彼女は模倣する
リスリー・ペル・イスマイルという少女は、決して天才などではなかった。
少なくとも本人の中では。
彼女の才能が判明したのは、彼女自身の記憶によれば四歳か五歳の頃だ。
その頃から、イスマイル家六代目当主であるところの彼女の父は熱心に魔法教育に取り組み始めた。
これはイスマイルが魔術師の名門であることとは関係なく、ある程度の貴族ならば当然のことだ。魔術学園に入学させるかは別としても、魔法自体は乗馬と並んで貴族の嗜みなのだから。
故にそれは特別などではない。
魔法とはそもそも、魔素を魔力に『転化』することによって始まる。
普段多忙な父がわざわざ時間を作って自分の相手をしてくれる事が嬉しくて、リスリーは言われた事を非常に従順に行った。
そこにあるのは、褒めて欲しい、喜んで欲しいといった子供らしい感情だけだ。
しかしリスリーは知らなかった。
何故父が驚愕していたのかを。何故母が普段見せないほどに大声をあげていたのかを。
魔術の天才であった父ですら一月の時間を有した『転化』を、わずか三日のうちに成してしまったと言う事がどれほど規格外なのかという事を、彼女は知らずにいたのだ。
誰もが彼女を賞賛し、きっと魔法史に残る偉大なる魔術師になる事を疑わなかった。一般的な魔術師の五年先を学んだとしても、充分な成果を発揮できるだけの才覚が確かにあったのだ。属性別の家庭教師を五人つけ、その誰もが彼女を高く評価した。
だが、リスリーが十歳の時だ。
その日、彼女は違和感を覚えた。
調べ、知り、擦り合わせ、それが気のせいなどではないと分かると、彼女は酷く打ちひしがれてしまった。高い学習能力と理解力によって天才と謳われるリスリーは、その聡明さを持って知ってしまったのだ。
自身の学習が、わずかずつ遅れ始めているという事実に。
決して、断じて、劣り始めているということではない。当然、未だに他の追随を許さない程の鬼才であることは間違いようのない事実なのだが、しかしそれでも、衰えているのではないかという感覚がしてしまうのだ。
もしかしたら、自分は天才などではなかったのかもしれない。
このまま過ごせば、いつの日か凡百の魔術師となってしまうのかもしれない。
あるいは、そのまま何処かで実力が停滞してしまうこともありうるのではないだろうか。
それは非常に恐ろしいことだ。物心ついた時から天才であると期待をかけられ、その期待に応えることを目的として努力してきたリスリーにとって、自らの才覚を疑うということは、あたかも独自性を否定されるような精神的苦痛であった。
その日から、彼女は取り憑かれたように勉学に打ち込む事となる。
ともすれば食事すら忘れ、必要な事以外の時間は全て魔法に費やしていると言って過言ではない。
そして現在、当然のように学年主席の座に着くリスリーの実力は、第三学年と拮抗する程だと言われている。その席は常に羨望の眼差しの先に位置する場所でありながら、かつて他者よりも五年は先を行く才覚を見せていた彼女にはまだ足りない評価であった。
もっと、もっと、努力が足りない。
そんな彼女が、まず間違いなくこの学園内で最も怠惰なレアに目をつけるのは、仕方のない事なのかもしれない。
まさかレアが嫌々入学したなどと夢にも思わないのだから、努力を嫌うその姿勢に一種の嫌悪感を覚えても彼女を責める事などできない。
ただ、まさか自主退学とまで言われてしまうのは予想外であった。なにやら自信ありげだったため見過ごしていたが、本来ならばその場で撤回させるべきだったと後で思い直したくらいだ。
その後どうやらレアは事なきを得たようで安心したのは、親しい友人にすら秘密だ。そのお陰で、「イスマイルの長女は劣等生を見下している」と言う噂が立っている事など、本人は知りもしない。
恐らく、ライラに勝負を挑んだのは、レアに声をかけた事の延長だと思われている事だろう。仕方のない事かも知れないが、その勘違いからの友人の行動は、レア達にとっても当人にとっても不幸であったと言わざるを得ない。
まさかリスリーが、あのイスマイルが、他者の才能に嫉妬して声をかけてしまったなどと思いもしないだろうから。
「何を、しているのかを、聞いているのよ……!」
瞬きもせずにその鋭い視線を友人に飛ばすリスリーは、先程までの淑やかさの欠片も感じられない。
努力を重んじる彼女にとって、友人達の良かれと思ったその行動は、とてもではないが許せる類のものではないのだ。
「え、あ……」
「これは……」
四人の友人達の口々からは困惑が漏れ出る。理解出来ないのだ。まさかリスリーが、この行動で怒りを感じるなどと、思いもしなかったのだ。
「恥を知りなさい!」
努力をと、実力がと、そればかりを重んじてきたリスリーにとって、友人達の行動は許し難いものだ。それは力への信頼を貶め、愚弄する行為に他ならない。
イスマイルの名において、決して見過ごしてはならない冒涜的行為であると。
しかし、
「——その辺で落ち着いてはどうです」
待ったがかかった。
凛としたその声はレアのものだ。
自分は気にしていない。怒るほどのことじゃない。何かを言うならそんなところだろうかと、リスリーは軽い予想を立てる。
なるほど、ライラとの対戦はすでに過ぎたこととしても、確かに今回はレアが先んじたために「未遂」で終わっている。
だが、たとえ対戦相手のレアが許したとしても、リスリーは許すことが出来ない。友人達が行ったのはただ卑怯なだけの行為でなく、リスリーの「名」を、「信頼」を、「信用」を全て裏切る行為だからだ。
リスリーはレアの言葉に更に否定を重ねるつもりで睨みつける。
第三属性:辛—九等級《スプラッシュ》
視線を移しざまにリスリーの視界を制したのは、身の丈を優に覆い隠してしまうほどの白流であった。分厚い水の壁が大量の空気を孕み、向こう側に透けていないのだ。
もしも洪水を経験した者ならば分かるだろう。たかが膝ほどの深さでも、水の流れに何の補助もなしに逆らうのは至難だ。ならば身長を越すほどの激流に、リスリーが咄嗟に取るべき行動は魔法を除いて他に無い。
反射的に左手をかざす。水の動きを制御する魔力に対し、自らの魔力を干渉させるのだ。
レアの魔法なら、たとえ魔導具の使用した上だとしてもその干渉力は平凡以下であり、とてもでは無いが魔法がリスリーに届くことは無い。おそらくは渾身だと思われるその激流も、あっけなく二つに裂け、たったの一滴すらリスリーに触れず後方へ流れていくのだ。
しかし、当然そんなことは百も承知であり、レアは無駄と分かっていてそれを行うほど愚かでも無い。
「——!!」
多量の水の死角に潜んでいたレアは、その裂け目から飛び出し、リスリーの眼前数歩の位置に躍り出た。
第八属性:丁—九等級《軽々》
魔法により身軽になった体は、リスリーの想像を上回る速度での接近を可能にした。
それはほんの少し、たった十数cmでリスリーに手が届く距離であり、魔法と言う超常の力を持つ者であるならば正しく必殺となる間合いだ。それも今回のような、ほぼ不意を打っての接近であるならば、勝負の天秤がどちらに傾いているのかは至って明白である。
ただし——それは両者の実力が拮抗していた場合の話だ。
第八属性:丁—十等級《リペル》
その力場に触れた物を例外なく弾くという魔法。十等級故、大した出力ではない上に強い衝撃を与えるようなものでもないが、十三歳の少女を後退させるには充分な効力を発揮する。それが魔法により体を軽くしていたのならなおさらだ。
まるで羽毛のように柔らかでありながら抗い難い力で宙に舞うレアは、後方五メートル程の位置に危なげなく着地する。
既視感
リスリーはこのたった数秒の攻防に対して、激しい既視感を感じていた。これはまるで、昨日のライラとの試合そのものでは無いか。
魔法による目隠しも、その後の奇襲も、そして奇しくもそれに対するリスリーの対応までもがその細部を同じくしている。そしてそれだけではない。今レアのその状態を見れば、まず間違いなく意図してのものであると断言できる。
レアの口元が弧を描き、左手を無造作にひらひらと揺らしている。それが挑発であることは、当然誰の目にも明白な事実だ。その左手に、水球が維持されていないのだから。
もしリスリーが卑賤の産まれであったとしたら、このとき舌打ちでもしていたかもしれない。それほどの苛立ちだった。
魔術師としての家系としては、王国最高峰の名家であるイスマイルの長子である自分に、まさか見下すような表情を向けるなどあってはならないことだからだ。他の貴族はもとより、王族ですら一目を置く魔術師の血統に対して、礼を欠く者など居てはならないからだ。
無言で、リスリーは後方へ振り返る。
ライラとの対戦と同じように。しかし全く意を逆して。
昨日のこの時は、後方に浮かぶ水球を確認するつもりなどなく、ただ蹴りを放つための回転であったが、今は違う。瞬時にレアの魔力を打ち砕く腹積りだ。
ライラが予想外の健闘を見せたその時まで本気ではなかったあの時と違い、今現在、この瞬間をもってしてすでに手加減のつもりは無い。ほんの数秒もなく勝負は決する。
——が
リスリーの目的である「それ」は、特に何の変哲もなく、さらに隠れるわけでもなく、リスリーの眼前に浮かんでいた。
これを訝しむなと言うのは、むしろ酷というものだ。隠すのならば、視界から外れやすい足元でも頭上でも良かったはずだ。
少なくともそれならば、どれほど迅速に見つけたとしても数瞬の遅れが出る。当然、リスリーならばそれすらも凌駕してレアを下すことなど容易いが、それでもほんの少しの有利を手放してでも成したい思惑というものに、リスリーは思い当たる節がなかった。
だが、やはり——あるいは流石と言うべきか、その予想外の事態にも面食らうことなく、その行動には一分の迷いもなかった。
勝ちを!
そう、確信したリスリーに迷いなど起こるはずは無いのだ。
眼前に浮かぶ泡にも匹敵する脆弱な物体に手を伸ばし、全く難なく握り潰した。手に残るわずかな冷ややかさは勝利の証だ。宙に残る飛沫もやがて地に落ち、魔法とは無関係のただの液体に戻る様がありありと浮かぶ。
そしてそれは覆しがたい現実となる。
——筈だった。
違和感を覚えたのだ、その手に残る感覚に。
刹那が永遠にも引き伸ばされたかのような精神のみの時間の中で、リスリーは確かに感じていた。手に付着しているその液体の、無視しがたい粘性。間違いなくただの水ではないが、手に残る滑りは知らない感覚では無い。
それが何なのか、気がついたのはさらに一瞬遅れてのことだ。
散り散りに砕かれたレアの水球は、もはや形を保つことも出来ない程の損傷であったものの、辛うじてその役割を果たさんと蠢く。
詳細には、ただ落ちるのではなく、リスリーを目掛けて飛来したのである。
当然、その液体に危険性などありはしない。確かにリスリーの不意を打ったために反応することができなかったわけだが、魔力も力を無くし、水量も僅かな飛沫では、顔や服を濡らす程度のことが精一杯だ。細かい制御もできていないため、荒々しく飛来した割にはすぐに勢いが死んで、結局は地に落ちてしまった。
しかし、それは充分な効果を発揮する。
「————!!」
リスリーが叫ぶ。
無傷であり、万全であるにもかかわらず、リスリーは顔を押さえてその場に座り込んだ。周りから様子を伺っていた野次馬やリスリーの取り巻きは、何が起こったのかとざわついている。
ようやくだ。
たった一瞬の遅れではあったが、それは確かに致命的であった。故にようやくなのだ。ようやく、リスリーは手に残る粘性の正体に気がついた。
リスリーが砕いたのは、競技上「破壊した者の勝利」と定められている水球とは違う物であった。それは囮とともに罠を兼ね備え、まんまと引っかかってしまったのだ。実際の水球は、例えばレアの後ろなどに隠されていたのだろう。
『その液体』が顔にかかり、とてもでは無いが目を開いていられない。
魔法の行使において、視界の確保は基本にして最重要な事柄である。
魔術師は現象を正確に想像しなければいけない関係上、実際に起こった現象を目にして無意識下に調整し続けているのだ。暗闇で目の前の物を取ろうとしても上手くいかないように、目を瞑っていた状態ではまっすぐ歩く事すらもままならないように、視界を閉じられた状態では魔法の制御に散漫さが出てしまう。
それは、例え稀代の魔術師たるリスリー・ペル・イスマイルであったとしても避けられるものではない。
そして——
「ぁ……」
魔力が砕ける感覚がした。
暗闇の中で目を開けているのか閉じているのか、手を開いているのか握っているのか、痛覚や触覚に関係しない体感として、自らが操作する水球が形を維持できずに地に落ちた事を正確に認識したのだ。
疑う余地もなく、完全なる敗北であった。




