彼女は夕食に向かう
いやぁああ!
知らないうちにブクマが増えてるううう!
ポイントも倍以上になってるうううう!!
レア達三人は、授業が終わると早々に引き上げてしまった。
これから混み合わないうちに『ニイチ』で夕食をすませるのだと話しているのが聞こえた。
「大丈夫でしたか?」
そう声をかけてきたのは、学内の友人の中でも一番付き合いの長い栗色の髪をした少女だ。
まるでリスリーの側近のような立ち位置にいる彼女だが、彼女自身も高位の貴族である。そしてそのリスリーを過剰に敬う態度は強制されたものなどではなく、当人の意思によるものだ。
「心配される程の事じゃあないわ。大袈裟よ」
魔法で生成した水で顔を洗い流すと、目を開けるのに不自由は無くなった。
その代わりに外套が濡れてしまったが、目を開けられないまま自室まで戻るよりはマシだろう。
栗髪の少女が気を利かせて手拭いを差し出した。
「……リスリー、さん」
言いにくそうにリスリーを呼ぶ。
精神的に言いにくい事を言うという意味ではなく、癖として、彼女がリスリーをさん付けで呼ぶことに慣れていないためだ。リスリー自身の希望でそう呼ぼうとはするものの、ふとした拍子にリスリー様と口にしてしまう癖は一生治らないだろうと自覚している。
「どうかしたの?」
「私には、レアが何をしたのか分かりませんでした。まさかあいつ程度の魔法でリスリー様が傷つくはずが無いのですから、やはり何らかの卑劣な手を使ったのでしょうか?」
彼女の表情に浮かぶのは怒り。もしそうならばタダではおかないという意志。
その強い感情のためか、リスリーを様付けで呼んでしまっている。
忠誠心。それをそう表現するのは、いささか陳腐だろうか。
たかだか十三の少女が使うには大仰であると笑ってしまうだろうか。
しかし、少女をよく知るリスリーをすれば、やはりこれは忠誠としか表現できない。
だからだ、彼女の怒りが本物であると確信できるのは。
今「レアの不正によって敗北した」と言おうものなら、あの手この手で報復を画策するに違い無い。
だからというわけでは無いが、リスリーは答える前にゆっくりと顔を振った。
「私が迂闊だっただけよ? 考えと行動と実力が至らなかったのよ」
リスリーの目から見て、レアの行動は褒められはしても批判されるような事は一つもなかった。
それは努力を労力と断じる者に嫌悪を抱く反面、創意を行う者を高く評価するリスリーの偽らざる思いだ。
彼女も、これには異を唱える事ができない。
「ならば……」
なので、これは反論では無い。どうしても聞き及ばなくては、翌日まで歯がゆさを残してしまうだろうという質問だ。
「レアは何をしたのでしょうか? 魔法自体に特異な性質は見受けられませんでしたが……」
少女の言葉に、そうだそうだと同意が上がる。
誰一人として、レアの講じた策を看破出来ていないのだ。
これは彼らが不出来であるためでは無い。
現在時点で既に稀代の魔術師としてその名を知られているリスリー・ペル・イスマイルに追従する彼らは、背後で相手を煽ったりクスクスと笑ったりといった、低俗さばかりが取り柄の輩とは訳が違う。
各々が貴族としても、当然魔術師としても一流を名乗るに相応しいだけの教養を持っており、将来を見据えるならば間違いなく国を背負う大役を担う事になるだろう。
そんな彼らを持ってして、レアが何をしたのかは皆目見当もつかない。
彼らの中に魔力を感知する魔法を扱える者はいないが、それでも同学年の(リスリーを除いて)誰よりも優秀であると自負する天才が四人も集まって、仮説の一つも立てられずにいるのだ。
何をどうやっても勝てるはずなどないと、そう思うほどの実力差が二人にはあったはずだ。
しかしその無力な四人に、リスリーは恥じる事など無いのだと考える。そもそもレアの策には特殊な魔法は使われてなどいないのだから、魔法という要因から物事を推し量っている限り気づけるはずなど無いのだ。
だから穏やかに、リスリーは答える。
「彼女が使ったのは石鹸よ」
「石鹸……」
レアは、今朝に汗を流すため湯浴みをしてきたと話していた。それはリスリーの気を逸らすための長話でしかなかったが、嘘で無いのならその時に石鹸をくすねるくらいは容易いだろう。
その石鹸を溶かした水を顔にかけられたなら、当然目に痛みを受ける。水球がどうにも脆弱だと感じたのは、石鹸が混ぜられたことによる表面張力の低下が原因に違いない。パンを作る時に、その生地があまりにも柔らかかったのなら成形には余計な手間がかかってしまうのに似ている。
リスリーはそこまで深く口にする事は無いが、聡明な彼女達は充分に理解できたらしい。
「レア・スピエル。彼女は間違いなくこの学園最弱の劣等生だけれど、揉め手に於いてならとても高い評価を下さざるを得ないわ。それは『実践』で最も重要な要因でありながら、酷く残念な事に授業で評価が出るようなものではないの」
レアの持つ知恵という武器は、魔法のみならず様々な分野で必要となる力ではあるが、魔法の扱い方や定石を学ぶ学園に於いてそれを推し量る事はできない。
これは、学園の落ち度では無い。そもそもどうしてそれが分かろうというのか。まさか頭を割ってその中身を見れば良いということでもない。学園を卒業する頃には誰もが身につける力でありながら、どうしても数値化することができない。
最後に一つため息を吐き、リスリーは帰路につく。今日の授業課程は終了しているので、後は夕食と湯浴みを済ませて就寝だ。
「ああ、そう言えばリスリーさん」
夕食にトマトのリゾットを食べ終えた時、友人の一人がリスリーに声を掛けた。第二属性の魔法を得意とする男子生徒だ。
「少し待ちなさい」
返事をしたのはリスリーではなく、その後ろに追従する少女だ。
リスリーは特に何を言うわけでは無いが、少女は忙しなく動いて桃色の縁取りの杯を用意した。リスリーの愛用の品だ。
現在、食卓に着いているのは(一人リスリーの後ろに立っているので)リスリーを合わせて四人だが、用意された杯はリスリーの分だけだ。
長卓の端で優雅に栗髪の少女の入れた紅茶を飲む姿は、まさしくこの場の支配者であるが、当の本人はそこまで雄々しい意識を持ち合わせてはいない。
リスリーにとっては、ただ友人を部屋に招いて夕食をとっていたに過ぎない。
リスリーの好みを熟知する少女が用意した紅茶は、今までただの一度も外れた事は無い。柑橘系の香りが鼻腔をくすぐり、爽やかな甘味と相まって、それは喉を潤すにとどまらない娯楽だ。
「素晴らしいわ」
意図したわけでなく、無意識下に漏れた呟きは、用意した少女には最大の喜びであった。無言のままに深く首を垂れ、脳内で幾度もリスリーの言葉を反復させる。まさに至福だと、彼女はそう思っている。
「さて、何の話だったかしら?」
一口飲んだ杯を下ろし、ようやく相手をその視界に入れる。
これを傲慢だと言う者は、この場に一人もいない。リスリーにとっては普通のことだし、他はリスリーはそういう行動をとって当然の存在だと思っている。
「あ、いや、大したことでは無いのですが……」
少年は言葉に一呼吸を置く。緊張のためだ。いつも通りの場所の、いつも通りの状況で、いつも通り息を飲んでしまう。
「この前の『代表会』の遣いについてなのですが……」
「……あぁ」
その話は、リスリーにとって思い当たるどころではないくらい記憶に新しい事だ。確かに三日前、代表会の遣いだと言う者に声を掛けられた。その要件は——
「勧誘された時ね」
代表会の人員は常に入れ替えが行われ続けるが、人数は全校でたった七人と決まっている。当然、誰もが学園内でも突出して優秀な生徒ばかりだ。
その勧誘ともなれば、誰の目からも羨望の対象で見られる事は想像に難くない。
それを聞いた者の反応は多様だ。誇らしげに胸を張る者、リスリーならば当然の事だと鼻で笑う者、驚きを隠せない者。
しかし、たった一人だけ思わしくない表情を浮かべている者がいる。
リスリーの背後に控える栗髪の少女だけは、なぜか苦笑いを浮かべているのだ。そう、あの勧誘を受けた時脇に控えていた彼女だけが、リスリーの言葉を聞いている。
「お断りした時の話ね」
結構です、と迷わず言ったリスリーの顔を、確かに彼女だけは見ていたのだ。だから、現在ここにいる中で唯一、何故そんな事をしたのか、という驚愕を受けずにいる。
そんな周りの様子に気にもとめず、リスリーは続ける。
「だって興味ないもの」
平然としたその態度を見るに、それが洒落や冗談などではない事は明らかだ。
しかしどうも、「興味がない」とは。
代表会
学園内で最も優秀な生徒の代名詞であるそれは、普段から「勉学」や「実力」という言葉を多用して自らその努力に励むリスリーの印象によく合うように感じられた。
そうでなくとも、まさか断るという選択が出るなどとは思いもしなかった者達は、何と言えば良いのかと視線を泳がせている。
リスリーは紅茶の香りを楽しみ、もう一度口に運ぶ。その動作は一切の淀みなく洗練されており、リスリーが代表会の事について全くどうでも良い事の証明にも思えた。
「……そうだわ」
誰もが二の句を継げない中、その空気を破ったのはやはりリスリーであった。その呟きは小さなものではあったが、聞き逃した者などただの一人もいはしない。その場の四対の瞳がリスリーを捉え、次に何を言うのかと一様の思いを浮かべている。
一体何がそうなのか。
「代わりの者を推薦しましょう。それなら解決だわ」
それは四人にとって、いや、正確には栗髪の少女以外にとって願ってもない言葉であった。
リスリーの後ろにつく事を自ら選択した彼らは、自ら望んでリスリーよりも高い位置に就こうとはしないが、しかしそれが彼女自身の言葉であるならば話は別だ。それでも自分の芯を曲げようとしない程の忠誠心を持つ者は、この中には一人しかいない。
「……それは一体誰に?」
そう問うたのは、初めに代表会の話を持ちかけた男子生徒だ。言葉の端々から興奮が隠せず、「誰に」と問いながらぜひ自分にという感情がひしひしと伝わってくる。
リスリーはそのガラス細工のように美しい指先で数回机を叩き、「そうねぇ」と周りを見回す。
それは誰を指名するのかを悩んでいるのではなく、自分の考えを言えばどういう反応を取るかという考えての行動だ。その微妙な差異に気がつけるのは、残念ながらこの中に居ない。
そんな時間は長くは続かない。誰に相談する気もなく、既に決定した意志を伝えるかどうかという段階なのだから、引き延ばす意味もなかろうということだ。
リスリー自身にそのつもりはなかったが、口が開いてから声が発せられるまでの間は、周りにとっては息を呑むほどの緊張感であった。自分が選ばれるだろうか。
それとも彼か。
はたまた彼女か。
堂々巡りする思考は、しかしすぐに終わりを告げる。リスリーの一言が紡がれた時点で完結してしまうからだ。
そして発せられる、その名前は——