シラヌイとサクラ
「おじさんは、人を殺したことがある?」
少女は、そう男に問いかけた。
薄暗く、かび臭い。四畳半ほどの小さな部屋。
何年も前に主を失った廃屋の一室に身を潜めながら、男は少女の問いかけに思考を巡らせる。
夏のムッとした空気が、男の体を包み込んでいた。
まとわりつく空気は幼き日の彼を抱きしめてくれた母親のように温かく、それでいて煩わしい。
逃れたくても逃れることのできないもどかしさがあった。
「どうだっただろうな……」
男は返事をそれだけにとどめた。
「わたしはあるよ」
少女はそう言った。
だろうな、と男はズボンのポケットから煙草を出して咥える。
そうすると、心が安らぎを覚えた。
それはまるで、幼子の頃に母の乳房を咥えている時のような……。
「わたし、煙草嫌い。煙草を吸うのって、幼児退行の一種なんだって。赤ちゃんの頃にお母さんのおっぱいを吸ってた名残らしいよ」
「…………そうかい」
煙草に火をつけようと手にしていたライターを、男は少女の方へと投げ捨てた。
少女はそれを拾うと、男の方へと投げ返す。
「吸えば? お母さんのおっぱいを吸うみたいにちゅーちゅーって」
「煙草はそんな擬音で吸うものじゃねぇよ」
男は煙草とライターを乱暴にポケットへ押し込んだ。
床に寝転がり、天井を見つめる。
すると、天井の木目もまた男を見つめていた。
真っ黒な目がぎょろぎょろと動いて、まるで心の中まで見透かそうとしているように、マジマジと男を見下ろしていた。
これからどうするつもりだ、と問われているようだと男は感じた。
天井の木目から目を逸らす。
それが問いに対する男の答えだった。
そして、目を逸らした先。
ワンピースの先から伸びた少女の細く美しい足がぷらぷらと揺れている。
少女はソファに寝転がっていた。
「なぁに、おじさん。わたしの足を舐めたいの?」
「そんなことするか」
「じゃあ、もっと別の所を舐めたいの?」
少女は片足をまっすぐ上に伸ばした。
白いワンピースの裾がたらりと下がり、白く美しい太ももを露わにする。
さらにその奥へ、男の視線は吸い込まれそうになった。
「なーんて、言ってみたり。あれっ? もしかしておじさん、本気にしちゃった? ダメだよ、未成年相手に欲情しちゃ。うちのお父さんみたいに殺されちゃうよ?」
「…………さっさと寝ろ、不良娘。早朝にはここを出る」
「はぁーい」
男は少女からも目を逸らして、ゆっくりと瞳を閉じる。
瞼に焼き付いた少女の太ももの幻影が、闇の中にいつまでもこびりついていた。
それはやがて、男がかつて愛した女の姿へと重なってゆく。
※
私が人の死を美しいと感じたのは、母が心疾患でこの世を去った時の事だった。
事切れた母の口元から人工呼吸器が外されると、母は安らかな表情だった。
ともすれば、ほんの一秒後に瞼が開いても不思議ではないほどだった。
母は決して美人ではなかった。
背は高くなく、歳を取るごとに猫背にもなって、顔には深い皺が何本も刻まれていた。
それでも美しかった。
母が生きてきた日々。
人生の終わり。
有終の美というものはこのことかと、私は人目をはばからずに涙した。
その涙は母を失った悲しみによるものでは、なかった。
人の死に魅せられたのは、その時からだ。
以降、私はインターネットを使い幾度となく人の死を目撃した。
電脳の宇宙には人の生と死が溢れている。
様々な死に方があった。
幸せの中で逝く者が居れば、絶望の中で逝く者もあった。
その誰もが、美しかった。
その美しさを私だけの物にしたい。
そういった独占欲が私の心に住み始めたのは、ある種の必然だったのだろう。
電脳世界に溢れる人の死は、私だけの物ではない。
同じく電脳の宇宙に漂う、不特定多数の人間もまた、その死を見ることができるのだ。
私はそれを許せないと感じるようになっていた。
私だけの死。私だけが成すことのできる理想の死。私だけが愛すことのできる死。
私はいつしか、それを求めるようになっていた。
その頃、私は妻とあまり上手くいっていなかった。
日常生活ではすれ違いが続き、同じ屋根の下で暮らしているのに、会話を交わすことがない。
私と妻は同じ屋根の下に暮らす隣人だった。
出逢った頃の情熱も、愛情も、私たちは互いにどこかへ忘れてきてしまったのだ。
私たちが子宝に恵まれなかったのも、その一因となっただろうか。
私の中に妻への愛情が戻って来ることはないと思われた。
人の死に魅入られ、それしか愛せなくなっていた私が、いったいどうしてまた妻を愛することが出来ただろう。
しかし、私はまた妻を愛することができた。
情熱的に、激しく、それでいて愛おしく。
忘却されてしまったかと思われた愛情を、その全てを私は妻に注いだ。
妻はそれを何も言わずに受け止めた。
抵抗することもなく、私の全てを受け入れた。
美しかった。
その瞬間の妻は、この世の何物にも代えがたい美しさがあった。
その美しさは尊く、気品に溢れ、幼き日に富士の山から見た初日の出をも霞ませる感動を私に覚えさせたのだ。
私はこれ以上の美しさに出逢うことは二度とないと、そう確信した。
だが、私は気づいてしまった。
妻の美しさはほんの数刻のものだと。
永遠の美しさではなく、刹那の美しさであると。
だからこそ美しく、儚いのだと。
私の愛情を、いつまでも満たしてはくれないのだと。
私は探求するようになった。
永遠の美しさを。
私の愛をいつまでも受け入れてくれる美しさを。
様々な文献を読み漁り、様々な方法を試した。
何度も何度も繰り返し、それでもダメだった。
美しさは刹那の内に劣化して、もう二度とは戻らなかった。
限界だと知り、不可能だと思い至った。
私の求める美しさに永遠はなく、私の愛を受け入れ続けてくれる美しさもまた、存在しえないのだ。
※
太陽は眩しかった。
容赦なく降り注ぐ夏の鋭利な日差しが、私の肌を焼いている。夏の音を支配するセミの鳴き声は、壊れたラジカセのように何度も何度も繰り返されていた。
廃屋を出てから、三度の月を見た。
初めの晩は半分ほどしかなかった月は、昨晩には三分の二ほどの大きさになっていた。
徐々に大きくなっていく月が、私を監視する瞳のように思え、夜は草葉の陰に身を潜めるようにして眠るのが常だった。
廃屋から山へと入って以降、私たちはろくな食事を摂っていなかった。
森の中にある木の実や、木の根元に生えているキノコを、口にしては吐き出していた。
喉の渇きもまた、山中の泥水で何とかしのげている現状だった。
「よくやるよね、おじさん。そこまでして、生きたいの?」
「…………………………」
少女の問いに、私は返答することができなかった。
「生きるだけなら、警察に捕まれば良いと思うけど。牢屋の中なら、寝床もあるし、ご飯だってちゃんと出るのに」
「…………………………」
少女の言う通りである。
私は生きたいと思っているわけではなかった。
さりとて、こんな山中で野垂れ死ぬことを望んでいるわけでもなかった。
「黙って歩け」
それだけ言って、私は山中を進んだ。
どこかを目指すわけでもなく、闇雲な道程だった。
少女は私の後に続いて歩く。
廃屋に身を潜めていた以前から、彼女は親鳥を追って歩くアヒルの雛のように、私の背中を追いかけてきた。
少女は名をサクラと名乗った。
彼女はそれが姓であるか名であるかまで言わなかったし、私も彼女をサクラと呼びはしなかった。
けれど、彼女は私と行動を共にし、私もまた彼女を疎んじることもなかった。
私たちの間には、見えない糸のようなものが存在していた。
磁石のようにくっつきはせず、それでいて、離れすぎることもない。
そのような、あやふやな関係だった。
山中を進むにつれ、行く道は段々と険しくなっていった。
まるで山そのものが私の侵入を拒んでいるようだった。
大きな岩が転がる急勾配を這いつくばりながら登る私の姿は、屍に群がるウジ虫のように、傍から見れば醜く惨めだっただろう。
「おじさんは、奥さんを殺した時、どんな気持ちになった?」
唐突に、少女は言った。
水に飢え、喉がヒクヒクと水を求める。
周囲に目を配っても水分にありつけそうなものはなく、ただ闇雲に山の奥へと向かっていた時のことだった。
私は少女に振り返った。
サクラはいつもと変わらぬ曖昧な笑みを浮かべて、私の返事を待ち構えている。
私は言葉を選ばなかった。
彼女の問いは私の心の奥底まで浸透し、わたしにありのままの感想を述べさせたのだ。
「美しいと思った。そしてすぐ、物悲しくなった。美しさは永遠ではないのだと知ってね」
「どうして、永遠じゃないの?」
「人は死ねば、腐るからさ」
妻の死体は、一日も経たずに腐り始めた。
美しい姿は、見るに堪えない醜い姿となって、耐えられない悪臭を放ち始めた。
美しさが終わりを迎えたのだ。
「腐れば、美しくないの?」
「美しくない。この世に永遠の美しさなど、存在はしないんだ」
歴史に名を残すどのような美女でも、時が経ち歳を取れば老いていくように。
美しさがずっと保たれることはない。
それがこの世の摂理なのだ。
※
闇夜は暗く、満月は明るかった。
静寂の闇からフクロウの声が届き、地面に落ちた枝が時折ポキリと音を鳴らす。
山中で私は大きな木の幹に背を預けていた。
動物たちの生きる音が聞こえるたび、私はここに一人ではないと安心感を覚えるようになっていた。
私はこの場に一日以上留まっていた。
二日前に大雨があった。
喉の渇きに恵みを与えてくれた大雨は、同時に地面にぬかるみを幾つも作った。
その内の一つに足を掴まれ、私は山の斜面を転がり落ちてしまったのだ。
全身が鈍い痛みに苛まれ、特に右足が酷く腫れあがっていた。
私はろくに歩けなくなってしまった。
どこへ向かうでもない道程は、ここで終焉を迎えようとしている。
私はこのまま、ここで死んでしまうだろう。
誰にも看取られることはなく、誰にも知られないままに。
寂しい最後だ。
悲しい終わり方だ。
私は死の美しさに魅入られ、幾つもの死の美しさを目の当たりにし、堪能してきた。
そんな私が、こんな所で野垂れ死にするとは、滑稽としか言いようがないだろう。
……いや、むしろ、私にはお似合いかもしれない。
私はここで死に、腐って骨となり、やがて土へと還るのだ。
「おじさん」
ふと、声がした。
少女の声にわたしはハッとする。
ガサゴソと近くの草木が揺れていた。
「サクラか……? どこだ、どこにいる……?」
私の問いかけに返事はなかった。
ガサゴソと音は続き、やがて草木の陰から巨大な影が現れた。
満月の光が、焦げ茶色の毛並みを映し出す。
四足歩行でノシノシ歩くそいつは、ゆっくりと私に接近した。
鼻を突くような獣臭さ。
異様な巨体は、その鼻先を私の体に押し付けるように近づける。
私は死というものをより近くに、より強く実感した。
そして恐怖した。
死とはこれほどまでに恐ろしいものなのだと、私は今まで気づくことができていなかったのだ。
どうしようもない恐怖が肌を切り裂く。
私が全身の奥底から叫び声を上げていた。
髪を掻きむしり、涙を流し、鼻水を垂らし、唾液を飛ばしながら。
闇夜に私の叫び声が、響き続けた。
※
夜が明けた。
私は生きていた。
静寂を割くように、山中に小鳥の啼き声が木霊する。
水気を含んだ空気が肺を潤し、喉に優しく寄り添った。
木々は霞みの向こうにうっすらと輪郭を表し、それらはかつて私が美しさを愛した者たちが見守ってくれているような、そんな安心感を私にもたらした。
土を握りしめると、ほのかな湿り気と冷たさが私に生を伝えた。
お前は生きていると、そう言っているようだった。
私は今を生きている。
私の人生においてそれを今ほど実感した瞬間は存在しない。
私はズボンのポケットから、一本の煙草を取り出した。
口に咥えて火をつける。
ゆっくりと息を吐くと、煙は母のような温かさで私を包み込んだ。
サクラの言う通りだった。
私は煙草を咥えている間、ずっと母の乳房に吸い付いていた赤ん坊の頃を思い出し、安堵の海に身を揺蕩えていた。
広がった煙が、母の幻影を映し出す。
その姿は徐々に妻へと移り変わり、やがてサクラへと形を変え、また母へと回帰した。
一陣の風が吹く。
女たちの姿を映していた煙は、それに乗って霞みの中へと溶けていった。
私を残して、消えて行った。
「おじさん」
声がした。
サクラが私の前に立っていた。
「行こうよ、おじさん。こっちだよ」
サクラは私に背を向けて、霞みの中へと進んでいく。
「待ってくれ、サクラ……っ」
私はサクラの後を追った。
右足を引きずりながら、何度も転び、もがくようにして、残された体の力を使い尽くさんと、必死に少女の背中を追い続けた。
近づきもせず、離れもせず、サクラは時々振り返って、私に微笑みを浮かべた。
その笑みは必死に彼女を追う私を慈しんでいるようであった。
サクラの姿を追う内に、私は草木が開けた場所に出ていた。
そこは山の中にポツリと空いた自然の広場で、その中央には何かがあった。
木々の匂いに交じって鼻を突くのは、生き物が腐って行く臭いだ。
広場に転がっていたのは、何の動物かもわからなくなってしまった生き物の屍だった。
それを目の当たりにした私は、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
頭を金槌で殴られたような衝撃が襲い、全身が泥水の中に沈んだような息苦しさと圧迫感を覚えた。
私は、忌避していたはずの美しさを失わせる腐敗に、感動していたのだ。
脳裏に刻まれた昨夜の出来事が鮮明に思い出される。
獣が間近へと迫り、私は死の恐怖を知った。
夜が明け、私は生の素晴らしさを実感した。
死と生を近くに感じ、そして知ることとなった私は自分の愚かさを、目の前の屍によって、気づかされたのだ。
永遠の美しさは存在している……否、循環しているのである。
全ての生き物は等しく死を迎え、その亡骸はこの世界に摂理に則って腐敗する。
私はそこしか見ていなかった。
しかし、本当に見るべきはその後だったのだ。
屍はやがて腐り、骨となる。
その骨もまた微生物に分解され、やがて土へと還っていく。
その土は自然を育み、やがて生物を育むのだ。
命は循環し、この世界を巡る。
魂はこの世界に溶けて入り混じり、やがてまた新しい生命の魂となって蘇るのだ。
これを美しいと言わずして、何を美しいと言うのか。
これは死の美しさだ。それと表裏一体の生の美しさだ。
この世界は死と生――その転生の美に溢れているのだ。
私は笑った。
心の底から、歓喜に打ちひしがれた。
私の中にあった何かが氷のように解けだし、雪解け水のように私の目から零れ落ちた。
私の人生の中で最も笑い、最も泣いた瞬間だった。
私は、この瞬間を、この感動を得るためにここまで来たのだ。
サクラが言っていたように、生きるだけなら警察なり何なりに行けば良かったのだ。
死ぬだけなら、適当な道端で野垂れ死にすれば良かったのだ。
生きるだけではない。
死ぬだけではない。
生を実感し、死を間近に感じたからこそ、私はこの瞬間を迎えることが出来たのである。
パチパチパチと、拍手の音がした。
サクラだった。
彼女が、私を祝福してくれているのだった。
「おめでとう、おじさん。あと少しだよ」
「あぁ…………」
サクラは再び歩き出した。
私も彼女を追って歩き出した。
彼女がこれからどこへ向かうのか。
私をどこへ誘おうとしているのか。
私には、全てがわかっていた。
※
陽が暮れてからも、サクラは歩き続けた。
私もその背中を追い続けた。
幾つもの尾根を越え、幾つもの川を渡った。
そうして私は、潮の香りを鼻に感じ、波の音を耳にした。
そこは私が生まれ育った八代の海だった。
「こっちだよ、おじさん」
サクラの声に振り向く。
そこには、満開に咲き誇る桜の木があった。
サクラはその木の根元に腰を下ろし、ポンポンと傍らの地面を叩いてみせた。
私は桜の木の元へ行き、サクラの隣に腰を下ろす。
ふらふらと舞う桜吹雪は、私たちの来訪を喜ぶように、踊っていた。
海の向こうに浮かぶイカ釣り漁船の灯火が見えた。
その不知火はまるで、私の行く道を照らし出しているようだった。
私はその送り火に涙した。
「もう、思い残すことはない?」
「あぁ……」
少女の問いに、私は肯く。
桜の温かさに包まれ、生まれ故郷の海が私を導いてくれてる。
この世の誰よりも私は幸せだった。
これから私は――私もまた死と生が繰り返される永遠の循環へと旅立つのだ。
思い残すことなど…………。
「……私と、旅立ってくれるか……?」
「…………」
少女は何も言わず、その姿は霞みのように溶け消えた。
一人残された私は、ゆっくりと瞳を閉じたのだった。
※
「昨日正午ごろ、熊本県八代市の山中で、男性の遺体が発見されました。遺体には動物に食い荒らされた跡があることから、警察は男性が山中でクマに襲われたとして調査を行うとともに、二日前に近くの廃屋で発見された少女の遺体からこの男性のものと思われるDNAが検出されたことを受け、その因果関係を調べています」
本作は2016年1月に執筆した作品です。
供養のため公開。




