるためのクッションがあるからかも/
ヘッドフォンの耳には緩衝材が仕込まれている。挟まれていても痛くならないように、物理的な振動で音が聞き取りにくくならないようにという工夫だが、このせいで風船にも伝わらないのかもしれない。
ヘッドフォン風船をおとせが気に入ってしまったのでコードを抜いてそのまま俺たちの間に挟んで、ふたりでスマートフォンを眺める。再生されるBelieveに合わせて唇を寄せて、歌う。唄い上げる。俺の声に合わせて風船が震え、おとせに音を伝えてくれる。
とんとん、と風船をリズムに合わせて叩く俺の人差し指に合わせて、とんとんとおとせの指も風船を弾く。
カラオケの時のようにおとせひとりで感じているわけじゃない。いつものように俺ひとりで聞いているわけじゃない。
ふたり一緒に、同じ〝音〟を聴いている。
ふと、おとせが自分のスマートフォンを掲げてきた。そこには一文だけ。
/わたしに声をかけてくれてありがとう/
──ああと、こうやって人間は信頼関係を築いていくのだと実感する。
友だちはいる。悪友だっている。腐れ縁の幼馴染だっている。親友と呼ぶにはむず痒いダチだっている。けれど、こんなことを考えたことはなかった。ただクラスメイトだったから。同じ部活だったから。家が近所だったから。同じ塾に通っていたから。本当にただその時その時で出会った奴らと仲良くなった。
けれど、違うのだ。
出会いは偶然でも、仲良くなったのは偶然じゃない。
気付いていないだけで、俺たちは互いにきっかけを掴んで繋げた絆を、日々の暮らしと常日頃からの会話でそれぞれ、様々な関係に変成させていくのだ。信用であったり、信頼であったり、はたまた尊敬であったり崇拝であったり、嫌悪であったり猜疑であったり。
おとせとの出会いから今に至るまでのやりとりひとつひとつが、おとせのこの言葉に繋がっている。優越感から見下しているのかもしれないと悩みもしたけれど、俺がこれまでやってきたことが何ひとつとして無駄じゃなかったことが嬉しくなった。
──この繋がりを、ずっと大切にしていきたい。
【信じよう、ぼくらの未来】