彼女はご馳走になる
その日最後の鐘がなり、エルセ神秘学園の授業課程初日が終了した。
隣の席の者と、あるいは同室者と今日一日の授業内容について話し合っている生徒が多い中、レアは一人で教科書を睨みつけていた。
熱心に本を読みふけっているわけではない。むしろその逆であり、現在の心中を教員に聞かれれば肩を落とされること必至である。
つまり、なぜこんなことをわざわざ習わなくてはならないのか。
そう思っているのだ。
理論を知らなければ魔法を行使することはできない。馬を初めて見た人間に騎乗せよと言ったところで出来るはずがない。きっと手綱を握る事も分からないだろうから。
故に学ぶのだと、理解はできるのだが。
「だからって……」
知っていれば扱える。そういう訳ではないことは、レアは嫌という程に実感している。
勉学においてなら、レアは同年代よりも得意であると自負しているものの、しかし魔法はからっきしであった。一応扱うことはできるために一般のそれよりはマシであろうと感じはするが、やはり魔法学校という場所においては悪目立ちしてしまうだろう。
今はまだだが、そのうち実技の授業が始まるのだと考えると、眉間によってしまう皺を伸ばすのに苦労する。
ともかくとして、今日一日の授業内容には問題になり得るところはなかった。昨日急に始まった同室者との勉強会でも、実技に関係のない部分、つまり座学についてならそれなりになんとかなることが分かっている。
「レ〜アさん!」
「はい。……ッ!」
機嫌よくかけられた声は不意ではあったが、昨日一日で聞き慣れたものだ。返事は条件反射的にごく自然に発せられた。
しかしまさか後ろから抱きつかれるとなると、義母から幾度となく能面だとからかわれたレアといえども驚いてしまう。
「イヤだわ、レアさん。生返事だけで振り向いてもくれないんですもの」
流れる金糸のような長髪をなびかせていたずらっぽく笑うのは、言うまでもなく同室者のライラ・ルゥジだ。クスクスという笑い方には嫌味の欠片もなく、貴族らしく気品を感じさせる。
「貴族にしてははしたないんじゃないですか?」
レアは意識して落ち着いた声で対応する。それに間違いなく正論だろう。
友人で同性といえど、過度なスキンシップはご法度だろうし、座っているレアに抱きつくために大きく前屈みになっている。とてもではないが上品だとは言えない。
「お堅いことは言いっこなしですわ。だってお友達ですもの!」
元気よく帰ってきた返事は、とても貴族のお嬢様のものではない。
当人が大した家ではないと言っていたが、貴族といえども末端は割とラフなのだろうか。どうでも良いことを考えながら、レアは首に回った腕を手で叩く。
「ギブです、ギブアップ。離してください」
「別に首を絞めている訳ではありませんわ」
笑顔を崩さずにおどけた様子で離れるクラスメイトを、レアは横目で睨む。昨日からずっとこの調子だ。疲れもたまってしまうというものである。
「怖い顔をなさらないで。レアさんはつれませんのね」
しかし、睨まれたライラはというと、そんなことは気にもならないらしい。悠々としたその様子を見て、レアはまた一つため息を落とすのだ。
「そんなことよりもリリアさんを知りませんこと? 折角なのでお茶でもしようと思いましたのに」
そういうライラにつられて周りを見回すが、確かにリリアの姿が見えない。
「授業中は居ましたよね?」
「居ましたわよね?」
三人とも同じクラスだし、同じ部屋だ。居なかったのなら気が付かないはずはない。黙って何処かに行ってしまうほど、何か気に触ることはしていないつもりである。
「居ないのなら仕方ありませんわ。レアさんだけでもいかがです? お昼休みのうちに素敵なカフェを見つけましたの」
このエルセ神秘学園は全寮制であり、生徒は卒業までの五年間、ほとんど校外に出ない。
なので、校内には生活のほとんどを賄えるだけの様々な店が存在する。飲食店もその一つだ。学園側に許可を得た店舗が校内にはいくつかあり、学食の代わりのような役割を担っている。ライラが言っているのはその中の一つだろう。
「ご馳走させて下さいな」
「行きます」
おごってくれるというのなら、答えは考えるまでもない。
人の金で食べる食事は格別だというのはレアの義母の言葉だが、それはレア自身も賛成するところだ。
ライラは貴族間で言えば下の中がせいぜいではあるが、やはり民間の感覚よりも財布の紐が緩い。レアからは考えられないことだが、当人は気にしていないようだし自分もご馳走になれるのだから指摘する気はさらさらない。
「どうです! ここのパンケーキは別格ですわ!」
安上がりだなどとは言うまい。人の好みにケチをつける気などないし、あまり愛想のよくないレアでも空気の読み方が分からない訳ではないのだから。
「このチョコレートケーキが好きです。贔屓にします」
「私もそうしますわ。今度はリリアさんもご一緒に」
第二棟一階に場所を構えるこの店は、レアたちの部屋からも近く申し分ない。
いい位置どりの常として少し混み合うが、それはこの際我慢しようと思う。どれだけいい場所だろうとも、何かに問題があれば人は集まるはずはないのだから。
その点、この店は間違いなく名店だ。
今も多くの生徒が今日の授業について話し合っている。流行の服や宝石の話にならないところが、この学園のこの学園たるところである。
ライラもパンケーキを置いて教科書を取り出している。
そういえば数学が苦手だと言っていたか。それを埋めるための予習復習が欠かせないらしい。
「レアさんは何か分からないところはございまして? 数学以外なら頼ってくれて構いませんわよ!」
自信満々に胸を張るライラには悪いが、今日一日を鑑みて特に思い当たるところはない。
「私が苦手なのは実技ですから。二桁台くらいなら問題ありませんし」
魔法には、その難易度と危険度を鑑みて『等級』というものが与えられる。
レアが言う『二桁台』とは、十等級、十一等級、十二等級のことであり、例えば明かりを灯したり、物を温めたり、逆に冷やしたりといった、安全で簡単な日常生活でよく使うものだ。さすがにその程度なら、レアの実力でも問題なく行使できる。
「それに付加には裏技があります」
付加は物や人に魔法的な属性を与える魔法であり、あまり活用することは無いが、魔力の扱いを覚えるために必ず学ぶ魔法だ。
レアが自分の手を指差す。右手の人差し指にはめられたそれは指輪のようではあるが、あまりにも細いため糸を巻いてあるようにも見える。
「それは何ですの?」
不思議な物体に興味を惹かれたライラは、勉強を一旦脇に置く。いくら真面目といったとしても、年頃の少女は好奇心に敵わないものである。
「魔導具です」
魔導具。それは魔法を込められた道具で、少ない魔力で、あるいは術者の力を全く必要とせずに魔法を行使できるものだ。建物に備え付けられた灯りや、薪を使用しない釜などがこれにあたる。
「これを使うと付加の魔法が自由自在なんです」
これのみに限らず、レアは幾つかの魔導具を所持している。義母からの支給品であり、卒業時点で壊れていないことを条件に借り受けた物だ。
「まあ! すごく便利ですのね」
「あまり言いふらさないでくださいね」
魔導具の補助で授業を受けるのは禁止されているわけではないが、あまり褒められたことではない。きっとどこかに角が立つだろう。それを理解していないだろうライラが、共通の秘密に心を躍らせている。
気分屋で面倒だが、端麗な容姿と合わせてみれば子供っぽくて愛らしいと思う者もいるだろう。レアは思わないが。
「私はそろそろ部屋に帰りますね」
空になった皿とコップをテーブルの端に寄せて席を立つ。食べ終わったのなら、その後のお喋りまでしようという約束はしていない。現金な性格であることはレア自身が最もよく知っている。
「そうですね、リリアさんが帰っていてはひとりぼっちですもの」
人のいいお嬢様は急いで荷物を片付け、レアの後をついていく。
「待ってレアさん。お会計をして来ますわ」
そう言って小走りでかけていくライラだが、レアは立ち止まったりしない。それどころか振り向きさえもしない。しかし気持ち遅めに歩いて、わざと追いつけるようにしている事が、ライラにはよく分かった。
「レアさんってば照れ屋さんですのね」
「意味が分かりかねます」
ライラの発言に適当に返す。
昨日からという短い期間ではあるが、その流れはもはやお決まりになりつつある。ただ、昨日はそこにリリアも混じっていたので、今日はライラが二倍話している形だ。妙なところに適応するのは、年頃の少女ならではのお喋り好きに起因するものだろう。
何にせよ、レアには理解し難いことだ。
止めどなく、という言葉はきっとライラの為にあったのだろうと、レアがそんな下らない事を考えていると、そのライラの話を遮る者が現れた。
「そこ行く可愛いお嬢さん」
そんなキザな言葉で声をかけられて、まさか自分たちだと思わないレアは素通りするところであったが、ライラはそうではなかった。わざわざレアの外套の裾をつかんで引き止める丁寧さである。
「レアさんあの方々、私たちにご用みたいですわ」
場所は寮の一歩手前。男子寮と女子寮の境目に差し掛かる場所だ。
多くの人間が行き来するこの場所でそんな声のかけられ方をされる覚えのないレアは、まさかといった思いで振り返る。しかしその予想とは裏腹に、声を出した本人とはバッチリと目があった。
「無視しないでよお嬢さん」
近づいて来たのは二人組の男だ。胸の校章の色は紫、二学年上を意味している。
話しかけてきたのは黒髪短髪の軽薄そうな男だ。
笑みを絶やさない雰囲気は優しそうだともいえるが、レアは胡散臭さが目立つと思った。近づけばわかるが、どうやら香水をつけているらしい。まさか一般で化粧品を使う者などいないだろうから、おそらくは貴族か大商人の類だろうと当たりをつける。
そしてもう一人は打って変わって一言も喋らない。赤い長髪は後ろで束ねられているものの手入れが行き届いているようには見えず、肌もわずかに荒れているようだ。特に意図してのものではないのだろうが、特徴的なつり目はまるで睨まれているような気分になる。その雰囲気と相まって、固く結ばれている口は今日一日一度も開かれていないと言われても信じてしまいそうだ。雰囲気からして警護の様なものだろうか。
「……何でしょうか」
無意識に警戒をしての口調は、レア自身が思っていたよりも強いものになった。
黒髪の男はそれに対し、気を落とす様子もなく肩をすくめる。
「そう邪険にしないでおくれよ」
その間も口元は笑ったままだ。
レアはこれに反省する。相手は貴族(ではないかという相手)であり、訳もなく敵対的な行動をとるのは避けるべきだ。自分だけならまだしも、木っ端貴族であるライラは相手の一息で吹き飛んでしまうのかもしれないのだから。
相手の怒りに触れなかったのはただの幸運であり、それが何度も続くなどとは考えてはいけない。
それにまだ相手の用件すら聞いていないのだから、過剰な警戒は失礼というものだ。
「邪険になんて、そんな……」
弱気な発言をしたのはレアではなくライラだ。いつも明るいライラが借りてきた猫のようになっている。やはり相手は貴族と見て間違いないのだろう。
「ハッハ、ゴメンよ。意地悪な事を言ったのは僕の方だったね」
男が右手を振る動作は様になっており、これがあと十五年経験を積んだ色男だったならばとても絵になったことだろう。しかし今の時点ではマセた十五歳に過ぎない。
「いやね、大した用事ではないんだけどね。今空き教室で、新入生の歓迎会をやっているのさ。僕らはじゃんけんに負けてしまって、片っ端から新入生に声をかける仕事を押し付けられちゃったってわけ」
嘘だ。レアの眉間にわずかな皺が寄る。
この男は容姿もそこそこ良く、貴族であるのなら圧力面や教養も申し分ない。ならば声かけに最適な人材だ。そこには作為的なものを感じる。
「だから君たちもどうかなって」
まだ軽い疑惑でしかないが、一度疑いだしたならその疑心を払うのは容易ではない。
しかし
「あら、お言葉に甘えさせて頂きますわ」
まさかライラは断れないだろう。相手は(おそらく)上位の貴族だ。特に子供とはいえ女性が男性の言葉を断るというのも、レアにはピンとこないが聞こえが悪いのだろう。相手の男はそれを分かっていて話している。
やっぱり胡散臭いなと、レアはどうにも乗り気にならない。
「それは良かった。二名様ご案内だね」
レアは返事をしていないが、男は当然くるものだと思っているようだ。何か裏がありそうなところなのでライラを一人にするつもりはないが、その図々しさに眉をひそめる。
「ささ、こっちだよ。遅れたけれども、僕は第三学年のアスト。よろしくね」
「存じておりますわ。アイナス男爵家のパーティには何度かお呼ばれしておりますもの」
「おやそうだったか。じゃあ、改めてよろしくね。こっちはアイギス。無愛想だけどいいやつさ」
「あら! じゃあレアさんと一緒ね」
「……心外です」
下らない話をしばらく続け、第三棟の三階に来た。
何かがあるのか、ただの杞憂か。後者ならばそれに越したことはないが、そのつもりだとそうでなかった時に大事だ。
だから、少し心して行こう。