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おとのさわりかた  作者: 椿 冬華
おとのさわりかた
1/9

第一節 【We are!】

挿絵(By みてみん)




 音を聞きなさい。

 音は貴方に心を教えてくれます。

 音は貴方の魂を癒してくれます。

 音は貴方の命を守ってくれます。

 音を聴きなさい。

 音は言葉です。心を通わせます。

 音は情緒です。魂を満たします。

 音は知識です。命を強くします。

 音を訊きなさい。


 音こそが、万象の始まりなりや。


 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()




第一節 【We are!】




 香川県がどういうところか説明するにあたってこの上なく端的かつ、単純明快にして一目瞭然な言葉がある。


 〝うどん県〟


 元々ネットスラングの一種として、うどんばかりぞぞっている香川県民を揶揄る意味合いで存在していた言葉であるのだが、いつだったか、空前絶後のうどんブームが巻き起こった際に県自ら公称として名乗り出してしまった。

 それがよかったか悪かったか、香川県はすっかりうどん県としてのイメージが定着し、香川県という単語ひとつでうどんが二の句に継がれる程度には全国に知れ渡った。そう、香川県の次にはうどんが出てくる程度には、だ。

 ここであえて言わせてもらおう。


 香川県はうどんだけじゃ、ねえ!


 例えば、そうだ。骨付き鳥。香川県には鳥料理専門店があって、そこで焼かれる骨付き鳥、いわゆる山賊焼きは最高にうまい。それに、オリーブ牛だ。香川県の特産品のひとつであるオリーブの実で育てられたオリーブ牛はとても柔らかくあっさりとしていて、脂身がちっとも脂っこくなくてうまい。

 あとは、そうだな。和三盆(わさんぼん)だ。とても舌触りのいいまろやかな砂糖で、和三盆を使ったデザートは最高にうまい。和三盆プリンとか。

 食べ物だけじゃない。地理的な意味でも、香川県は他県にはない特徴がある。日本昔話によく登場する三角おにぎりのような〝おむすび山〟──あれが香川県にはたくさんあるのだ。他県の山は荒々しい形状のものが多く、むしろそれが普通であると知った時は驚いたものである。実際、日本昔話の山も香川県のおむすび山をモデルにしているそうだ。

 ともあれ。

 俺は今、そんなおむすび山が連なっている様子をよく見渡せる田舎に来ている。家は高松(たかまつ)国分寺(こくぶんじ)町にある九尾(くお)神社だが、毎年夏休みに入ると妹と一緒に滝宮(たきのみや)にある祖父母の家へ泊まりに行く。

 滝宮は香川県の中央部あたりにあって、都市部にあたる高松市中心街まで車で三十分、電車でも三十分という交通の良さからベッドタウン化が著しい地域である。

 綾川(あやがわ)町滝宮、田園風景が周囲に広がり、視線を遠くにやればかわいらしいおむすび山が連なっているのが見える素朴な田舎。だが、巨大なショッピングモールができたことで人の集まりはそこそこあって寂れてはいない。何より、うどん発祥の地と言われているがために連休には観光客で賑わう。

 祖父母の家はちょうどおむすび山のふもとあたりにあって、山をひとつ所有している。暴れ盛りの妹が夏休みくらいは思いっきり駆け回れるように、と夏の間は祖父母の家に滞在するのだ。両親は仕事があるから週末にしか来れないけれど。


 さて、前置きが長くなってしまった。

 例年に漏れず、高校生となった今も夏休みは祖父母の家に滞在している。

 俺の名前は神社(かみやしろ)(まもる)。高松市立桜色(さくらいろ)高校一年生兼、九尾神社宮司(ぐうじ)手伝い。高校はアルバイト禁止なんだけれど、家業手伝いに限っては認められている。ので、ちまちま巫女さんのような仕事をこなして小遣いを稼いでいる。この夏も、夏祭りが九尾神社で何回か予定されている。から、稼ぐつもりだ。

 それ以外は基本的に滝宮の祖父母の家でごろごろして、登校日と部活動の日は電車に乗って高松へ赴く──といった感じだ。妹? 日中ひたすら野山を駆け回っている。野生児なんだ、アイツは。


「じいちゃん、ありがと。行ってくるよ」


 普段、学校へは実家である九尾神社の最寄り駅、端岡(はしおか)駅から通っている。けれど祖父母の家に滞在している今は滝宮駅という、素朴な田舎の駅をそのまま絵にしたような味わい深い駅から登校している。

 滝宮駅まで送ってくれた祖父に礼を言ってからショルダーバッグを背負い直して滝宮駅のホームへ向かう。木造の素朴な温かみある駅舎と、駅前にある赤い昔ながらの、駅帽を被ったようなポストが実に田舎駅らしくていいところだと思う。電車の便は三十分ごとに一本、通学時間帯に限っては十五分ごとに一本とそこそこあるからド田舎とまではいかないけれど。

 七時十七分、滝宮駅始発の電車。始発だから時間前から停車していて、早めに行ってゆったりすることができてぶっちゃけ、実家から通うより超絶楽である。端岡駅からは乗り換えも含めて時間かかるが、この電車なら一本で学校の最寄り駅、太田駅に着く。実に楽である。


 ──だが、そんなゆったりとした列車旅も今日ばかりは(いささ)か濁りそうだった。


 パリパリ、パリパリと耳障りなノイズが電車の中で響き渡っていた。音が潰れては破裂し、爆ぜてはまた潰されて。限界を超えた音が行き場をなくし膨張して破裂する、いわゆる音割れだ。

 どこの誰だ。朝っぱらからこんな不快な音を流しているのは。しかも、盛大に音漏れしている。音割れに塗り潰されて大部分は聞き取れないが。かろうじて拾えたWe areと高らかに、それでいて伸びやかに宣言するその声には聞き覚えがあった。

 小学生の時に見ていたアニメ、〝ピースメイン〟のオープニング曲だ。妹と毎週見ていたものである。

 私鉄、琴電(ことでん)の電車は中古車両のリサイクルであることが多く、だからか車内にはお日様のような懐かしい香りが漂っている。始発であるにも関わらず、車内にはちらほらと通勤、通学に勤しむ客が見える。いつもならば一心に自分の手元しか見ていない彼らが、今日だけは不快そうに表情を曇らせてある一点を眺めている。

 連結部付近の座席に腰掛けて、ヘッドフォンを頭に、スマートフォンを手に目を閉じている──おそらくは高校生と思われる少女。


 音割れの爆心地である。


 誰もが不快そうに視線を向けているにも関わらず、その女子高生は大胆不敵にもひたすら音割れを垂れ流している。なんなら、ヘッドフォンに片手を当てて聞き入っちゃったりしている。音割れマニアなんてのも世の中にはいるが、こんな場所で聞き耽っていいものじゃない。迷惑にもほどがある。

 事勿(ことなか)れ主義、あるいは関わりたくないだけか。誰もが不快そうにしながらも口を(つぐ)んでいる中、俺は不快を隠そうともせずだんだんとわざとらしく音を鳴らして闊歩(かっぽ)する。


「おい! うるさいぞ!!」


 まずは一声。

 公共の場で厚顔無恥なふるまいをする輩に丁寧にしてやる道理も義理もない。

 ──と、思ったのだが。あろうことか、女子高生は無視した。いや、こんな爆音を垂れ流しているんだから聞こえていないだけなのか?


「おい!! うるさいって言ってるんだよ!!」


 今度は肩に手を置いて、音割れに若干の頭痛を感じながらも女子高生の耳に入るよう間近で叫んだ。


 女子高生の驚いたような目と、視線が遭う。


 狐のような目だった。吊り上がって細い狐目、というワケじゃない。いつだったか、家族で行った宮城県のキツネ村で触れ合った狐とそっくりな目だ。きらきらと太陽光を帯びて輝く大きな瞳を取り囲む、はっきりとした目のふち。


「っぅ、ひ」


 けれど狐を彷彿とさせる綺麗な瞳に見惚れていたのも束の間、その目が怯えに震えた。

 ──かと思ったら、へらりと口元が持ち上げられた。()()()()()()()()()()()()、女子高生は俺を見上げる。


 ──それは、見覚えある仕草だった。


 ──そして、女子高生の胸ポケットから覗いた小さな機械に、確信する。


「おと おおきい うるさい」


 とんとんと、自分の耳を叩いて大きな口で、ゆっくり話す。その言葉は通じたようで、女子高生ははっと周囲を見回して、ざあっと血の気が引いたように唇を戦慄(わなな)かせて手元のスマートフォンを操作し始めた。ミュートにでもしたのか、頭痛がするほどに響き渡っていた音割れが止む。


「ぉえんなあい、こぇんなはい」


 ヘッドフォンを外した女子高生は慌てて立ち上がって、ぺこぺこと俺や社内の客に対して頭を下げた。その濁った発音は、女子高生が一体どういう人物なのかを察させるには十分だったらしく、社内の客たちは若干気まずそうに視線を逸らして俯いた。


「ぉめんあはい」

「だいじょうぶ すわろう」


 すっかり気が動転してしまっている女子高生をなだめて座席に座らせて、俺も隣に座る。

 憔悴しきった顔でヘッドフォンを片付けている女子高生をぼんやりと横目に観察する。半袖のワイシャツに襟口が真四角の黒いベスト、タイリボン、そして膝丈のスカート。去年見た、(せめぐ)兄の彼女が着ていた制服と同じだ。

 やはり間違いない。


 彼女は聴覚障害者だ。


 と、ようやく動揺が落ち着いてきたのか、女子高生が胸ポケットから小さな機械、耳かけ補聴器を取り出して耳に装着した。そして鞄からメモ帳を取り出し、俺に向き直ってきた。


/うるさくてごめんなさいでした。教えてくれてありがとうございます/


 狐のような丸っこくてはっきりしている目鼻立ちに見合った、丸っこくも読みやすい字。

 俺も胸ポケットからポールペンを取り出して、メモ帳を借りて書き込む。


/気にしないで。ヘッドフォン、聞こえるの?/


 いつまでも隣で怯えられるのもアレだから、少し気さくな調子で話題を持ちかける。それがよかったか、女子高生は少しほっとしたように強張った表情を緩ませ、小さく首を横に振って肩口で切り揃えられた猫っ毛を揺らした。


/わからないです。耳に奥がすごいしびれているだけど、何が言っているはわからないです/


 ん、と少し怪訝に思った気持ちはとりあえず横に置いておいて、話を続ける。


/そうなんだ。高松市立聾学校だよね?/

/はい。高等部一年生です/

/俺、桜色高校の一年生。だから太田駅まで一緒/


 と、タイミングを図ったように発進のアナウンスが流れ、がこんと電車が動き出す。太田駅まではちょうど三十分。


/太田駅を出てまっすぐでしょ? 俺は反対側/

/そうです。くわしいですね!/

/俺のはとこ、高松市立聾学校の卒業生なんだ/


 俺の実家、九尾神社には両親や、俺と妹の兄妹以外に、はとこが居候していた。今は大学に進学して家を出ちゃったけれど、今年の春まではとこと一緒に住んでいた。

 そのはとこが、この女子高生と同じ聴覚障害者だったのだ。


/もしかしたら知ってるかも? 神社(かみやしろ)(せめぐ)って男/


 その名前を書いた瞬間の、女子高生の変化は劇的だった。それまでは若干の申し訳なさと怯え混じりの、けれど愛想笑いは決して絶やさない他人行儀な様子だったのが、一気に花開いたような笑顔になって俺に対する怯え混じりの視線が親近感に満ちたものに変わる。


/知ってます! 神社せんぱい! はとこですか?/

/うん。春まで一緒に住んでたよ。俺、神社護って言うんだ/

/わたしは音失(おとなき)おとせ言います/


 それからの女子高生──音失さんは、人が変わったように饒舌になった。文字で、だけれど。

 それによれば、鬩兄は聾学校みんなの憧れの存在であったらしい。クールでかっこよくて、音失さんも憧れていたそうだ。クールねえ。無愛想なだけだと思うけどね。


/とても優しくて、運動会とか文化祭とか、たくさん教えてくれました/

/もしかして好きだったの?/


 モテ男に対する若干の(ひが)み根性でちょっとだけ意地悪な質問をしてみたくなって、する。けれど、音失さんがそれはそれは恥ずかしそうに頬を染め上げたので、逆にこっちがダメージ喰らっただけだった。モテ男はこれだから。


/神社せんぱい、彼女いました/


 ああ、知ってる。鬩兄が九尾神社に時々連れてくるから。全くモテ男はこれだから。ちなみに、俺は彼女いない。わかってる? 悪かったな。


/そういえば、手話を使えるんです?/

「あー」


 思わず、声が出てしまった。

 確かに今年の春まで我が家には鬩兄がいた。けれど、鬩兄との会話に手話は一切使わなかった。

 鬩兄の彼女だって聴覚障害者だったけれど、話す時に手話は使わなかった。ある程度は聞き取れて読唇術にも長けていて、ほどほどに発音も綺麗だったから。手話が必要になる機会というのがなくて、覚えていない。


/使えない、ごめん/

/そうなんだ。しょうがないね/


 何がしょうがないのかはさておき、音失さんは少しも気にしていない様子で鬩兄は元気にしているのかと聞いてきた。

 鬩兄は県立讃岐(さぬき)大学に彼女と一緒に(畜生)進学して、バイト先に住み込みながら通学している。

 ──そうして結局、鬩兄に始まり鬩兄で終わってしまった会話で少しだけ親しくなった音失さんと一緒に電車を降りる。


/じゃあね/

/ありがとうございました。音、うるさくてごめんなさいでした。教えてくれてありがとう/


 律儀にも滝宮駅での事件を謝罪してきた音失さんに首を横に振りながら微笑んで、手のひらを向けて振る。その仕草に音失さんは花開いたように笑って手を振り返してくれた。

 それから俺たちは背を向けて真逆の方向に向けて歩き出す。


 ──これが俺、神社護と彼女、音失おとせとの出会いだった。

 そして、俺の狭い世界が広がるきっかけを得た瞬間でもあった。何も考えず高校に通い、小遣い稼ぎしては好きなものを買い、友だちとバカ騒ぎしては宿題に泣かされ塾に泣かされ、といった日々を送る俺が、真剣に将来を見据えて思考するようになるきっかけだった。




 ◆◇◆




/音失おとせって知ってる?/

/知ってる。確かお前と同い年だ。どうした?/


 憂鬱な登校日を乗り越え、滝宮に帰ってきた俺はリビングのソファに寝転がりながらスマートフォンのメッセージアプリを操作する。

 チャットの相手は、鬩兄。


/今日、たまたま知り合った。どんな子?/

/あまり知らないな……。僕が高等部の生徒会長をしていた時、彼女は中学部の書記だったからイベントの時に関わることはあったが、それ以外では関わっていない/

/ふーん。あの子、日本語ちょっとおかしかったから気になって/

/ああ、それか。珍しいことじゃない。先天性の聴覚障害児、特に聾唖(ろうあ)児は文法を理解するのに手間取る/


 文法。

 てにをは。

 確かに助詞が滅茶苦茶だったと、思い出す。


/お前、言葉の使い方どうやって学んだ?/

/どうやってって、普通に話してて/


 そこまで打ったところで、はたと気付く。

 俺たちは聞こえる。何もしなくても勝手に大人たちの会話が耳に入ってくる。テレビやラジオから声が流れてくる。眠っていても音が鼓膜を揺らす。

 言葉の使い方なんて、経年で自然と身に付くものだ。


 ──じゃあ、音失さんや鬩兄みたいな聞こえない人たちは?


/僕たちは〝見て〟学ぶしかないんだ。自主的に文字を、手話を、唇を、〝見る〟しかない/


 受動的にではなく、能動的にならねば。


/教科書とか小説とか、テレビだって今なら大抵の番組に字幕があるけど/

/聞くのと見るのとでは違う、というのはお前の方がよく知っているんじゃないか? 文章を見て、頭から丁寧に読むか?/


 返す言葉もなかった。

 頭から丁寧に再生させなければならない音と、一目で全文が視界に入る文字とでは違う。

 耳に入る音は拒めないが、視界に入れる文字は選べる。そうだ。俺だって小説は斜め読みするし、漫画も流し読みする。一文字一文字いちいち意識なんて、しない。意識せずとも一音一音勝手に入ってくる音とは違う。

 受動的に学べるのと、能動的にならねば学べないことの違い。


/そして、これがまた厄介なんだがな。活字嫌いの聴覚障害児が少なくない/


 活字嫌い。

 何故、と怪訝に思う。耳が聞こえないのであれば、文字は貴重な情報源のはずだ。


/そうだ。僕らにとっては文字が肝心だ。だから、読めと言われてきた。新聞を読め。本を読め。漫画は読むな。テレビばっかり見るな。聞こえないんだから読んでしっかり学べ/

「……あー」


 なるほどと、眉を顰める。


「まもにい? どうした?」

「ん? 何でもないよ(いくさ)……どうしたその恰好」


 小学六年生の妹、神社(かみやしろ)(いくさ)が泥だらけの上体中にオナモミを引っ付けてリビングに帰ってきていた。夕食の用意をしていたばあちゃんが慌てて戦に飛びつくのを眺めながら、ふと脳裏によぎった質問を投げかける。


「戦、お前手話できるか?」

「できないぞ」

「……だよなぁ」


 鬩兄も鬩兄の彼女も、手話を使わず俺たちと会話していたから、と言うと言い訳になるのだろうか。


「あ! おはようはわかるぞ! おはよう!!」

「今は夜だし、たぶん違う」


 握り拳を作って天に向けて突き立てた戦に冷めた声を返しながら、視線をスマートフォンに戻す。


/そんなんで社会に出た後困らないの?/

/学生のうちは日本語能力に乏しくても社会に出れば健常者との会話が増えて、否応なしにも文法の違和を自覚して修正する者が多いな。それを嫌って身内だけで固まる者もいるし、直さず助詞を使わずで会話する者もいる/


 自主的に学ぶか。

 閉鎖的に(こも)るか。

 変則的に穿(うが)つか。

 なるほど、生き方は人それぞれ。それに成人しても日本語能力に乏しい聴覚障害者ってのは昨今ではあまりいないようだ。技術の向上により超早期教育が可能になり、先天性の聴覚障害児は六ヶ月前後から聞き取り訓練と言語習得を始めるらしい。


/生き方といえばさ、今日も思ったんだけど。音失さんといい、聾学校の生徒って愛想笑い多いよな/


 鬩兄がまだ高等部にいたころ、一度だけ文化祭に遊びに行ったことがある。その時に場所を訊こうと聾学校の生徒に声を掛けて、今日の音失さんと同じような反応を返されたのだ。

 怯えたような目で。

 へらりと笑って。

 誤魔化すように、首を傾げて。あるいは、頷いて。

 その後、展示物が掲示されている教室で顔を合わせた生徒たちも(ことごと)く、怯えた目で笑いながら逃げようとした。近くにいる先生に、助けを求めるように視線で縋っていた。


/愛想の悪いばあさんと、愛想のいいばあさん。交差点で立ち往生しているふたりのばあさんのうち、どっちを助けたくなる?/


 鬩兄から返された言葉は、やはり俺に思考させるのに十分すぎるほど的確なものだった。


/僕はまあ、この通り無愛想だし例外だが……聴覚障害者に関わらず、社会的弱者と見做される立場の者たちは笑顔を身に付ける。……いや、()()()()()()()()()、か/


 愛想がいい方が、助けてもらえるから。

 愛想がいい方が、敵視されにくいから。


「…………」


 鬩兄に、何も返せなかった。

 返せるわけがなかった。ただの世間話のつもりで投げかけた出来事のひとつひとつが、あまりにも胸に刺さる。

 鬩兄は何でもそつなくこなすし、みんなから信頼されていて、俺だってモテ男に僻んではいるけれどなんだかんだ鬩兄は憧れだ。

 だから、気付かなかった。

 ──いや。()()()()()()、だ。


 〝耳が聞こえない〟の、意味を。


/お前がこういうのに興味を持つのは珍しいな。おとせちゃんだったか? 探せば写真あると思うが、いるか?/

/いらねー/


 そんなんじゃねえ。ただ、鬩兄や鬩兄の彼女とは違うタイプの聴覚障害者だったから、ちょっと気になっただけで。


/お前と戦だって真逆のタイプじゃないか。わからなければわからないなりに、わからないまま付き合っていけばいい。最初からわかるわけがないからな。わかろうとする努力を怠らなければいい/

「…………」


 むう、と無意識のうちに尖った口をそのままに鬩兄とのチャットを打ち切って、ひょいっとソファから起き上がってリモコンを操作する。

 衛星放送で〝ピースメイン〟の再放送があることを番組表で見かけていたので、何となくそれにチャンネルを合わせた。ばあちゃんにオナモミごと服を引っぺがされていた戦がおお、と声を上げる。


「なつかしい。ありったけのーゆーめをー」


 主人公である海洋冒険家の少年が敵の赤い鼻をした道化師と戦っているシーンをバックミュージックに、戦が高らかにオープニング曲を歌い出す。

 まさに今日、音失さんが爆裂音割れかましていた曲、We are!だ。これを聞いていた(聞こえてないけど)ってことは〝ピースメイン〟が好きなのかなと、ぼんやり考えつつ気付けば俺の指はスマートフォンの画面を滑って検索ボタンを押していた。




 ◆◇◆




「ぁ、おあおぅ」

「……おはよう、音失さん」


 翌朝、滝宮駅ホームの片隅で音失さんが地面にしゃがみこんでぎいぎいと音割れを響かせていた。昨日に比べると音はずっと控えめだけれど、あれだけの爆音をかましていたんだ。ヘッドフォンがイカれでもしたのかもしれない。

 電車が発車するまで十分以上。車内でくつろいでいる客はいるけれど、ホームには誰もいない。当然だ。なんせ今は真夏。夏真っ盛りである──エアコンの効いた車内と違い、ここはクソ熱い。蒸し暑い。うだるような熱気でじっとしているだけで汗が噴き出る。


「おと われてる」

「われ……?」


 とんとん、と音失さんのヘッドフォンを指差して音割れを指摘したけれど、意味が分かっていないのか音失さんはきょとんとしている。けれど、音が外部に漏れていることはなんとなく伝わったらしい。昨日と同じようにスマートフォンを操作してミュートにし、ヘッドフォンを仕舞い始めた。

 それから音失さんと並んで涼しい車内に入り、冷やされる汗に心地よさを感じながら音失さんがメモ帳を取り出すのを待つ。


/音、出ていましたか?/

/出ていたってか、音割れしていた/

/音割れ? 音を割れるですか?/


 改めて聞かれて、どう説明したものかとちょっと考える。音割れとはスピーカーやヘッドフォンなどのアンプが出力できる限界音量を超えた時に発生する現象だ。──でも、ぶっちゃけよく仕組みをわかっていない。ただなんとなく、限界を超えた大きな音は割れる。そう理解しているだけだ。

 だが心配無用。こういう時のためのスマートフォンだ。


/音は振動ってのはわかる?/

/理科で習いました。こまく、空気振動で音の受け取る/

/そうそう。その空気振動を作るためにこう、動いている機械があるんだって/


 握り拳を作って上下にしゃかしゃか振る仕草に、音失さんはうんうんと興味深げに頷く。狐のようなまん丸の目が、じいっと俺の手を見つめている。手元に引き戻せば、視線も一緒に動く。

 ──日本語は少しおかしいけれど、この子は俺の話をまっすぐ聞く子だ。


/動ける範囲には限界があるから、その限界を超えるとこう、他のところにぶつかっちゃう/

「あぁあー」


 なるべくわかりやすいように、と気を付けた甲斐あってか音失さんはものすごく合点が付いたような顔でこくこくと何回も頷いた。

 電気信号によって音を出す場合とかだと電子回路の限界電圧を超えると音割れするらしいし、音割れとひと口に言ってもいろいろあるみたいだ。何気に勉強になった。


/んでね、たぶんそのヘッドフォン壊れてる/

「えぇう?」

/そのヘッドフォンずいぶん古いみたいだし、たぶん昨日の音割れでどこか壊れちゃったんじゃないかな。あるいは、元々壊れてたとか/

「あぅ」


 壊れているという事実はショックだったのか、音失さんはしょんぼりとヘッドフォンの入ったケースを見下ろす。あー、とかうー、とか悔しげな唸り声を上げながらケースをくるくる手元で弄び、やがて諦めたように鞄の奥深くに仕舞い込んだ。


/兄のいらないヘッドフォンでした。ラッキー! って、思っていたなのに残念です/

/そうなんだ。新しいのを買わないの? 今なら安くていいのもいろいろあるよ/

/笑われるです/


 うー、と狐のような目を、それこそ狐のように細めて音失さんは不満そうに唸る。

 笑われるって誰に、と問うてみれば家族に、と返ってきた。どういうことなのかと思ったら、聞こえないのにヘッドフォン買ってどうするんだって笑われたとのことだった。お古のヘッドフォンをもらおうとした時、聞こえないのに? って言われて手を引っ込めてしまったんだそうだ。そのあと、ゴミ袋の中からこっそり回収したと音失さんはメモ帳につらつら書き連ねる。


 聞こえないのに。


 ──俺も、昨日思ったことだ。聞こえないのにヘッドフォンする意味はあるのか、って。

 ──……でも、笑うのは。


/わたしは音楽が興味あるですが、馬鹿にするです/


 そう書きながらむぅ、と唇を尖らせる音失さんの様子に、一瞬だけ脳をよぎった悲惨な家庭環境を考え直す。これは音失さんがないがしろにされているというよりは、単純に馬鹿にされているだけのようだ。からかわれているというか、イジられているのだろうと思う。


 無自覚の悪意。

 害意なき悪意。

 他意なき悪意。


 ──ただのいじりのつもりで口にしたそれは、鋭利な刃となって決して癒えぬ傷跡を作る。


/それ、すっげーわかる。俺、ぬいぐるみ好きだけど笑われるから。男なのにって/


 だからゲットしたぬいぐるみはいつも、妹のスペースに押し込んでいる。別に俺の家族は笑わないけれど、ダチが来た時に笑われるから。

 同じ次元にしちゃっていいのかどうかわからなかったけれど、でも気持ちはわかったから。

 そして幸いなことに、音失さんには通じたらしい。ぬいぐるみ好きなのはおかしくなんかないと、気にしなくていいと、自分はおかしいと思わないと、必死になって励ましてくれた。あんまりにも必死にフォローしてくるものだからつい噴き出すように笑顔になってしまって、礼を言ってから音失さんが音に興味を持つこともおかしくないと書き連ねる。

 俺の言葉に音失さんはほんの少しだけ目を揺らして、安心したように笑ってくれた。


/ぬいぐるみ、どんなの好き?/

/きつね/


 俺の実家である九尾(くお)神社の本尊さまは〝椿狐(つばきつね)〟という九尾(きゅうび)のお狐様だから、その影響で。椿の精霊である椿狐さまは八本の朱尾(あけのお)と一本の金尾(こがねのお)を持つとされている。ぬいぐるみだって知り合いにお願いして作ってもらったのが飾ってある。これがまたカワイイ。


/きつね! かわいいです。わたし、犬好きです/


 にこにこ笑う音失さんとメモ帳を通して談笑しつつ、ちらりと音失さんの文章に意識を向ける。てにをはの使い方をよくわかっていないにせよ、何を言いたいかはわかる。語彙量もそう多くないように思うけれど、どうなんだろう。


/好きといえば、ピースメイン好きなの? 昨日聞いていた曲、We are!でしょ?/

/はい! 大好き! 小さい時からマンガ、読んでます!/


 晴れやかな笑顔。昨日見た、怯えた目の愛想笑いよりもやっぱり、自然な笑顔の方が可愛い。見ていて安心できるし。昨日の、あの怯えた笑顔は胸に来る。


/ピースメイン、俺も小さい時アニメ見ていた。漫画は空の城に行くあたりまで読んだかな/


 〝ピースメイン〟というのは俺が生まれる前から週刊誌で連載している少年漫画で、俺は途中で読まなくなっちゃったんだけれど今現在も連載していて、世界的な人気を誇る少年漫画の金字塔だ。主人公は十七歳の少年で、世界の謎を追い求めて冒険家となり、仲間を得ながら世界を飛び回るストーリーになっている。


/もう読んでない?/

/ううん。昨日から電子書籍で続き読み始めたとこ。一気に読むと面白くて、続き読みたくてもう全巻買っちゃうかお小遣いとにらめっこしてるところ/


 うん。週刊誌で追い掛けていたころは展開の遅さにダレてしまっていたけれど、コミックスで一気に読むと無駄な展開がひとつたりとてなくてすらすら読めて、すっげぇ面白い。

 ──と、ピースメインについて話していたところでメモ帳を使い切ってしまった。いつの間にかこんなに話していたのか、と俺たちの会話で埋め尽くされてしまったメモ帳に感慨深さを覚えつつ、慌てて紙を取り出そうとする音失さんを制する。


/スマホ、このアプリある?/


 スマートフォンのメッセージアプリ。メール代わりにもチャット代わりにもなる現代人の必需品──その上、鬩兄はこれを使って筆談することもあると言っていた。


 だから、何も考えず誘ってしまった。

 断っておくと、俺に他意は一切ない。やましい気持ちはひと欠片たりとてない。連絡先をゲットとか変なこと考えていない。メモ帳は浪費しちゃうから、これだったら便利だって、思っただけで!


 ひとり自分のやってしまったことにだらだら冷や汗を流していると、逆にそんなことを考えている自分が恥ずかしくなってしまうほどあっさりと、本当にあっさりと音失さんは笑顔でメッセージアプリで繋がるための自分の連絡先を教えてくれた。


/できた?/

/OK。鬩兄がコレを筆談代わりにすることもあるって言っていたのを思い出したんだ/

/神社せんぱい!/


 あ、鬩兄のこと話さなきゃよかった──そう僻んじゃうくらい、音失さんが嬉しそうな笑顔になる。ホント、モテる男はいいですねぇ鬩兄さん!


/俺も神社なんだけどね/

/あっ、そうか。じゃあ、守るさん?/

/護ね護/


 スマートフォンならではの誤字に突っ込みつつ、そういえば音失さんに名前を呼ばれ──書かれる……打たれる……スワイプ、される? まあ何でもいいや。名前を呼ばれるのは初めてだ。


/護さん!/

/はーい。音失さん/


 隣にいるのにスマートフォン越しに会話する、というのはなんとも妙な気分だ。けれど、悪くない。スマートフォンで文を打っては顔を見合わせて笑い合うのは、悪くない。


/音失さん、ピースメインではどのエピソードが好きなの?/

/エンド・ドアーズ編! 水の宮殿編からエンド・ドアーズ編、好き!/

/あ、ちょうど水の宮殿に入ったところまで読んだ。じゃあ、エンド・ドアーズ編の終わりまでは読んでみる/

/おもしろいよ! わたし、ハトッポの好き!/


 ハトッポ。確か、水の宮殿編にも登場したクールで無口でカッコいい職人だ。……それも、だ。なんとなく、鬩兄に似ている。

 ……くっ! モテ男はこれだから!


/じゃ、読んだらメッセする/

/うん! 待ってるます!/ /待っています!/


 訂正のつもりであろうそのひとことを締め括りに、太田駅に到着した電車から俺たちは降りて、昨日と同じように手を振り合って別れる。

 音失さんは、昨日よりもずっと輝くような、花開いた笑顔で手を振っていた。




 ……明日も、会えるだろうか。




 【わたしたちはここにいる】

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