彼女達は交渉する
それは一見して滑らかに見えるだろうが、目を凝らせば表面に細かな繊維質が見えてくるはずだ。薄く引き伸ばされているために高い強度が見込めるわけでは無いが、それだけに丸めたり折り曲げたりといった加工がしやすく、その性質は保存時に大いに役立つ。記録媒体としてなら、この国にこれ以上のものは存在しない。
つまるところ「紙」である。
「あぁ、くそ! チクショ!」
頭をかきむしり、時折唸り声を上げる男の傍らには、なんと紙が分厚く束ねられているのだ。
穴を開け、紐でくくられた紙の束だ。それも十や二十ではない。厚さ数cmはあるだろうというその束は、きっと百でも収まらない。
男は神経質そうに紙に何かを書き込んで、数文字進むと手を止めて、頭をかきむしりながら唸り声を上げる。そんなことをずっと続けていた。
それだけで充分に奇怪なのだが、リリアの目を引いたのはそこではない。
なんと、男はしばらくすると、半分も書きすすんでいないその紙をグシャグシャに握り潰したのだ。
「まあ……」
それを見たライラも驚きの声をあげる。声は抑えられた控えめなものだが、もう少しで今飲んでいる紅茶を吹きだすかと思うほどの衝撃だった。
男の卓には、すでに丸められた紙が三枚は転がっている。
「もしかしたら行けませんかね?」
リリアのその言葉は、ライラも確かに思うところだ。
あれだけ紙をふんだんに使えるような人物ならば、ライラ達とは違う浮世離れした金銭感覚を持って、紙の一枚くらい簡単にくれるのではないだろうか。そんな気が、確かにする。
「ダメで元々、そのつもりでなら……」
話をするのも良いだろうと。
二人は会計の木札を持って、その男子生徒に近づく。忍び寄るようなつもりは全くなかったが、彼は二人の接近に全く気がついていないらしい。
「失礼、よろしいかしら?」
「すみませぇん……」
ライラに倣い、リリアは控えめに声をかける。相手はそれでようやく二人に気がついたようだ。
「……何かな?」
訝しげに目を細める彼の胸元に施された刺繍は黄色。二学年を示す物だ。ライラたちより一つ年上ということになる。ライラとそう変わらないその身長は、男性であるということを考慮すれば随分と小柄だ。艶のある夜色の髪は短く切られており、非常に清潔感を感じる。ただ、暗い色の瞳と合わせて考えるのならば、特にこれといった特徴があるわけではない。あえて言うのなら、たとえどのような場所でも人に紛れてしまいそうなその平凡さこそが際立たない特徴だ。
その彼が、内容こそ当たり障りないながらも今にもため息をつきそうな口調でライラに言葉を返す。
「いえなに、どうやら随分と珍しい物を持っているようなので、少し気になってしまって」
萎縮しているリリアに対して、ライラは堂々とした面持ちで紙の束を指差す。
「紙をそんな風にふんだんに使う方は今まで見たこともないので」
「ああ、これか」
男は自分が握りつぶした紙の玉も含めてどうやら察したらしく、周りに目をやりながらそのゴミとなってしまった紙をそそくさと片付ける。
「なるほど確かに目立つねぇ」
「一体何にそこまで悩んでいますの? 随分と険しい顔をしていましたわ」
「あー……中々ね、難しい考え事だったんだよ。自分の頭だけじゃ足りなくて、こうして考えたことを書き出さなくちゃいけないくらい」
彼は言葉を濁すが、それはライラにとって大した問題ではない。気にも止めずに話を進める。
「失礼、私ライラ・ルゥジといいます」
ライラは少し膝を曲げ、頭を下げる。その優雅さは、末端とはいえ流石に貴族というべきだろう。
後ろに控えるリリアが「リリア・エルリスです」と見よう見まねでお辞儀をする。
「これはご丁寧に、カルルエル・マイアーといいます。親しみを込めてカルと呼んで下さぁい」
こちらから礼を尽くせば、相手もまた邪険にはできない。初対面の相手に悪意を向ける理由などないのだから、これは当たり前だ。
「ご一緒してもよろしいかしら?」
疑問を投げかけておきながら、ライラはすでに着席の姿勢に入っている。相手が弱腰なのを見て、多少強引でも引きはしないだろうと踏んだのだ。リリアもライラの隣に着く。
「お家は商家かしら? それだけの紙を扱えるなんて、きっとこの国きっての大店なのね」
これから、ライラは交渉に入る。ならば相手の機嫌を取ろうとするのは、なんら不思議なことではない。ただ、リリアはイマイチわかっていないらしく、紙の話をするのかと思ったら相手の実家の話をし始めたライラをポカンと見つめている。
「ふふ」
ライラの予想以上に機嫌をよくしたらしく、カルは姿勢を崩して微笑み始めた。
「確かにウチはそれなりの名家だと自負しているけれど、それだけの理由じゃあこんな紙の使い方はできないだろうねぇ」
そこで一度、言葉を切る。
もしリリアだけならば、なんで途中で話をやめたのかと訝しげな目を向けるだけだったろうが、ライラには相手の求めているものがよくわかる。
「まあ、なら一体何故?」
促して欲しいのだ。案の定カルは我が意を得たとばかりに上機嫌で話を続ける。
「金を使うだけ使って良い物が手に入るのは普通だけど、優れた商人ならば少ない損失で大きな利益を得ることができる。そう言うわけさ」
「つまり、その紙もそうだと?」
「そうだね、ライラさんは貴族のようだから分かりにくいかも知れないけれど、金払いが良いばかりが商人の格ではないんだ」
大きな商家には、相応の貴族が後援者についているものだ。ならば当然、ライラのような末端貴族より遥かに経済面で優れているはずであるが、カルが言うには貴族ほどの金を持っているからといって、貴族と同じだけ嗜好品に金を出す商人はいないらしい。金というのは、使わないほどに良いのだと。
それは確かに、金を使うことで格好をつける貴族とは大きく違うところだ。
「なるほど、普通に買い求めればいくら金貨が必要か分からないような紙束でも、先輩にかかれば日用品と大差はないと」
「そこまで褒められたら照れてしまうね」
話しかけた段階では何かに悩んで不機嫌だったカルだが、今では満面の笑みを浮かべている。そろそろ本題に入ろうと、ライラは一見して控えめに感じられるように切り出した。
「……あの、実はご相談に乗って頂きたいことがありますの」
少し伏し目がちに、申し訳なさそうに、それを意識する。
「どうしたのかな?」
「今日会ったばかりの殿方にこんなことを言うのも失礼なのですけれども……私、紙が必要なんですの」
本当に必要としているのはレアだが、そんな事を一々言う義理はない。
「母に手紙を書きたいんですけれども、お恥ずかしながら私の家はそう大きなものではなくて、気軽に紙一枚仕入れる事も出来ないのです」
どうやら話が読めたカルが「ああ……」と言うどうにも判断のし難い言葉を発する。
「だから、もしよろしければで良いのですけど、たった一枚だけ手紙用の紙をお譲り頂けはしないかと……」
リリアは無言で成り行きを眺めている。
うーむと唸って腕を組むカルの面持ちは、あまり険しいものではない。視線を自分の紙束に流し、ライラに移し、ちらりとリリアを見て、また紙を見る。それの繰り返しだ。
おそらく心象は悪くないだろう。相手に気持ちよく自慢話をさせることは、交渉ごとの前段階としては定石だし、今回ライラはそれをうまく出来たと自負している。まさか頭ごなしに突っぱねられるようなことはないだろう。
「……そうだね」
一分ほどの沈黙の後、カルがようやく言葉を返す。
「個人的には、君たちのことを好ましく思っているし、可愛い女の子の頼みなら、男としては答えてあげたいと思うのが人情ってやつなんだよねえ」
リリアが顔を綻ばせる。これで紙が手に入ることを喜んで。
「はい」
しかし、それに対するライラの表情は優れない。ハキハキと返したその言葉も、いまいち力が欠けているように感じられた。
それも当然だ。カルの口調から考えて、言葉がそれで終わらないと言うことを、彼女は確信しているのだから。
「でもね……」
案の定、カルは言葉を続ける。
「個人でなく商人としてなら、何の見返りもなく君たちに贈り物するなんてことはあり得ない。私は、君たちから何らかの利益を得なくてはならない」
その言葉は、考えるまでもなく正論だ。少しでも大きな利を得なくてはならないなんてことは、まさについ今しがた言ったばかりだ。
「利益、ですか……」
ダメ元で、行き当たりばっかりで話しかけたがために、今まで淀みなかったライラの言葉が途切れる。
多くの場合、利益とは金銭のことだが、別にそうでなくてはならないわけではない。信用や恩の貸し借りなんてものは当たり前に行われていることだし、なんなら物々交換でも取引は成立する。むしろ目先の金のみを求める商人は大成しないだろう。
しかし、そこからが問題なのだ。ならばライラは何を差し出せば妥当なのかと言われると、いまいち思い浮かべることができない。ライラのような弱小貴族では、何枚もの紙を贅沢に使えるほどの財力を持つカルに対して、適当な対価を差し出すことができないかもしれない。
金銭という面においては、容易に紙を手に入れられない学園という状況下において、きっと市場の適正価格よりもずっと高価になるだろうというのは想像に難くない。しかし、一体どれくらい上乗せすれば良いか、そこの想定がライラにはできないのだ。下手を打てばカモにされかねない。
ならば信用はどうか。貴族であるライラの信用ならば、対価として事足りるだろうか。
答えは否だ。
信用を対価に添えようにも、ライラの家では紙を大量に消耗しても気に留めないカルの店を贔屓にはできないだろう。大きな店は、相応の大きな商売をするものだ。これから贔屓にできないのなら、ライラの信用に大した価値はない。
恩ならどうだろうか。恩ならば、これから利用しなくとも、なんらかの便宜を図ったりなど利用できる価値は充分にある。
しかしこれも否だろう。立場の弱い貴族がつけられる都合など高が知れている。金の力が強い分、カル自身の方が様々なところに手が届くに違いない。
ならば何か、何ならばカルへの対価として相応しいだろうか。
あれならは、これならばと思考を重ね、ライラはようやく一つの答えを出す。
「仕事、なら如何でしょうか?」
貴族がそんなことをと、祖母に叱られそうな提案ではあるが、今はそれが妥当だろうと、ライラはそれを口にする。
「仕事……?」
カルはどうやら予想外だったらしく、わずかに首をかしげる。
「ダメでしょうか?」
苦笑まじりに、ライラもまた首をかしげる。
正直なところ、深く考えての発言ではない。ダメで元々のつもりで声をかけ、行き当たりばったりのつもりで話しているライラは、この時点でおそらくは断られてしまうだろうと感じている。
たった十三歳の少女が二人、お世辞にも体格が良いとは言えない。むしろ華奢で、見るからに力仕事に向いていない。ライラは淑やかさと優雅さという面では魅力的だが、ともすれば折れてしまいそうなほどの腕の細さだし、まるで小動物のようなリリアは簡単に潰れてしまいそうだ。断る理由としては申し分ない。
だから、今回は諦めて、他の何かを探そうと
レアが手紙を書けるようにと、別の方法を模索しようと
そう思っていた。
——しかし
「良いよ」
カルはわずかな思考の後、にこやかにそう答える。
「手持ちの代わりに体で払うというその考えはおかしなものじゃないし、ちょうど頼みたいことが思い浮かんだ。ライラさんは幸運だ。二週間前だったら全くの用無しだったところだ」
面食らったのは、むしろ言い出したライラの方だ。まさか良い返事がもらえるはずなどないと考えていたのだから。
「ただ、君たちにこちらから要求するのは体じゃない。肉体労働っていうのが得意そうに見えないし」
カルはこめかみを軽く叩き、最後に片目を閉じてこう言った。
「頭を、要求しようと思う」




