彼女は落下する
リスリーの攻撃を避ける事すらしなかったのは、それによって後手に回ってしまう事を避けたかったからだ。自らと相手との最短距離から外れる事は、すなわち敗北であると覚悟していた。どうせ死ぬ事はないだろうとタカをくくって、リスリーの動揺を誘うためにわざと攻撃を受けた。
おそらくそれが功をそうしたのだろう。本来であれば指先すらも触れる事の叶わない圧倒的強者を、まさか抱き寄せる事ができたのだ。背中に腕を回し、肩と腰を固定した。
そして、全体重を背後にかける。
レアは現在、屋上をグルリと囲む鉄柵を背負って立っている。その鉄柵があったからレアは初撃を受けて落ちてしまわなかった。しかし、この瞬間においては間違いなく邪魔な存在だった。だから、レアは魔導具によって強化された力で呆気なく破壊してしまう。
「私の勝ちです」
そう言葉にして、レアはリスリーを抱きすくめたまま落下する。
体にかかる浮遊感が気持ち悪い。内臓が浮き上がっている。しかし、レアはそんな事を気にするつもりはなかった。そんな事よりも、リスリーにしがみつく事の方がよっぽど重要だったためだ。
「貴女おかしくなったの!?」
周りを支配する風音に負けないくらいの大声で、リスリーはレアを怒鳴りつけた。当然だ。彼女から見ればその行為は自死に他ならず、正常な判断によってでは決して選ばないだろう行為なのだから。
果たして、レアは勝てるだろうか。ともすれば、勝てないのではないか。そう感じ、ライラとリリアは顔を見合わせる。
「……大丈夫ですわ」
「はい……絶対です」
それは、互いを励ますと同時に自らに言い聞かせる言葉だ。
お世辞にも魔法が得意などとは言えないレアだ。力尽くで誰かを連れて来るというこの勝負自体が既に不利なのだ。一対一での正面戦闘において、この学園にレアに劣る生徒は一人もいない。
しかし、それでもどうにかするだろうという確信があった。互いにそれを言葉に出し、相手もそう思っているのだと確認する。自らも、そして信頼する友人も同じ事を思っているのだと、わずかながら安堵を覚えた。
「何が大丈夫なのでしょう」
二人に、嘲笑の声がかかる。
「本当にレア・スピエルが戻って来られるなどと、そんな夢物語を信じているのかしら?」
「…………」
「幼い子女じゃあるまいし、そんなおとぎ話を信じるのはおやめなさいな」
ハンナは、信じている。それは目を見ればわかる。レアではハンナの“答え”に勝てっこないと、心の底から思っているのだ。通りで、自信のある態度を見せるわけだ。どうあがいても勝つ事などできないという事実を知っていたのだ。勝負を開始から、動揺する事はあっても勝利を疑った瞬間などなかったのだろう。
「に、しても、このままずっと待っているわけにはいかないわよね?」
ナターシャが、困ったように首をかしげる。そこに他意はなく、完全に司会進行としての役割を全うしようという意思だ。師の養女であるという情も、同じ代表会員としての情けも感じられない。レアは負ければもう代表会員をやめなくてはならないというのに、その事の心配は一切存在しないようだ。
「ずっとこのままじっと待ってるのも、お客様はつまらないわよね? せっかくの公開祭なのに、代表会の出し物がこれではいけないわ」
「そ、そんな事はありませんわ!」
「ええ! 待ってる時間だって手に汗握りますよ!」
ライラとリリアが、必死に説得しようとする。此度の勝負において、レアには少なからず策があるはずなのだ。レア・スピエルという少女は、無策で行き当たりばったりな事をするような人物ではないと信頼していた。
しかし、その策も機能させられないのなら意味はない。レアに一体どのような考えがあるのかなど二人には見当もつかないが、少なくとも瞬く間に勝利してしまえるようなものではないはずだ。
「ダメよ。だって、二人に合わせて他のお客様を蔑ろにするわけにはいかないし、このまま制限時間がないなんて公平性に欠けるもの。レアちゃんが好きなだけ探していられるなんて、勝負として面白くないわ」
「うぅ……」
ぐうの音も出ないとは、この事だった。何一つ言い返す余地のない反論だ。事実、周りを見れば観客がつまらなそうにあくびをしているのが見てとれる。
「じゃあ、今から十分としましょう。十分以内にレアちゃんが帰ってこられない場合、私が手尽から連れ戻しに行くわ」
校内全域に声を届けられる魔導具で話された内容は、レアにも届いたはずだ。これにより、時間を超過する言い訳の一切ができなくなった。
「いい気分だわ」
ハンナは笑う。自らの勝利を確信して。レアがハンナの“答え”を連れてこられない以上、ハンナはゆっくりと“答え”探しをすればいい。極論、全校生徒を一人ずつ宣言しても勝てるのだ。何日掛けようとも、ハンナは決して負けはしない。
そのはず、なのだ。
そのはず——だったのだ。
「十分、待つと意外に長……」
第八属性:丁—五等級《飛翔空駆》
ハンナのその言葉は、最後まで発せられなかった。遮られたわけでなく、息を飲んだのだ。その場に現れた人物は、ハンナにとってあってはならないものだった。
「リスリー……様」
天才リスリー・ペル・イスマイル。間違いなく、ハンナの“答え”である。
彼女は、空から舞い降りた。フワリと、まるで鳥人のように。しかし翼が生えているわけではない。五等級という非常に高位の魔法によって、宙を舞ったのだ。
そして何より、無視できない事が一つだけあった。リスリーの腕に抱かれるようにして、さらにリスリーに縋り付くようにして、レア・スピエルがそこにいたのだ。
壇上から明らかに見える位置に、レアとハンナの“答え”であるリスリーが現れた。この意味は明白であり、次にレアが言葉を発するよりも早くハンナの膝は崩れ落ちた。
「回答は、リスリー・ペル・イスマイルさんです」
初めから、そのつもりだった。
リスリーの意識を奪う事などレアにできるはずもないし、意識がある状態で連れて行くのはもっと無理だろうとも思われた。だから、賭けになる事を承知でこの戦闘を運んでいた。
そもそもからして、レアが魔力干渉に特化してきた事自体が布石だ。遠距離戦になれば一切の対抗ができなくなるため、相手がそれを嫌厭するような要素を仕込む必要があった。なにせ、相手と近距離戦を仕掛けなくてはならないというのに、自分から近づいては意味がないのだ。
たった一つだけ思い付いた勝機をもとめるため、そのための布石を打たなくてはならなかった。
まずはじめに必要だったのは、立ち位置の調整だ。レアが屋上にいたその位置では、レアの勝機は全くなかった。だから近距離での戦闘を仕掛け、隙をついて立ち位置を入れ替わった。あたかも必死に逃げ回るかのように振る舞うのは、思いの外難しかった。
そうする事によってようやく、レアは勝負の場に立つ事ができた。それまでは、ただレアが倒されるだけの時間でしかなかった。
そうして唯一存在する理想の位置をとったレアは、次にリスリーをおびき出さなくてはならなかった。目の前にいるのにおびき出すと言うのはいささか語弊があるかもしれないが、必要な距離まで相手を近づかせるという行為はおびき出しに相違ないと感じられた。
あたかも近接戦が最適解であるかのように振る舞い、どうにかリスリーを近づかせる事に成功した。手を伸ばせば届く距離。肌を触れさせられるような距離。レアが、勝利できる距離だ。
リスリーが飛行の魔法を使える事は知っていた。有名な話だ。一学年にして五等級の魔法を扱える天才は、学園史上他にはいない。それを期待しての、無理心中的投身。どうせ死ぬ事はないだろうと楽観して、レアはリスリーにしがみついていた。
当然、リスリーは魔法によって体勢を安定させようとする。落下速度を落とし、宙を舞おうと魔力に集中する。しかし、それは思うままとはいかないだろう。なにせ今は、レアが一緒なのだから。
二人分の体重を支えるというだけで、一人で飛ぶよりもはるかに難易度が高くなる。リスリーであればそのくらいはこなしてしまえるが、それはレアが大人しくしがみついているだけであった場合の話だ。
魔力干渉の技術が、ここで生きる。適度にリスリーの邪魔をすれば、高度の維持などたちまちままならなくなる。飛行が困難であると判断されたのなら、当然取れる行動は限られる。その中で最も妥当性の高いものが、ゆっくりと着地する事だ。
リスリーも、別にレアを殺したいわけではない。高所から突き落とすわけにもいかず、仕方なしに抱きかかえたまま降り立つこととなったのだ。
「正解、です……!」
涙をためて、歯軋りをして、声を震わせてハンナが答える。観客はなぜレアとリスリーが空から現れたのかわからずに、目をまん丸にして驚いていた。
「じゃあ一応、解答の確認をするわね」
魔導具によって厳重に管理された解答の書かれた用紙が、代表会員が持つ対応する鍵によって開かれる。何重にも隔たれた内側に眠るその中身を見た者は、今この瞬間までハンナただ一人であった。
「リスリー・ペル・イスマイル。確かに正解のようね」
会場に、おぉっという音が響く。観客の唸り声だ。その意味は感嘆。レアの知略を、学園の生徒は改めて目の当たりにしたのだ。
「いつまでくっ付いている!」
ハンナが、レアの事を怒鳴りつけた。レアは未だリスリーに抱きすくめられるような体勢のままであり、レアの方もリスリーの服をしっかりと掴んでいた。
「おや失敬。これはこれは失敬失敬」
「敬え! 尊べ! この方こそが将来この国を担う未来の宮廷魔導師、リスリー・ペル・イスマイル様だぞ!」
「恥ずかしいからやめなさい」
「はい!」
レアがリスリーから離れるごとに、その倍の速さでハンナが近づいていった。
これほどリスリーに信奉しているのなら、なるほどレアを毛嫌いするわけだ。きっと、前にレアがリスリーを下した事を根に持っているのだろう。
迷惑である上に、完全な逆恨みだ。レアは多少の小細工はしても規定に触発するような事はなかった。正々堂々というわけにはいかなかったかもしれないが、責められる覚えは何一つない。
「頭が高いぞレア・スピエル!」
「やめなさいってば」
「はい」
どうにも、ハンナの空回りである気がしてならない。声高々に宣言するハンナに対して、リスリーの対応はなんとも冷めたものだ。
「ねぇねぇ、ちょっといい?」
見かねたのか、呆れたのか、ナターシャが割って会話に入ってきた。
「ハンナちゃん、最後に“答え”を宣言しないの?」




