彼女達はひっくり返す
「場所を変えよう」
そう言って三人で移動したのは、『ニイチ』の隣にある全生徒共有の多目的室だ。机と椅子が並べられただけの簡素な作りだが、話をしようというだけならば誰の邪魔にもならないこの場所は最適といえる。良い加減『ニイチ』の従業員が迷惑そうな表情を隠さなくなってきたところだった。
まばらな生徒の間を通って、できるだけ目立たない端の方の机に着く。
「話は簡単さ」
ライラとリリアの対面に座るカルが手荷物の入っている袋を漁りながら話し始める。
「君達には、今度ウチから販売される予定の盤上遊戯の試作品を遊んでもらって、その評価をしてもらいたいんだ」
カルが取り出したのはマス目の書かれている板と、円形の硬貨のように見える駒だ。どちらも木製で、試作品というだけあってあまり見栄えが良くない。
「僕が考案した物なんだけど、できるだけ多くの意見が欲しいんだ」
マスの数は縦横六マスずつの三十六マス。駒には表と裏で違う色が塗られており、マス目と同じ数だけ用意されている。
カルは盤上の中央四マスに駒を置く。色が互い違いとなるようにする。
「準備はこれだけ。これが自作二人零和有限確定完全情報遊戯、名付けて「リバーシ」だ」
二人零和有限確定完全情報遊戯
それは完全な思考対戦であり、運の要素が介在しない形の遊戯のことだ。前提として、対戦者が取りうる手が無数に存在してはいても、それが真に無限であってはならない。
「分類としてはチェスや将棋などと同じ物だ。ただし、駒が複雑な動きをするそれらと違って、この「リバーシ」はもっと単純でわかりやすいものを目指している」
規定を聞くと、なるほど確かにそれは単純明快だ。それこそ一分もあれば覚えてしまえるような。
自分の駒で相手の駒を挟み、その挟んだ駒をひっくり返して自分が受け持つ色を上にする。自分の番においては、必ず駒を返す場所に置かなくてはならない。盤上のマスが駒で全て埋まったとき、より多くの駒を獲得した方の勝ち。たったそれだけだ。
カルは腕を組んでとても自信ありげに説明を終えるが、ライラは困ったように首をかしげる。
「面白いんですの?」
カルの自信のほどはイマイチ伝わらない。
「複雑でも、もっと駆け引きを大切にしたほうがいいと思いますわ。単純なら良いというわけでもないでしょう」
辛辣なようだが、意見が欲しいと言われた以上、これはライラの偽らざる本音だ。どうにも一目見た限りでは、目の前の盤上遊戯が面白いようには思えない。
「やはりね」
ライラの意見を、カルは堂々とした態度で返答する。
「そう思うようだね、みんな。チェスに慣れ親しんだ人は、複雑さを排したこの遊戯の面白さを一目で感じたりしない。でもね? やればわかるよ。やればやるほどにわかるよ。単純だからと言って、駆け引きがないわけじゃあないんだ。複雑なら良いというわけでもないだろう?」
カルの笑顔は崩れない。
試作の段階で何度も遊んでいる自分にはわかるのだと
これは単純ではあっても底の浅い遊びではないのだと
彼は意見を譲らない。
「それでもまだ乗り気じゃあないなら、仕方ないからこうしようか」
まだ難しい顔をしているライラに対して、カルはリバーシを指差して言う。
「それで僕に勝てたなら、約束通り紙をお譲りしよう」
それなら嫌でも身が入るだろうと。すごい自信だ、それはつまり簡単には勝たせないと言うことなのだから。
「……それは、何回挑戦しても良いんですの?」
「もちろん! と言いたいところだけれど、時間が許す限りと付け加えなくてはならないだろうね。湯浴みの時間が始まるまでにしよう。僕は長く風呂に浸かるから、急いで浴場に行かなくてはならないんだ」
その言葉に、ライラは廊下に目を向ける。この多目的室に窓はないが、廊下の窓から差し込む光は、そろそろ赤みを帯びている。
「あまり長くはありませんね」
「まさか! むしろたっぷりだよ。この遊戯の面白さを知るには充分!」
カルは笑顔でリバーシに使う駒をライラに差し出す。その数は十六枚。十六巡の手番でこの遊戯は終了する。
「そうですね」
適当な挨拶を返して駒を受け取る。これだけの自信があるならば、簡単に勝てはしないだろう。ならば何回かの負けは覚悟して、数をこなして勝ちを拾う腹づもりだ。
そう——そのつもりだった。
「うぅ……!」
一回十分にも満たない対戦をすでに五回。その中でたったの一度も勝利を予感しない。
「淑女がそう悔しそうな顔をするものじゃない。いつでも余裕の表情を見せなさいと、君の母君はそう教えなかったのかい?」
大きなお世話だ。そう言えたなら、どれだけ楽だろうか。
「その通りですわ。この遊戯がとても面白かったので、ついガラにもなくはしゃいでしまったようです。恥ずかしいことですわ」
そう取り繕うも、焦りは心から消えたりしない。廊下の窓から差し込む光は、すでに真っ赤に燃えているのだ。幾度となく挑戦してたった一回勝とうとしていた自分がどれほどおこがましかったか、ライラは今はっきりとそれを感じている。
しかしライラは引き下がらない。迷う余地もなく六回目の挑戦を開始する。
「先行はいただきますわ」
積み重なる敗北の中で、ライラもただそれを受け入れていたわけではない。確実に、急速に、学んでいるのだ。勝利への定石を。
例えば、駒を一手目に置いた時、現状の駒数は四対一で先行の有利だ。そして二手目が置かれた時、駒数は三対三となり拮抗する。このように、同じ枚数だけ取ると仮定した場合、必ず先行が多い駒を持つことになる。つまりこの遊戯は先行が有利だ。
しかし、それだけではない。それだけで勝てるはずはない。何せ、カルは先行だろうと後行だろうと常に勝利しているのだから。
次に気がついたのは、取る駒に重要度の違いがあると言うことだ。場所によって、優先的に確保しなくてはならない駒が存在する。それは、簡潔に言うならば角。正確に言うならば、それに連なる確定駒だ。
盤上が有限である以上、もう返すことのできない駒は必ず存在する。盤上が駒で埋まるよりも先に、自分の持つ駒であることが確定するのだ。これ以上に欲しい駒はない。これをより多く獲得することが、一番の定石であると感じた。
「いやあ、強いな。たったこれだけでどんどん強くなっている」
カルは余裕の表情を崩さずに調子のいいことを言う。
強くなっている。そんなことを言われても、負け続けのライラが慰められたりしないことなど分かっているだろうに。
結局、四つの角は全て取られてしまった。
「ふふ」
ひどく楽しそうなカルの態度に苛立たしさを感じてしまうライラを責めることなど、きっと誰にもできることではない。
わざとだ。
ライラはそれを見抜いている。
ライラが露骨に角を取りに行ったために、それを煽るように先んじたのだ。
「中々良い趣味ですね?」
「そうかな? そうかも」
この六戦目でさらに気が付いたことは、現状の盤面に目を凝らすばかりでは勝てないと言うことだ。一手につき大きく変化をもたらすリバーシは、先の展開を読む力が想像以上に必要なのだ。たった一列色が変わっただけで、置ける場所は簡単に増減してしまうからだ。チェスや将棋よりも単純などと、とんでもない勘違いだった。リバーシはそれらと同じように、読み、読まれ、詰め、詰まれることを繰り返して行われる優秀な対人遊戯だ。
「次です。お願いします」
「いいとも」
七戦目。盤面の変化を意識した戦術を心がけ、さらにその変化した盤面で、自分だけでなく相手の置ける場所すら認識しなくてはならない。なるほどカルが推すだけあって、見た目よりも深さのある遊戯なのだなと気が付いたライラであるが、しかし残念なことにそれよりもカルへの敵愾心が優ってしまい、どうにも楽しむことはできそうもない。
そう思い始めていた時だ。
「あら……」
ようやく、ライラは手応えというものを感じた。
現在と数手先と、さらには相手と自分の手番といういくつもの並列思考は疲れるものの、どうやら努力はようやく身を結んだようだ。ライラは、初めてカルの手を掻い潜ることに成功する。苦労したものの、四つの角を全て我がものとしたのだ。
「これは、勝ったのではないですか?」
ここで初めて、ライラの顔に自然な笑顔が浮かぶ。目の前に見えた勝利に、張り詰めた精神が安らぐ感覚を覚えることができた。
「私、勘違いをしていたわ。この遊戯、確かに面白いもの」
「そうかい? そう思ってくれたのならこれ以上のことはないよ」
ライラの機嫌のいい様子を見たカルも、一層濃い笑顔を見せて返答をする。ほぼ無言で対戦を続けていたライラとは対照的に楽しげであったカルだが、どうやらライラがそうでないことは密かに懸念していたらしい。遊戯の製作者ならば当然といえば当然か。
「疲れましたわ。だって意外に頭を使うんですもの」
しかし、これでレアに紙を渡せる。友人思いのライラは、そのことに心底安心していた。
——だが
「あら……?」
いつからか
「これで七戦目終了っと」
いつからだろうか
「あ……あれ?」
ライラの駒が見るからに少なくなっていたのは。
「え? だって、四隅はきっちり……」
その言葉に間違いはなく、ライラの確保した確定駒はしっかりとその存在を主張している。しかしそうでありながら、ライラの駒は見るからにカルの駒の数を下回っている。
「……一体、一体……何、が? いつから、いつから負け……て?」
すり替えではない。たった三十六マスしかない盤上をすり替えようものなら、いくら勝利を確信して浮かれていたとしても気付かないはずがない。ならば、不正の余地は一切なく、ライラは純粋な実力で敗北したということだ。
「そんなに驚くことかなぁ?」
混乱するライラの言葉に、カルの言葉はよく響く。
「四隅? 四隅でしょ? 四つしかないじゃないか。たった四マスしかないんだから、それで負けても不思議じゃないじゃん?」
その言葉は、なるほど確かにその通りだ。三十六マス中の四マスを取ったとしても、残りの三十二マスを取られてしまっては勝つことはできない。それはライラにも理解できる。
「でも……」
ライラはそれでも反論する。理解はできても、納得まではいかないために。
「そんな単純じゃあないはずですわ。四隅を取られてそれ以外で挽回するのと、四隅を起点に他のマスを取るのとでは、難しさが違いますもの」
だから、たったの四マスが重要なのだ。それを取るだけで、優位は絶対のものとなる。そのマスはもう返されることはないのだから。
ライラはそう主張する。
「でも負けてるだろ? 君は」
しかし、カルの言葉はことごとく正論だ。
「確かに、正しいね。四隅は重要だ。それを取るのと取らないのとでは優位性に大きな差が出てしまう……でもさ」
あたかもライラの言葉を肯定するように始められたカルの言葉は、すぐに否定に置き換わる。鼻先で笑うような口調で続けるカルに、ライラの不快感はより一層高まっていた。
「それはある程度実力が釣り合っているときの話だね。多少の有利でひっくり返らないことというのは、生きてるうちにもよくあることだろう?」
あるいは、わざとだったのかもしれない。カルの軽薄そうな表情を見て、ライラはそう感じた。
ライラが四隅のマスを取れたことも、取れなかったことと同じように、すべてカルの掌の上だったのかもしれない。実力の差を思い知らせるために、あえて四隅を空け渡した上で下したのかもしれない。そう思うと、より腹立たしい。
「まだやるかい?」
何気ないカルの言葉に、窓の外に目を移す。日はそろそろ落ち込み、地に昏く落ちる影も随分と長くなっている。勝負はできてあと一回といったところか。
きっと勝てない。
ライラには確信がある。二人零和有限確定完全情報遊戯であるリバーシは、まぐれの要素は一切ない。何度も挑戦していればそのうち勝てるという考え方は甘いものだったし、当然のことながら実力では遠く及ばない。
どうしたものか
ライラは悩む。何か、自分が考え及んでいない定石があるのではないか。そう思いながら、悩めば悩むほどに時間がなくなるのを自覚している。何もしないままに、ライラは追い詰められていく。
まずいと、そう思いながらも、いたずらに時間は過ぎていき、焦りばかりが積み重なる。
そんなライラを救うのは、心優しい友人の言葉だ。
「次は私がやりましょう」
笑顔でなく、しかし穏やかな表情で、リリアがライラの肩に手をのせる。
「任せてください」
どうやって勝つんやろ
知ってる人は簡単に分かってしまうのが悩み




