彼女は札をめくる
アスト・アイナスは三男として生まれた普通の貴族だった。
二人の兄はとても優秀で、彼が生まれた時にはすでに跡取りは問題がないとまで言われるくらいだった。父が病に倒れた時も、家が傾かなかったのは彼らの尽力あってのことだ。
才覚に恵まれ努力も惜しまない彼らは、アストにとって自慢の兄であった。
しかしそれと同時に、彼は強い劣等感も持ち合わせている。
どれほどの努力をしようとも、年の離れた兄を差し置いて自分が家督を継ぐことはない。
たったこれだけの事実が、彼から努力の意味を奪った。
例えば女であったなら、少しは違ったのかもしれない。
名のある貴族に嫁ぐことが家のためになるならば、彼は喜んでその身を捧げたに違いない。しかし彼はすでに三人目となる男であり、両親や兄弟から与えられる家族愛にすら苦痛を感じる日々を送っている。
エルセ神秘学園への入学後もそれは変わらなかった。
二人の兄も通った道だ。自分が特別なわけじゃない。
そんな彼が、すでに忘れかけていたなけなしの自尊心に任せて行っているのがこの賭場だ。
金に困っているわけではない。誰かを貶めそれを見下すたびに、今まで苛まれてきた劣等感が薄れていくからだ。
そして今、アストは笑っていた。
相手にも、もちろん周りで遊戯を楽しんでいる仲間にも気付いている者はいない。おそらく悟っているのは真後ろに控えているアイギスだけだろう。
しかし、確かに、相手を嘲笑していた。
あまりにも愚かだと、そう思わずにいられない。
自分が謀られていることにも気が付かない金ヅルが、たった数枚の損で泣き崩れる貧乏人が、その程度のことに腹を立てるお人好しが、バカバカしくて仕方が無い。
そしてさらにその中でも、まさかまさか、腹を立てるだけに飽き足らず、何と向かってくるような愚者は彼が最も好ましく思う相手だった。
アストは間違いなく笑っている。人当たりの良さそうな、とても温和そうな笑みに隠し、相手を見下す下衆な感情を確かに持っている。
「じゃあ始めようか」
お互いにチップを5枚ずつ場に出す。
これは勝負をすることの意思表示だ。毎回勝負のたびに行う。五回の勝負で一回ずつ行うため、合計五回というわけだ。
相手は——レア・スピエルは、返事もせずにアストを凝視している。
一瞬、ほんの瞬く間だが、“バレた”のかと思った。だが、そんなはずは無いと考えを改める。
そもそも入学したての一学年にわかるはずが無いのだ。アストの同学年以上を見ても、これを魔導具の補助なしで看破できる者は少ない。おそらく教師陣にもできない者がいるだろう。
それにもし気が付いているのなら、自分ではなくディーラーの方を警戒するだろう。仕込みはそちらなのだから。
ディーラーが手慣れた様子で山札を混ぜる。
その様子を見て、少しばかり感慨が湧くのはおかしいことだろうか。三年と少し昔、この賭博団体を始めた時は素人であった仲間の手つきが、見違えるように上達している。
それはつまり、それだけの時間が経過したということであり、それだけの回数をこなしたということであり、それだけの人数を貶めてきたということだ。
その事実に、アストの心が満たされていく。
配られたカードを確認する。
ハートのK、クラブの10、クラブの6、ハートの10、ハートの2。
10のワンペア。
この手を見て、次にディーラーを、厳密にはその右手を盗み見る。ディーラーは、手を開いてテーブルに置いている。
『勝てる』これはその合図だ。
この時点で降りることもできるが、その必要は無いらしい。手持ちのチップ10枚を賭ける。レアは少し迷ったようだったが、やがて同じ額で勝負をかけた。
手札の交換。
手札から任意のカードを捨てて山札から同じ枚数を手札とする。
この時も確認するのはディーラーの手だ。薬指と中指を曲げている。
『カードの交換を指示』これはその合図だ。向かい合った時、曲げた指の正面であるカードを交換する。
クラブの6とクラブの10を捨てろ。
10のワンペアを崩す指示だが、アストは迷わずそのカードを捨てる。
引いたのはハートの4とハートの9。フラッシュだ。
レアの交換は五枚。よっぽど悪い手だったのだろう。しかしアストはそれで手心を加えるような性格では無い。
「ベットだ」
出すのは20枚。
絶対に勝てる勝負だ。だからと言って、大きく出すぎると相手が尻込みするために手加減が必要だということは充分に承知している。
それでも賭け金を上げたのは、アストの心を表している。相手を蹂躙したいという願望が、一回目と同じ額を宣言させなかった。
「ドロップです」
だから、レアのその声には拍子抜けだった。
「……え?」
「ドロップです。勝てません」
平然とカードをディーラーに返すレア。対するアストは、すっかり気を削がれてしまった。
「え? は? いや、いやいや、はあ?」
アストはいらだたしげにテーブルを指で叩く。カードを捨て、レアに一歩分近寄った。
「勝てませんんんん? わざわざ僕を指名して、最初の勝負でえええ? いいの? チップ15枚の損だよ、勝負もなしに」
「構いません、そのチップは差し上げます」
レアのその平然とした態度に、アストの苛立ちはますます高まる。こんな勝ち方では面白くも無い。まるで見下している気になれない。
「次の勝負だ!!」
怒鳴るように、ディーラーに宣言する。
ほんの八つ当たりだ。アストは賭博以外においては温和で理知的なので、普段からの違いにディーラーは少し驚いてしまった。しかしアストにそんなことを気にするつもりなど無い。
一回目と同じく互いにチップを掛け、手札が配られる。
クラブの7、クラブの6、ダイヤの7、スペードの7、ダイヤのQ。すでにスリーカードの手札。
「宣言は?」
アストは見るからに不機嫌な様子で尋ねる。
勝負の公平を保つため、宣言と交換は交代で行う。つまり、第一勝負がアストだったので、第二勝負はレアが行うことになる。
「ベット」
一切声色を変えないままに、レアは宣言する。自信に満ちているわけでもなければ、思いが砕けたわけでも無いその声で。その、感情を読ませない声で。
「……5枚?」
コールをする上で、その卓ごとに下限を設定するのは当然のことだ。それによって、一回で動く金額をある程度操作することができる。
そして、レアがチップの山から差し出したのはこの場での最低掛け金。降りを考慮しないならもっとも消極的な宣言だ。
「たったの? えぇ?」
だからアストは問い掛ける。
友人に起こったことに腹を立てた底なしのお人好しに対して、まさかお茶を濁すようなことを続けるなどとは思ってもみなくて。
それとも違うのだろうか。彼女は友人のために躍り出た愚者などではなく、泣いている友人を前にして欲望を抑えることのできない賭博中毒だったのだろうか。
アストは肩を落とす。
なんてことだと、無駄な時間だと。そんな者が墜ちたとしてもそれは自業自得であり、つまり自滅であり、アスト自身が突き堕とした事にはならないのだから。
それとも、怒りに任せて足を踏み出したはいいものの、臆病風に吹かれて二の足を踏んでしまうような根性無しなのだろうか。
それは最悪に近い。賭け金に不満があるのなら上乗せの宣言を行うことができる。自分は勝つ自身があるという意思表示だ。しかしもし彼女がただの臆病者だったとしたら、こちらが少しでも強気に出るならば、たちまちまた降りてしまうだろう。
アストはテーブルの上に乗るディーラーの手を見る。今度は手を開いていない。
『勝てない』これはその合図だ。
すでにスリーカードを揃えていて、まだ手札を交換していない状況ですでに敗北が確定している。そういう知らせだ。
ならばなおさら上乗せの必要はない。
……いや、果たしてそうだろうか。
違うぞ。気を回すのはそこではない。気を回すべきは、別の部分だ。
彼女の手札は現時点で、まだ交換していない現時点においてすでにアストの手札よりも強いのだ。つまり7のスリーカードよりも。ならば何故最低掛け金なのだろうか。
考えられるのは、アストに降参させないため。弱気な姿勢を見せて、賭けを促そうという魂胆。
アストの気分がわずかに高揚する。それはよくある騙しだし、充分に考えられる。
もしそうならば、少なくとも戦意があるということだ。相手を謀ろうという意思がそこにあるということだ。
「レイズ」
レアが賭けた5枚に追加してさらに10枚。合計で15枚の賭けだ。
ディーラーが驚いた顔でこちらを見ているのを視界の端に捉える。本来なら彼とアストにゲーム的なつながりがあると思われる行為は避けるべきだ。今は人の目があるので目を瞑ることにするが、ゲームが終わったら注意する必要がある。
とは言え、彼の驚愕も分からないわけではない。
負けると分かっている状況での上乗せ。
さぞかし意味不明に見えることだろう。確かに、相手を降ろすためにあえて強気の姿勢をみせることはあるが、アストは今までそんなことをしたことはなかった。
何せ勝てるかどうかが全てわかるのだ。勝てるときに勝ち、負ける時に降りれば、全体で見てまず負けることはないのだから、そんな小細工は一切必要ない。
それでも今は張るべきところだ。
もしも相手がただの賭博中毒だったのなら、あんな消極的な賭けを行うとは思えない。強い手なら強く張るだろう。そしてこの上乗せに乗ってくるのなら、それはただの臆病者ではない。
これに対する答え如何で、彼女の真意を計ることができる。こちらの動向を慎重に伺う狩人なのか、そうでないかの判断ができる。
そして彼女の答えは……
「コールです」