彼は挑戦される
三階第二廊下、幾つも立ち並ぶ実習室を素通りして第三棟へ抜けると、その場所の手前から二番目に使われていない教室がある。
かつて、とある教師が研究室代わりに使用していた部屋だが、その教師が引退するに際して放置されていたのだ。
ただ、それも三年前までの話。
現在は三学年に在席するアスト・アイナスが放課後のたびに使用している。入学して三ヶ月ほど経った頃唐突に思い立ち、その行動力で人員をかき集めて当時使用されていなかったこの教室の使用許可を取り付けて始められたのが、つい最近レア・スピエルも訪れた学園公認の賭場だ。
今日も一日の授業に疲れた生徒が、その息抜きとばかりに遊戯にうつつを抜かしている。
実にいつもの光景だ。彼らは資金を吐き出し続け、勝ちと負けを繰り返す中で徐々に膨らんでいく損に気がつかない。小さな勝ちを繰り返しても、元手が取れているとは限らないのだ。
ポーカー、バカラ、ブラックジャック、最近ルーレットも増えた。そのどれもが賑わって、その全てが賭場の収益に貢献している。
自らがカモであるなど全く自覚していないその愚かしくも望ましい者共を見下す時は、それはもう饒舌に尽くし難い快感だ。アスト・アイナスにとって、放課後とはそういった凡夫を眺めて優越感を得る、そんな時間——だった。
「……はぁ」
今日だけで四度目になるため息は、全てこの賭場の光景を眺めてのものだ。かつては高揚したこの景色も、今となっては虚しさの象徴以外の何物でもない。レア・スピエルに敗北して以来、彼の心は昂ぶるのを止めてしまったのだ。
「お客の前で辛気臭い顔をするな」
そう声をかけるのは、護衛のアイギスだ。第三学年の制服に身を包む彼はアストと変わらない年齢であるが、所属は学園側の職員であり、賭場の許可を取る際の条件として出されたのが彼の同伴だ。アストの知りうるところではないが、どうやら定期的に活動報告を上げているらしい。
「……辛気臭いだなんて人聞きの悪い。僕は間違いなく笑顔だったとも」
「それはそれは辛気臭い笑顔だったさ。口と目元は笑っていて、溜め息だけは何度も吐いているんだからな」
アイギスがその鋭い目元をさらに細めてアストを睨む。
実際のところ、アストの表情を見て辛気臭いなどという感想を抱くのはアイギスだけだろう。アストは高位の貴族であり、処世術というものは申し分ないほどに持ち合わせているのだから。むしろそれを看破するアイギスこそ褒められたものなのだが、どうにも彼に誇る様子はない。
「これでも取り繕ってはいるんだけれどね……」
そんな言葉はすでに言い飽きるほど繰り返したものであり、アイギスも言葉を返すことをしない。
そうして再び吐かれた溜め息にアイギスが眉を顰めたところで、ディーラーをしている男の一人がアストに駆け寄ってきた。それはこの賭場の胴元であるアストへ急ぎの報告があるということであり、往々にして良い知らせではない。何よりその後ろにもう一人見覚えのない生徒を連れていたのなら尚更だ。
「アストさん、よろしいですか?」
男はアストよりも上級生だが、貴族として下位であるために敬語を使う。
「……あー、良いよ。うん、まぁ良いよ」
その歯切れの悪さに、思わずアイギスが顔をしかめる。だが、それでも声に出して注意したりしないのは、アストのその心中を深く察したからに他ならない。
またか、と
思い当たる心当たりは、アストとアイギスでおそらくは同じくするものだ。もう良い加減に食傷気味なこのやり取りに飽き飽きするなと言うのは、どうにも酷が過ぎるだろう。
アストとアイギスの視線がディーラーの背後に移る。
「初めましてぇ、宜しくお願いします」
胸元の刺繍を見ると彼が第二学年であることが分かるが、それにしては低い身長は、目を離さなくても容易に人混みに紛れてしまいそうだ。黒い短髪も、暗い色の瞳も、特別に目を惹く要素ではないが、その口調と表情は慇懃無礼で不快感を煽る。アスト自身、本人の預かり知らぬところでレアから軽薄そうであると評されたものではあるが、そのアストですら彼の態度に不愉快になった。もしレアがこの場にいたのなら、その態度に嫌悪感を隠しもしなかったことだろう。
「初めまして、どういった御用件かな?」
貴族であるアストにとって、笑顔を保つのは難しい事ではない。たとえ相手に良くない感情を抱いていても、それを悟られてはならないことなどは日常茶飯事であり、本人も自信を持っている。だから恐らく、そして間違いなく、または十中八九、あるいは確実に、その要件を予測していたとしても、全くおくびにも出すことはない。
相手はそれを知ってか知らずか、その自信に満ちた動作と、同時に他者を軽んじた態度で一歩アストに近付いた。
「私の名前はカルルエル・マイアー。カルと呼んでいただければ幸いです。稀代の統率者たるアスト・アイナス殿のその敏腕を聞きつけ、是非その力の一端を拝見したいと参じた者です」
その言葉は、つまり挑戦がしたいというもの。この賭場の出資者兼統括者であるアストに、大口の賭博を挑みに来たのだ。
アストの予測した通りの要件を説明したカルは、大げさな身振りで頭を下げる。しかしその実、その動作には敬意や礼儀というものが全く含まれておらず、ただ格好として行っているだけだということは明白であった。
「君のような者は先月から数えて四人はいたが、僕はたったの一人も追い返したりしていない。当然、君の事もそのように扱うことにするさ」
アストはカルを手近な卓に着くように促し、自分はその対面に着いた。ディーラーの男に持ち場に戻るように指示をすると、アイギスが代わりにディーラーを務める。
「さて、勝負を受けるにあたって、まずやるべきことは何なのか。当然だがその勝負の内容を決めなくてはならないね」
「まぁ、当然ですね」
クスリと鼻先で笑い、カルは組んでいた足を左右反対に組みなおした。その態度は非常に尊大で、座高差に反して激しく相手を見下している。
「……うちはバカラやポーカーの様な札遊びは勿論、最近ルーレットやクラップスも導入したんだ。好きな物を選んでくれて構わないとも」
「そうですか……」
カルは顎に手を当てて、アストから視線を落して卓上の辺りを泳がせている。大きく唸ったり、大袈裟に腕を組んだり、その行動の一々が芝居がかっており、どうにも好印象とは言えない。レアはアストの事を胡散臭いと評したが、彼女がこの場にいたのならカルの方がそうであると言うに違いない。
程なくしてカルが顔を上げる。
「ならばブラックジャックでどうでしょう」
「勿論構わないとも」
アストは、一見快く了解したかのような返事を心掛ける。実際はどうあれ、カルにはそう見えた筈だ。
「さて、では決め事はこちら側で決めて構わないだろうか?」
「決め事……?」
本来、ディーラーと客との勝負であるブラック・ジャックは客同士の勝負に向いていない。なので、あらかじめ形式を決めておかなければ、勝負自体が成り立たない可能性がある。両者の認識をすり合わせる必要があるのだ。
「うちでは特に変わった独自規則があるわけではないけれどね。札は道化札を除いた山札六つ分の三百十二枚で、スプリットもダブルダウンもインシュランスも禁止していないし、それぞれの行使に制限もない。だけど……」
アストが言葉を区切り、それを合図として卓上に積まれたのは大量のチップだ。ジャラジャラと下品な音を立てて流れるのではなく、一見してその枚数を見て取れるように規則を持って積み上げられている。それはまるで巨大な壁だ。惜しげもなくそれを見せつけるアストと、今まさにその牙城を崩そうとするカルを隔てる、確固たる違いを感じさせる境界線だ。
「240枚ある。これを120枚ずつ手持ちとして、先に倍額にできた方が勝ちとする」
「異論ありません」
カルの返事に小さく頷き、今度は六組のトランプを投げてよこす。未開封の物であり、不正を行っていないことの何よりの証明だ。
「山札にはこの札を使用する。確認をどうぞ」
レアとの一件で不正が露見して以来、名指しで挑まれた勝負では常に新品の物を使用している。そうでなくては信用を得られないのだ。
封を切るのも、道化札を取り除くのもカルに行わせる。互いに山札を混ぜて、さらに山札は特殊な容れ物に入れ、ディーラーですら山札に触れる事はない。一番上の札のみがほんの少しだけ露出しており、その部分を擦ることによって一枚のみ引くことができる。二枚目や一番下の札を引く不正を防止するためだ。
「最低掛け金はチップ三枚。僕たちは常にそれ以上のチップを払わなくてはならない。一度も勝てなければ四十連敗で負けだね」
ブラックジャック
自分とディーラーの手札を比べ、より21に近い方を勝ちとする賭場だ。
客とディーラーは、それぞれ二枚ずつの手札を持った状態で勝負が始まる。この時、札は全て開示されているが、ディーラーのみ片方を伏せて置く。この一枚はディーラーの番まで開示される事はない。
絵札は全て10、Aは11又はそのまま1と数える。
まず客側がディーラーの開示されている手札を見て、札を追加で引くかどうかを決定する。この行為をヒットと呼び、自分の手札が五枚になるまで行うことができる。
もう追加の必要がないと思った時、順番を次に回す。これをスタンドと呼ぶ。
客の順番を全て終えた後に、ディーラーの伏せられていた手札が開示され、ディーラーの番となる。数字の合計が17未満であれば引き、それ以上となった場合に必ず終了する。
自分の持ち点が21を越えている場合、その時点でその客は敗北となる。ディーラーの持ち点が21を越えた場合、その時点で客の勝利となる。この21を越えることをバーストと呼ぶ。
これが一回の勝負。
その他にも、賭け金を倍にするダブルダウン、手札を二つに分けるスプリット、半分の賭け金を保険とするインシュランスなど、特殊な行為も存在するが、基本は勝った場合は賭け金がそのまま利益となるという、一見して単純明快なものだ。
第一回戦。アストはまず、最低賭け金であるチップ3枚で勝負に臨む。
配られたのはスペードの7とスペードのK。その合計は17。アイギスの開示された札がダイヤのJなのでいかんせん心許ないが、失格が怖いので大人しく終了。
アストが行うこの取り決めにおいて、始めの一回に全額を賭してそれに勝てばその時点で勝利となる。しかしそれは極論だ。当然そう上手くはいかない。
賭博なんてものは全て胴元が有利になるようにできている。当然だ。なにせ、利益を上げなくてはならないのだから。
ブラックジャックは、賭博の中でも控除率の低いことで有名な遊戯だが、それでも胴元有利は揺るがない。
その理由は、順番は必ず客から行われるという性質にある。客はバーストした時点でディーラーの結果を待たずして敗北となってしまうが、ディーラーは客の結果を待ってから番を行う。もし、どちらもバーストを避けられない引きであったとしても、先にバーストするのは客なのだ。
いわば、引き分けが全て敗北となる勝負。その一回に全てを賭けるというのは、割に合うとは言い難い。
アストは卓に置かれた自らの手札の上で、手の平を下に向けて小さく手を左右に振る。これが終了の合図だ。順番は回り、次はカルだ。
賭け金はアストと同じ様に最低値。やはり様子見ということだろうか。しかし、手札はハートの2とクラブの9。その合計は僅かに11。何を引いてもバーストとならないこの手札は、早くも今が攻め時だと告げている。
よりにもよって最低賭け金での最高手札。もしブラックジャックが単なるツキによる勝負であったなら、これは悲観すべきところだ。自分の運の無さを悲観し、頭を掻き毟って悔しがるところだ。
——しかし
「ダブルダウン」
カルの声に、特に深い感情は宿っていない。
ダブルダウン
本来、ブラックジャックは手札が五枚になるまで引く権利が与えられているが、ダブルダウンは次の一回しか引かない代わりに賭け金を倍にする取り決めだ。
カルは順番が回った瞬間、ほぼ無時間でこの宣言を行った。対戦相手であるアストを一目もせずに、全くの迷いも見せない。それは一見して、確固たる自信の表れだ。
そして引かれたのはハートの10。これで合計は21。文句なしに最高の引きだ。
「ツイているね」
「…………」
アストは心掛けてにこやかに声を掛けるが、カルは一目したのみで声も返さない。
感じが良いとはとても言えない。それは集中ゆえか、それともまた別か。どちらにせよ、アストの中でカルに対する心情は大きく下降した。
全員の手番が終了し、ディーラーが伏せ札を開く。その数字はスペードの6。合計は16であり、ディーラーはさらに一枚引かなくてはならない。
アストの数字は17で、ディーラーがどんな札を引こうとも上回られてしまうが、それが6以上の数字だったなら21を越えてバーストだ。確率にして約54%。期待値にしては中々だ。
しかし——
「……おっと」
山札からめくられたのはダイヤの2。第一回戦は、カルが6枚のチップを得て、アストが3枚を失う形となった。
「早くも差がつけられてしまったね」
9枚の差。それは240枚という全体から見れば微々たるものに違いないが、しかしアストはそれを楽観できない。この勝負においては、この微々たる差の積み重ねで勝敗が決するのだ。この幸先の悪さに楽観などできるはずもない。
だが
「…………」
アストはカルを見やる。
札をディーラーに投げ返しながらチップを数えるその瞳は、アストを直視していない。
ディーラーが受け取った札をディスカードトレーに入れる。
アストには確信があるのだ。
この勝負、ほぼ負けはない。