彼女の読書
今回は長めのお話です。
おはようございます。好きなものは読書、嫌いなものはレア・スピエル。ハンナ・S・ムーアです。
このたび代表会の準格一位という、身に余る席に座らせて頂くことと相成りました。一学年の上に、その中でもずば抜けて優秀というわけではない私が、たとえ準格とは言え代表会に入ることが出来たのは、ひとえに幸運と言う他ありません。いつかは、自力で入ることが出来たらと思います。その時まで精進を怠らぬよう、気を引き締めて行く所存です。
とは言え、今の代表会三位のアルテア・ハイドは、事務職に対して驚くような適性を見せます。本来準格が行うべきそれをたった一人で全てこなしてしまうため、私が代表会において行うべきことはそう多くはありません。
代表会の仕事を抜きにしても忙しい私ですが、そんな調子なので朝の読書時間は幸運にも削らなくていい日々が続きます。これは私にとっての数少ない趣味なので、問題にならないのなら続けたいと思っていました。
さてそんなわけで、今日も第四棟にある図書館へと足を運びました。一階と二階の全部を一つにして使われているこの部屋は、もはや「図書室」などという枠には収まりません。なので私は口にする時、意識して「図書館」と言っています。見上げるような本棚が壁一面を覆い、それを数え切れないほどの本が隙間なく埋めているのです。
辺りには紙とインクの香り。これが私の最も落ち着く空間です。
数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどの本の山は、今か今かと私に読まれるのを待っている愛らしい子供のようです。私は卒業までに、一体この中のどれくらいに目を通せるのでしょうか。きっと一割にも満たないことでしょう。
もはや顔なじみとなった司書さんに話し掛け、新しく入った本がないかを聞きます。年齢は初老に差し掛かる彼女の記憶力は衰えることを知らず、なんとこの場所の本は内容や置き場所に至るまで全て記憶しているのだそうです。伊達に一人でここの本を管理しているわけではないということでしょう。
いくつか入った新冊の中で、司書さんのお薦めは推理小説と呼ばれる類の物でした。一つ一つ見ていては夏期休暇までに見つけられそうもないような量の本ですが、司書さんの手にかかればどの棚の何列目の左から何番目かまで正確に教えてくれるので助かります。
教えられた通りの場所には、なるほど確かに見覚えのない題の本が置いてあります。とは言え、ここの本を題名だけでも全て暗記しているのは司書さんくらいなので、それだけで新冊かはまだ不明です。
その本を手にとって初めて、それが確かに新冊であると言うことがわかりました。なにせ新品特有の真新しさと言うのは、手触りや匂いというもので簡単に分かってしまうのですから。
図書館から本を持ち出すことは禁止されています。近頃開発された技術によって、本はある程度は量産することが可能となったのですが、それでもイマイチ手頃と言えるような値段とはなりません。量産ですら相応の費用が掛かってしまうのです。まるで宝石のような値段のする物を、まさか無償で貸し出すことなどできはしないでしょう。
保証金を払うことによって解決するような問題ですが、たかが貸し出しでお金を払うような物好きはそう多くはいません。私もです。私はこの場所が大好きですし、この場所で読むぶんには無料なので持ち出そうと思ったことはありません。
さて、推理小説。
ここ数年のうちに流行り始めた、新しい種類の小説ということで、私はまだそれに類する物を読んだことがありません。歴史小説や英雄譚、恋愛小説などは選り好みせずに目を通す私ですが、多くの場合人の死を題材とするそれに、一種の禁忌感を覚えたのです。
野蛮だと
不謹慎だと
もし司書さんに勧められたのでなくては、きっと今後も手に取らなかったことでしょう。そしてそれは、自分自身では気が付かない人生の損として、私の一生を常につきまとっていたに違いありません。
詰まる所、面白かったのです。たった数日で読み終えてしまうほどには。
作中で提示される不可解な殺人は、大いに私をこの世界に引き込みました。変わり者ながら正義感に溢れる主人公はとても魅力的で、その人間性に惹かれずに入られません。そして何より、最後の仕掛けの解決。伏線の回収。
私は常々、物語とは芸術であると思っているのですが、この小説は、それとはまた違った感覚を私にもたらしたのです。素晴らしい芸術を見たときの感動ではなく、それは言いようもない快感だったのです。
悪く言えば、これは芸術性を度外視してある一点に集約された底の浅い物語です。説明するならば、ある人物がある人物に腹を立てて殺してしまったが、物語の主人公がそれを見破る、という、単純明快にも程がある作品でした。
しかし良く言うならば、その集約された一点に、すべての魅力が詰まっていると言って間違いありません。むしろその謎解きを行うために物語があると言うような、重きをおく場所をあえて外しているような物です。
そこに難解な言い回しや詩的な比喩は必要なく、冒険譚や英雄譚のような巨悪も存在しません。あるのはただ一人の悪人と、それを見つける主役だけです。
こんな物が存在したのかと、私は驚きを隠せません。その本を読み終わり次第早速次が読みたくて、司書さんに別のお薦めを伺ってしまいました。今思えば、その時の高揚した私の様子は、客観的に見て自分らしくなかったかもしれません。我ながら恥ずかしいことです。
しかしこの日、私はある出来事に遭遇します。それは言うならば「図書落書事件」。
たかが落書きを事件などと、大袈裟にお思いでしょうか? そんな事はありません。本とは、未だ完全な量産体制が整っていない希少品であり、そもそもからして学園の美品です。それを傷つけた、あるいは汚したと言うのなら、それは間違いなく大事なのです。
発見したのは、代表会二位シス・ハイネ先輩です。偶然図書館内で出会ったので隣同士で読書を楽しんでいる時、彼女は唐突に立ち上がって司書さんの所まで大股で歩いて行きました。何があったのかとついて行き、事の本末を聞いたのです。曰く、推理小説の登場人物欄に「こいつが犯人だ」と書き込まれていたそうです。先輩はその事を知らせに来ていたのでした。
なんと……なんと言う暴挙でしょう! 他者の楽しみを奪う事の、一体何が愉快だと言うのか。私にはそれが分からず、ふつふつとお腹の中で煮えたぎる思いの行き場を探すばかりです。
私のその日は、そんな不快な感情と一緒でした。
翌日、私は再び図書館に足を運びます。
前日は非常に不快な思いをしたのですが、何よりも本の続きを読みたくなったからです。
昨日先輩が読んでいた本は、まだその場所にありました。どうにか同じ本を手配しようと昨日言っていたのですが、本の手配などそう簡単に出来るような事ではありません。きっといつまでもこのまま汚されたままの本が並べられているのだろうと思うと、なんだかやるせない気持ちになります。
気を取り直すため、昨日読んでいた本を手に取り、読書用の机へと足を運びます。昨日はたった十数頁しか読めなかったので、少し張り切りたいと思います。
暫くすると、そこに後客が現れました。リリア・エルリス、同学年の平民です。
私は貴族の生まれですが、平民を徒らに虐げたりはしません。貴族の血を軽んじるつもりはありませんが、ただそこに居るくらいで突っかかるほど安い自尊心は持ち合わせていないのです。しかし、彼女に関してだけは不快にならざるを得ません。彼女がレア・スピエルの友人である限りそれは変わらないでしょう。
リリアは私の向かいに座り、静かに読書を始めました。彼女がレア・スピエルと一緒にいないのは珍しい気がします。
私はと言うと、どうにか読書に集中しようにも、無意識に視線が流れてしまいます。彼女がただそこにいるだけで気が散ってしまい、どうにも読書どころではありません。
仕方がないので場所を変えようかと思ったその時、私は気がついてしまいました。
彼女が開いた本は、落書きの本だったのです。
伝えた方が良いだろうか。本当ならそのくらいの親切に一々悩んだりしませんが、リリア・エルリスに話しかけると言うことに迷いが生じてしまったのです。あのレア・スピエルの友人に。
そうこうしているうちに、彼女が落書きを発見しました。本の中は見えませんが、すぐに分かります。何せ彼女の小さなひたいに、うっすらと皺が寄ったのです。
リリアはパタンと小気味のいい音を立てながら本を閉じると、溜息をついて立ち上がります。そのまま本を元に場所に返して、図書館を後にしました。
なんだか悪い事をしてしまった気分になり、私も一つ溜息をこぼします。私の今日の読書時間はそれで終了となりました。
さらに翌日。なんと言う事でしょう。私はつくづく苦手に遭遇してしまうようです。
ライラ・ルゥジ。私よりも随分と低い位の貴族だったと記憶していますが、もちろんそんな事で驕りを助長するような私ではありません。しかし彼女もまた、レア・スピエルの友人なのです。
そして何の因果か、彼女もまた「あの小説」を読んでいるのです。先に言っておきましょう。私はまたしも、「それには落書きがされていますよ」と忠告することができませんでした。
ただこの時の私の内心は、リリアの時のそれより遥かに穏やかでした。当然彼女に対する意地の悪い感情からではありません。単に、仕方がなかったと、それだけなのです。何せ彼女は、私が来たその時にはすでに本を読み始めていたのですから。
初めは声をかけなければと思ったのですが、見るともう落書きの頁に差し掛かっていたのです。彼女はどうやらすぐにでも気が付いたらしく深い溜息をついたのですが、それ以降は全く気にも止める様子もなくその本を読み進めていきました。まるで何も見ていないかのような、自然な動作でした。
それから数日、私は毎日彼女と鉢合わせになったのですが、彼女が読む本は決まって「あの小説」なのでした。そしてそれを読み終わると、彼女は満足そうにそれを本棚に戻し、まだ授業には時間があるにも関わらず次の本を取る事なく図書館を後にしました。
それ以降、私が図書館で彼女を見ることはありませんでした。
これは中々に面白い事です。
本に落書きがされていたという一つの物事ですが、人によってその後の反応が異なるのです。ごく当たり前なその事に、私は楽しさを感じていました。
そして何よりその後の、その人物の行動に私はハッと驚きました。あの憎いレア・スピエルの行動に。
最悪の気分でした。何と、レア・スピエルと偶然にも図書館で出会ってしまったのです。私の最も気を落ち着ける空間で、まさか彼女に出会ってしまうことは、あってはならない事でした。その日の行動意欲に大きく関わるのです。
向こうも私に気が付いたようですが、特に気に止める事なく手近な席に座って本を読みます。そこで引くのは癪なので、私も彼女の目の前に座りました。その時はレア・スピエルへの敵愾心から思いもしなかったのですが、後で我ながら器が小さいと反省する事になります。
私は読みたい本を手に持っていたのですが、彼女の前で本など読んでいられなく、広げるだけで視線は適当に泳がせていました。もしかしたら、ずっと頁が変わっていない事を気付かれたかもしれません。
そしてしばらくして気が付きます。レアの持つ本。それは何と「あの小説」だったのです。
数奇。そう感じました。いや、あるいは偶然ではないのかもしれません。例えばリリアかライラのどちらかが、レアに落書きがされた小説の話をしたということも考えられます。それを聞いたレアが何を思ったのかは分かりませんが、気まぐれや、物珍しがって見に来たというのは充分にありそうな事です。
レアは頁を何枚か行ったり来たりして、とある頁に目を止めます。その行為はいかにも何かを探しているようで、やはり初めから落書きをされていた事を知っていたのだろうと私を確信させます。
彼女はその頁を見ても表情一つ変えず、その頁を開いたまま本を持って立ち上がりました。何をするのかと目で追うと、その足は司書さんの方へ向かっているようでした。
なるほど、報告をしようというだけでしたか。ハイネ先輩と同じその行動は、何も特筆する必要のない当然の事です。本を愛する者は落書きなどという暴挙に怒り、その管理者である司書さんに報告申し上げずにはいられないのです。
私は手元の本に目を落とします。続きが気になっていましたし、レアが離れたので集中して読書ができるのです。
しかし何と、読み進められたのはほんの数頁程度でした。再びレアが向かいの席に座ったからです。それも筆記用具を持って。
何をするのか、私には全く理解が出来ません。図書館で勉強をしようという者は確かにいますが、彼女がそうでない事は一目瞭然です。何せ、勉強に推理小説を使う事はないでしょうから。
嫌な予感がしました。彼女はその本の頁を開き、それでいて筆に筆記顔料をつけているのですから。その様子を見れば、多くの人は彼女が何をするのかを予想できる事でしょう。あぁ、そして何と、その予想は疑いようもなく的中してしまいます。
彼女はその頁に、その筆の先を触れさせたのです。ええ、そうです。落書きです。
目を疑いました。まさか人の目も憚らずに、そんな事を始めるだなんて。
レアは手際よくサラサラと書き進めると、その頁を乾かした後に次の頁にも同じように何かを書き込んで行きます。
私はあまりにも唖然として、その場を微動だにできませんでした。本には全く目もくれず、固まってレアの事を凝視する事しか出来なかったのです。記憶違いでなければ、瞬きすら忘れていたように思えます。
レアの暴挙は、ほんの数分で終わりました。流石に本全体にくまなく書き込むような面倒はするつもりがなかったらしく、最初の十数頁ほどしか開かなかったからです。
彼女はもう一度自分が書き込んだ頁を眺め何事かを確認すると、その本を元あった棚の場所に戻しに行きました。訳がわかりません。全く悪びれる様子もなしに、そのまま帰ってしまうのですから。
その場には偶然にも私しかいなかったので、非常に清らかな静寂が支配していました。しかしいつもなら本を読むのに最適なその環境も、今この時のみは楽しむ事ができません。
数分でしょうか。それともそれ以上だったのでしょうか。ともかくとして、私はしばしの後にようやく動く事ができました。そして初めて怒りを感じたのです。もしかしたら、ここが図書館でなければ叫んでいたかもしれません。あろうことか私の目の前で、あのような事が行われたのですから。それほどまでの怒りでした。
気が付けば私は本の続きを読むのも忘れて、レア読んでいた本を本棚から探し始めていました。どんな落書きをしたのかを確認し、司書さんに突き出してやろうと思ったからです。
その本は程なく見つかりました。ライラやリリアが持っているのを遠目で見て判別できた代物ですから、特に労せず探し出す事ができました。さて、彼女は一体、どんな下らない事を行なったのでしょうか。
まず初めに、登場人物の名前の横に矢印付きで「犯人だ」と書いてあるものを見つけました。これはハイネ先輩が見つけた落書きなので、レアとは関係ありません。しかし次に見つけた落書きを見て、私は混乱してしまいました。
——そこにも「犯人だ」と書いてあったのです。
これはどういう事でしょうか。犯人が二人いる。つまり、共犯であるという事なのでしょうか。
その考えはたちまち崩れてしまいます。何せ次に登場した人物にも「犯人だ」の文字があったのですから。
それだけではありません。その次の行に登場する人物も、その次の頁で話す人物も「犯人」なのです。もはや訳がわかりません。
こうなっては、本当に最初の落書きがハイネ先輩が見つけたものかも怪しくなりました。なにせ、最初の十数頁に登場する人物には片端から全て同じ落書きがされているのですから。丁寧に被害者にすら書かれているのです。
あまりにも驚いてしまって、私は結局最後までその本を読んでしまいました。数日かけて、じっくりと熟読しました。そして最後に探偵役が犯人を指定するその瞬間まで、結局真相を見抜く事ができなかったのです。
木を隠すなら森の中というように、本当の事を書いてある落書きが、偽りの中に紛れて見分けがつかなくなっていたのです。
それがレア・スピエルの仕掛けでした。
私は見事に引っかかり、まんまとその本を読了してしまったのです。後から話を聞けば、司書さんに「新しい本が届くまで、古い本が辛うじて読めるように工夫がしたい」と許可を取っていたらしいのです。もともとすぐにでも捨てるつもりだった司書さんは、快く許可したのだそうです。
私はどうも悔しかったので、家の伝手を使ってその本を新調し、古い落書きだらけの本はさっさと処分してもらいました。これで引き分けといったところでしょう。




