第三節 【Looking for the wind】
音を知らぬということ。
第三節 【Looking for the wind】
「たーびはーはじーまったばーかりー」
七月も終わろうという時節、夏祭りを開催している九尾神社に俺と戦は帰っていた。小規模な神社だからそこまで華やかなお祭りではないけれど、九尾神社の本尊さまである椿狐さまにちなんでお狐さまをあしらった提灯がかわいらしくて女性からは人気である。
ジイジイと夕暮れ時にはあんなにやかましく鳴いていたセミも、日が暮れてほどほどに熱気も引いた今は大人しい。提灯の灯りが境内をほの優しく照らしていて、お祭りの音頭に合わせてわあわあと楽しげにはしゃぐ近所の子どもたちがちらちらと見え隠れする。
けれどその輪に俺と戦は入らない。何をしているかって、売り子のバイト。本殿そばに建てられた自宅の一部がお守りとか絵馬とか鈴とかを売る売店になっていて、巫女さんの衣装を身に纏って売り子をしているワケだ。俺の背後では戦が荷物を運びながら盛大にテンポを外して歌っている。
「まもぉあん」
と、ふいに声を掛けられて慌てて視線を戦から外す。そこには夏らしい、涼しげで健康的なタンクトップ姿の音失さんがいた。
「音失さん! 来たんだ」
「うん。ぉいこと、かぁんぱって」
つい昨日のこと、音失さんに話の流れで実家が神社であること、そして夏祭りがあることを伝えた。そうしたら行きたいと言ってきたので、バイトがあるから案内できないけど、と場所を教えたのだ。
ひとりで来たのかと、ゆっくり問いかければ首を横に振って、ぉぱあたんと、と返しながら指差した。人差し指の先には、お狐さまの提灯をしげしげと眺めながらお喋りに勤しんでいる老齢の女性たち。なるほど、おばあちゃんにお願いして一緒に来た、ってところだろうか。
「みぃこはん、いあう」
「似合うかな? ありがとう」
九尾神社では男性巫女、つまり禰宜は蒼袴と定められていて、例に漏れず巫女さんのバイトをしている俺も巫女装束を身に纏っている。ちなみに戦は破くからという理由でジャージ姿である。
「あら、彼女?」
含むような笑いとともにそうちょっかいをかけてきたのは、神主装束に身を纏った妙齢の女性──俺の母親だ。ここ九尾神社は炎と美徳を司る神社で、だからそれを象徴するように神主装束も炎のような揺らめきを織り込んだ布地で仕立てられている。俺も、いずれ跡を継いだらコレ着るんかねぇ。
「違う。友だち」
「ふふ。売り子ありがとうね。もういいわよ。お友達を案内してらっしゃい」
「売り子、代わるよ。こんばんは護くん、戦ちゃん」
「あれ、斑さん。お久しぶりです」
「まだらだ!」
びしっ、と戦が俺の背後から勢いよく、母さんの隣にいる大柄な無精髭の男性──真田羅斑さんを指差した。黒縁の眼鏡の奥に見える柔和そうな目が印象的な、我が神社一家と何かと交流のある人だ。高松市で何でも屋を営んでいて、鬩兄の雇用主でもあったりする。
「ほら、お友達と行きなよ」
「はい。ありがとうございます。お願いします」
俺たちの会話を呆然と眺めていた音失さんを斑さんがそっと指差して、放置していたことを思い出して慌てて売店から出る。
「音失さん、ごめん。案内するよ」
駆け寄ってきた俺の言葉に音失さんはおどおどと母さんや斑さんたちを見つつも、頷いた。それから音失さんを連れて軽く屋台を回りがてらスマートフォン越しに会話する。
/夕食は食べた? うどんあるけど/
/ううん、食べてない。ここで食べるから、おばあちゃんの、お小遣いを、もらってきたの/
/× カツアゲカツアゲ/
/おばあちゃんに! おばあちゃんのお小遣い、とっちゃだめ/
カツアゲカツアゲ、と打ちながら笑う音失さんに俺も笑う。それからふたりで屋台の飲食スペースに向かい合って座ってうどんをぞぞる。焼き鳥や焼きとうもろこしも買ってきて、屋台飯に舌鼓を打つ。
/神社せんぱいは、いないの?/
/◎ うん。ほんとは一緒に仕事するはずだったんだけど、急用が入ったんだって/
「ん? ──ああ、だから斑さんが来たのか」
なるほど、さっきからやけにきょろきょろしてると思ったら鬩兄探していたのか。と、少しやさぐれつつ、鬩兄の雇用主であり今現在、鬩兄と暮らしている斑さんがここに来た理由にひとり合点する。
/そっかぁ~残念。久しぶりに会えるかなと、思った/
/◎/
つい、マークだけのそっけない返信をしてしまって、慌てて付け加えるように残念だね、と打ち込む。
──別に、俺に会うためだけに来たワケじゃなくたって、問題ない。うん。これは、そう、僻み。ただの僻み。鬩兄があんまりにもモテているから僻んでいるだけ。
全く、本当に鬩兄は罪作りな男だ。
/そういえばヘッドフォン、新しいの買った?/
/ううん。お小遣い、あまりないから。それに、買っても、家族が笑われるから、迷う/
/× う~ん、聞こえない人がヘッドフォンしてもいいと思うのになぁ。俺のお古がココにあるんだ。よかったら使う? 前、音失さんが持ってたのよりもずっと新型だよ/
/え? いいの? いらないの?/
/うん。新しいの持ってるしね/
いる? と聞けば音失さんは笑顔で元気よく頷いた──けれど、すぐ意気消沈して困ったように眉尻を下げた。
/でも、どこで音を、聞けばいいのかな? 人がいるところは、ちょっと怖い/
/◎ ああ、そっか。う~ん/
家じゃ〝笑われる〟から無理だろうし。
/この間みたいに音割れしていなきゃ、普通に聞いてたら音漏れはしないし、外なら大丈夫だと思う。公園とか/
/普通……ってどんなの?/
そう素朴な表情で問われて、はっとする。〝普通の音量〟なんて──彼女に、わかるはずがないだろうに。
/補聴器をして、ヘッドフォンをしたら、隙間ができちゃう/
隙間──そうか、だからあの時は補聴器を外していたのか。聞こえない音失さんでも、ヘッドフォンと耳の間に隙間があったら音が漏れるってわかるから。
/どれくらいの音は、迷惑にならない?/
人とどのくらい離れていたら聞こえない? 最大音量にするなら人とはどれくらい距離を取るべき? ヘッドフォンやイヤフォンはしっかりつけていたら本当に周りには聞こえない? スマートフォンとヘッドフォンを繋いでいたらスマートフォンからは何も音がしない? ヘッドフォンしててもすぐ隣の人は聞こえる? スマートフォンのボリューム、百%はうるさいってわかるけど、五十%でもうるさい? 補聴器は音漏れしているとピーピーって音がして先生が教えてくれるけど、ヘッドフォンやイヤフォンだとどう? 音楽以外にも色んな音を聴きたいが、雷鳴とかジェット音とかの大きな音はボリュームを普通にしていても大きいのか? スマートフォン本体のボリュームと動画共有アプリのボリュームの関係性はどうなっているのか? 歩きながらヘッドフォンやイヤフォンしている人はよく見かけるが、つけていても外の音は聞こえるのか?
等々。色々。
──俺が普通に生活していて自然と身に付けて行った、〝音と人の距離〟を、音失さんは知りたがった。逐一、ひとつずつ。ひとつひとつ、確認したがった。
それらの問いに答えていくうちに、俺も知っていく。
〝聞こえない〟──ゆえに、〝知ることができない〟ということ。
俺たち健常者は普通に過ごしていれば掴む感覚を、音失さんたち聴覚障害者は掴めない。
だから、こうやって〝知らないことを自覚して知っていく〟ことしかできない。
単純に、〝知っていく〟ことはできない。当たり前だ。音失さんたちはそもそも、音を知らないのだからどうやって音を知れというんだ?
知らないことを知ろうとするには、知らないことを自覚しないといけない。音失さんは──きっと、この間の音割れ爆心地事件で〝知った〟んだ。〝自分は知らない〟ことを知ったんだ。
そして音失さんは、それを〝聞こえないから仕方ない〟と放置せず知ろうとしている。
/明日、暇なら一緒にカラオケ行かない?/
気付けば、そう提案していた。
若干ナンパ紛いの誘い文句になっていたことに後で気付いて、ひとり頭を抱えたのはここだけの話だ。
◆◇◆
「連れ、聴覚に障害があるんで音量を大きくしたいんですけど」
「畏まりました。では、奥のスペースにご案内します」
日曜日の昼前。
瓦町駅で待ち合わせした俺たちは連れ添って、駅ビルから出てすぐのカラオケ〝リンゴクラブ〟に向かう。友だちとカラオケする時によく利用する、学割がお得なところだ。
カラオケハウスなら防音設備がちゃんとしてて大音量でも隣室に響かない限りは問題ないし、こうして大音量で使用したいことも伝えたから大丈夫だろう。
/カラオケ、わたしは、行ったらいけないって、なんとなく思っていました/
/◎ 行っちゃいけないってなんで?/
/小さい時、家族と、お兄ちゃんの友だちと、お兄ちゃんの友だちの家族と、カラオケを行ったことがあったの/ /カラオケに行った/
/◎ へぇ、それで?/
/えっと……本、ない?/
/本? ああ、歌本かな? この店はタブレット使うよ/
古いカラオケハウスは曲名がずらっと並んだ歌本で歌いたい曲を決めてリモコン入力する形式なんだよな。じいちゃん家の近くにあるカラオケ喫茶店は今もそれがあって、じいちゃんたちの集いの場になっている。
/うん、たぶん歌本。歌本を、ぺらぺらめくって、トラえもんの名前が見つけて、お母さんに言ったの/
〝トラえもん!〟──幼いころの音失さんは、無邪気に好きなアニメの歌を画面に流したいと思ってねだった。
けれど、そんな音失さんに返ってきたのは。
/『静かにしていなさい』/
──聞こえないんだから。
──歌えないんだから。
──意味がないんだから。
/だから、ずっとじっとしてたの/
──聞こえる人たちの邪魔にならないように。
──聞こえる人たちに迷惑をかけてはだめ。
──聞こえる人たちで楽しんでいるんだから。
カラオケハウスという場所に身勝手に連れてこられ、興味を持つことを意味ないと切り捨てられ、聞こえないんだから関係ないと断じられ。
音失さんは、カラオケと自分を遮断した。
「…………」
〝聞こえないのに〟──俺も、思ってしまったことだ。音失さんと初めて会った日、聞こえないのにヘッドフォンしていることに少し、疑問を抱いた。
鬩兄という聴覚障害者が身内にいた俺でさえ、こうなのだ。音失さんが初めて接する聴覚障害者だという人たちは、余計に怪訝に思うのかもしれない。きっと、音失さんにそう言った大人たちに〝悪意〟はひと欠片としてなかったはずだ。
ただ不思議に思って。ただ怪訝に感じて。
──僕は人間が、何よりも恐ろしいよ。
いつのことだったろうか。鬩兄がまだ九尾神社にいたころ、ふと鬩兄が漏らしたことがあった。無意識かつ無自覚のうちに他者を傷付け縛り上げる人間が、何よりも恐ろしいと。
「…………音失さん! とりあえず、ドリンク頼もう!」
注文用のタブレットを音失さんに渡して、カラオケ台に向かって機具を見やる。ヘッドマイクがあったので取り出して接続と調子の確認をする。
/音失さん、ここではいくらでも音大きくしていいから/
/うん、ありがとう。でも、護さんはうるさくならない?/
/うるさかったらヘッドフォンつけるよ。少しは耳栓代わりになるし。だから、気になることは今のうちにじゃんじゃんしちゃえばいい/
俺の言葉に音失さんは少し目を見開いて、それからゆるりと融けるように破顔して──ありがとうと、拙い発音で言ってくれた。
今日は歌うことが目的じゃない。この防音部屋で音失さんが思うがままに、〝音〟を知っていく時間だ。そして俺にとっても、音失さんを通して〝音を知らない〟ことの実態を知る時間になる。
真摯な姿勢には、真摯な姿勢を。
/これがいいな/
/聞いてみたい曲はどんどん入れちゃえばいいよ。あ~、コレこの間再放送で流れてた/
音失さんが最初に選んだ曲は、〝Looking for the wind〟──これまた、ピースメインのオープニングのひとつだった。つい夕べ、戦もこれを口遊みながら仕事していたな、と思い出す。
音量やキーの調整について教えようとしたところで、音量とひと口に言ってもそれぞれのパートごとに調整ができる曲もあること、そもそもキーというのがどういうものなのか、といった点も逐一教えないといけなくなって、改めて自分の常識がいかに〝聞こえる〟前提に基づいているのかを思い知った。
/なんか、思ったよりも複雑だね/
ぽつりと零された音失さんの一文に、俺と音失さんの間にある差を感じて何とも言えなくなる。
音失さんにとって〝音〟とは、大きいか小さい、つまり振動が大きいか小さいか、響くか響かないかだ。普通に歩いていて、俺には無数に入り込んでくる音も、音失さんはおそらく──大きな車が通り過ぎた際の空気の震えくらいしか、音を認識しない。
音を知らない彼女が音を知ることは、本当にできるんだろうか。
モニターにピースメインのOPが流れ出すと同時に、スピーカーから震えるほどの音が爆ぜる。ビクッと肩を震わせた俺と、少しも反応しない音失さん。こんなに震えているのに、と思ったけれど──それは〝聞こえている〟からなのだろうか。〝聞こえている〟俺たちが感じる振動と、〝聞こえていない〟音失さんが感じる振動は、もしかしたら違うのかもしれない。
ふん、ふん、ふんとヘッドマイクに両手を当てて合わないながらもリズムを取っている音失さんに、スピーカーの傍に寄ってみるのはどうかと勧める。
/わあ! すっごい響く! いいね、これ!/
スピーカーの隣に腰を下ろして、ぴっとり寄り添うように体をくっつけた音失さんを見て、やはり感じ方が違うのだと思案する。思案しながら、スマートフォンを起動して〝音〟について改めて調べる。俺たち健常者にとっては身近な、切って離せぬ存在すぎて──今の今まで、深く思考してこなかった気がする。
〝音〟──即ち〝振動〟
〝振動〟には〝強さ〟〝高さ〟〝荒さ〟がある。音が大きければ振動も強くなり、高い音ほど振動は細かくなり──音色によって振動の規則性が変わる。
俺たち健常者は聴覚細胞、つまり有毛細胞によってその振動を細かく分類・分析して脳に送っている。けれど音失さんたち聴覚障害者、中でも感音性難聴は聴覚細胞の数が少ない、または機能不全であることでたとえ振動を受け取ったとしても、正確な分類・分析ができず音が歪んでしまう。
「……〝聞こえない〟って、単純に音が聞こえないってだけじゃないのか」
振動を受け取れる聴覚細胞が少ないのはもちろんのこと、生きている聴覚細胞も機能不全で正確に脳に伝達できず、歪んだ音を受け取ってしまう。だから、難聴者と大きな声で会話したからと通じるとは限らない。音が、歪むのだから。
そして、音失さんや鬩兄みたいに、そもそも生きている聴覚細胞が皆無に近い聾唖者もいる。こちらはそもそも振動を脳に伝達することすらできない。振動を、ただの物理的な振動として肌で感じるのみ。
「……ん?」
ふと、ガンガンにかけられていた爆音が止んで視線を上げる。音失さんが、難しい顔でタブレットと睨み合っていた。
次の曲を探しているのかと思えばそうではなく、Looking for the windを爆音で聞いてみたはいいものの、〝音を感じている〟とはいまいち思えなかったらしい。
/歌詞は好き。We are!とか、歌詞は好き。でも、よくわからない/
「…………」
スマートフォンに送られた音失さんの文を見て、しばし思案に暮れる。音失さんも他に何かいい曲がないか、さらさらとタブレットを操作している。
そこで、先ほど調べてみた〝音〟について音失さんに伝えてみることにした。振動の種類と、聴覚細胞について。
/振動を細かく分析してるんだ。すごい/
/意識してないけどね。耳が勝手にソレやってる/
/振動、大きい小さい、細かい荒い、とかにわかる。耳の奥も、時々じーんってなること、ある/
/× じーんって、痛い?/
/痛いのかな? しびれてるみたいな、飛行機で耳がぐーってなった時みたいな/
音を感じている、というよりは振動を物理的に感じている、のか?
/ちょっとキー調整してみるね。あとは、低音バンドの曲とか流してみよう/
高音よりは低音の方が振動もわかりやすいだろうし、と打ったところで音失さんが俺をじいっと見つめていることに気付いて、首を傾げる。
「どうした?」
「……んー」
音失さんは狐のような目をするりと細めて、嬉しそうに体を揺らす。
/〝音〟一緒に探してくれて、ありがとう/
──きっと。
きっと、俺がこうして音失さんについてあれこれ考えてしまうのは。
音失さんが俺に、気付いてくれているからなんだろうな。
見返りなんて求めていないはずだったけれど、やはり──やはり、気付いてもらいたいものなんだろうと思う。それを考えると、生徒からは疎んじられていることも多いだろうに〝先生〟をやっている先生たちは、結構すごいのかもしれない。
◆◇◆
結果として、音失さんはやはり高音よりも低音の方が〝感じている〟感が強いようであった。低音を売りにしているバンドの曲を爆音で流した時の音失さんは実に楽しそうで、全身に響くのがいいと興奮していた。
せっかく防音部屋にいるのだからと、スマートフォンとヘッドフォンを繋げて動画共有アプリで色んな音を再生してみるのも試した。雷鳴、電車の音、戦闘機のジェット音、爆発音、ありとあらゆる音。そうしてわかったのは、〝音の種類〟は音失さんには関係ないということ。
音失さんが最も〝聞こえてる感がすごい〟と称したのが、音割れ動画であったのだ。
元の音源ファイルを弄り、最大音量の限界をぐっと引き上げて作られた、通常音量で既に音割れしている壊れ動画。
純粋に振動数が大きければ大きいほど、強ければ強いほど音失さんには響く。この音割れ動画を再生した瞬間、俺は一瞬意識が削ぎ落とされるほどの衝撃を受けたというのに、音失さんは最大音量を、それもヘッドフォンで聞いても小揺るぎひとつさえしなかった。
聞こえないとは、そういうことだ。
「聞こえない人間が〝聞こえる〟と感じられるいい方法ってないかねぇ」
「んー? 聞こえないものは聞こえないんじゃないのか」
俺の零した言葉に、戦が当然の事実を返してくる。当たり前だ。聞こえないものは聞こえない。それを、〝聞こえる〟ように持っていくのは──無理だ。医術が発展して聴覚障害そのものを根治できるようにならない限り、無理だろう。
でも、それでも。
──それでも、音失さんは感じたいって言うから。
カラオケハウスでの実験はある意味、成功した。思う存分爆音で音を聞くことができて音失さんはたいそう満足していた。満足して、けれど俺たちが毎日のように〝音楽を聴く〟ことについてはやはりわからないと、言った。
スピーカーに寄り添って全身で振動を感じ、ヘッドフォンで爆音をダイレクトに受け、物理的な振動という形で〝音〟を感じた音失さんだったけれど、ひと通り聞き終わった後、音失さんはこう言ったのだ。
──毎日感じたいとは思わないかなあ。
──楽しいけど、こんなものかな。
帰りの電車内、滝宮駅に着く直前にぽつりと打たれた言葉が、未だ俺の中でぐるぐると渦巻いている。
音楽は好きだ。
俺が一番好きな音楽は? と聞かれるとイギリスのロックバンド〝Q〟の〝Queen of the Opera〟というアルバムを答える。Qは音楽性が違うメンバーで構成されているバンドで、その音楽性の違いを活かした構成になっている。聞いていてぞくぞく震える曲もあれば、耳触りがよくて落ち着く曲もある。歌詞は当然、英語──だけれど、歌詞の意味はぶっちゃけ、ほとんど理解していない。
そんなものだ。
けれど、音失さんには理解できなかった。
〝わからないのに聞いているの?〟──驚いた顔でそう聞いてくる音失さんに、ああ本当に聞こえないのだと、そう実感してしまった。波の音や風の音を聞いて落ち着くのと同じで、音に意味を求めているわけじゃないことを伝えたら少しわかってくれたみたいだけれど。
「戦、ちょっとこっち来い」
「ん?」
今日も今日とて、一日中野山で遊び倒したらしいというのに疲れている様子を微塵も見せていない戦が、とことこと俺の下にやってくる。そっと戦の両耳に耳栓を差し込んで、吸音シート代わりのスポンジを押し込んで、その上からさらにヘッドフォンを重ねて、手で封する。
「俺の声聞こえるか?」
「聞こえにくいぞ」
──ま、だよな。
どんなに耳を塞いだって完全な無音にはならない。外音を完全にシャットアウトするヘッドフォンをしたって、聞こえる。自分の音が。鼓動、血が流れる音、唾を飲み込む音、呼吸音──自分の中から響いてくる音が、聞こえる。
完全なる無音がどういうものなのか、俺たちにはわからない。
〝わからない〟をわかるようにするには、どうしたらいいものか。
「せめぐにいちゃんに聞けば?」
「ん~……だよなぁ」
鬩兄。うん、鬩兄。
こういう時頼りになるのはやっぱり、鬩兄だ。今までも何かとアドバイスをもらって、実際に役立っているし。やはり聴覚障害について知るなら、同じく聴覚障害を持つ先人に伺うのがいい。
それはわかっているんだけど。
スマートフォンで鬩兄とのチャットルームを開こうとすると、神社せんぱい! という、音失さんの嬉しそうな笑顔が脳裏をよぎって、うん。
「鬩兄は何故あんなおモテになられるのでしょうか」
「鬩ちゃんは年の割に達観しているからねぇ。そこが女の子にはぐっ! とくるんだろ」
俺の僻みまじりのボヤキをばあちゃんがさらりと流して、ごはんだよと手招きしてきた。今日は両親もこっちに帰ってきているから、勢ぞろいでの夕食である。
「護、今日友だちと遊びに行ったんだって? どこ行ったんだ?」
「カラオケ」
一週間ぶりに顔を合わせる父さんの隣に腰掛けながらそっけなく答える。刑事である父さんは何かと忙しそうにしていて、今日も随分くたびれた顔をしている。虎みてぇにおっかねぇ顔だけど。
「……そういえば音失さんの家族のこと、あまり知らないな」
ついぽつりと零れ落ちた言葉に、戦が無邪気におとなき? と反復したことで家族に名を知られてしまい、焦る。
「音失って、滝宮天満宮そばの音失さんかい?」
「……知ってんの?」
「滝宮のことでじいちゃんにわからんことはねぇべ。音失さんっつうと、確かお前と同い年の女の子いたなぁ」
「ぐっ」
それ以上突っ込んでくれるな、と睨むも甲斐なく、母さんにそれはそれは嬉しそうな顔で見つめられた。見るな。
「確かあの子、耳が聞こえねぇべ」
「あら、そうなのですか? 音失さん、音失さん……そういえば数年前、聾学校のPIAにそんな名前のお母さんいたかしら」
「昔のー、町内会の集会で音失の親父さんが子ども連れてよー来とったんだわ。兄ちゃんの方は元気いっぱいな小坊主だったけんどよ、妹の方はずっと後ろで、静かにしている子だったべな」
「…………」
──聞こえないんだから。
──歌えないんだから。
──意味がないんだから。
──聞こえる人たちの邪魔にならないように。
──聞こえる人たちに迷惑をかけてはだめ。
──聞こえる人たちで楽しんでいるんだから。
行儀が悪いのは理解しつつも、堪えきれなくてスマートフォンを操作する。
/鬩兄、〝音〟を感じる方法について何かあったら教えてほしい/
送信して、ひと息吐いてからスマートフォンをそっと伏せる。母さんがじっと俺を見つめていたので、気まずい心境になりつつも口をもごつかせる。
「ん~……昨日、夏祭りに来た子。あの子が音失さん」
「あら、あの子が? とっても可愛い子だったわよね~。けっこう背が高くてすらりとしてて、物静かな……」
「お喋りだよ、あの子」
静かなのは、そう植え付けられているから。
「ピースメインが好きでさ、そのことになるとすっげー熱くなんの。んで、聞こえないんだけど音にも興味持ってて、情熱がすごい」
決して、後ろで静かにしている子じゃない。
「……へぇ~」
にやにやと、母さんがそれはそれは意地悪そうに口を吊り上げたけれど、この反応はわかっていたことだから無視する。突っ込めば突っ込むほど面白がられるヤツである。
「ああ、なぁるほどねぇ。それで鬩ちゃんかい。聾学校なんだろ?」
ばあちゃんが言う。うん、と頷けばやっぱりねぇと訳知り顔で笑った。
「そりゃ鬩ちゃん好きになってもおかしくないねぇ~。なんせ鬩ちゃんだものねぇ~」
「ぐっ」
──これだからモテ男は!!
と、そこでスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。
/斑に相談してみろ/
「──斑さんに」
真田羅斑。夏祭りにも来た、人の好い大男。鬩兄が住み込みのバイトをやっている何でも屋、〝まだら相談事務所〟を営んでいるおっさん。我が家とも昔から何かと交流があって、時々夕食を一緒にする。
「いいんじゃない? 真田羅さん、ああ見えて色んな依頼を請けていて頼りになるわよ。鬩やいちずちゃんともすごく仲いいしね」
いちず、というのは鬩兄の彼女のことである。確か、彼女も斑さんとこで時々バイトしているって言ってた気がする。
と、続けて鬩兄からメッセージが送られてきた。
/おとせちゃんと一緒に斑に会いに行ってみろ。そうすれば、お前にもわかる。〝聞こえない〟ということの意味が/
──今さらながら、おとせちゃんと躊躇なく名前呼びする鬩兄に若干僻み根性が湧きつつも、その後に続けられた文章に目を細める。
〝聞こえない〟ということの意味。
それは今日、音失さんと一緒にカラオケハウスに行って、色々認識したばかりだ。
──これ以上、まだ何かあるのだろうか。
それに、もうひとつ。会う相手が、鬩兄じゃなくて斑さんなことも少し、疑問だ。何故斑さんなんだろう。
/〝盲〟はヒトとモノの繋がりを断ち切り、〝聾〟はヒトとヒトの繋がりを断ち切る/
盲ろうの偉人として名高いヘレン・ケラーの言葉だ。
そう締めくくって、鬩兄からのメッセージは終わった。
──〝聞こえない〟って、何だ?
【追い風の往く先を探して】