彼女は無駄話をする
「勝負をしましょう」
レアがリスリーにそう言ったのは、ライラの敗北から二十時間ほどが経過した、ほぼ丸一日後のことであった。
リスリーを挑発するためと、指を差し、腰に手を当て、できる限り不遜な風を心がけた。どうやら取り巻きに対しては覿面だったらしく、何人かが鼻息を荒くして前に歩みだそうとしている。
「あなた……」
「御止めなさい」
そう言ってリスリーが止めなければ、間違いなくレアに手を挙げていただろうという形相だ。
「えー……レア・スピエルさん」
「なんでしょう」
リスリーはと言えば、レアに「身の程をわきまえるように」と言った時とはまるで別人のように落ち着いている。
しかしそれは一見して温和なようだが、間違いなく困惑からくるものだ。
「私は自信過剰でもないし、貴女を見くびってもいないわ。それを前提として言うけれど……」
リスリーは少し迷ったように視線を逸らすが、それも一瞬だ。彼女はハッキリと、確かな口調でこう言った。
「貴女が私に勝てると思っているの?」
意外かも知れないが、リスリーはレアの事を見下してなどいない。少なくとも今は。あまりにも脆弱なレアの魔力に、もしや手を抜いているのではないかと疑いはしたものの、それが誤解であったことは既に判明しているからだ。
しかし、その上でリスリーは思う。レア・スピエルが自分に勝てるはずなどない。その可能性は皆無であると断じることができる。
驕りなどではなく、全てにおいて公平に考えた上で、やはり意図をつかむことはできない。
そしてレアから帰る言葉は
「そうですね」
などという、返事としては曖昧が過ぎるものだ。
「……そうね、貴女がいいなら、相手をしてあげるわ」
僅かな思考の後、リスリーが返したのはそんな言葉だ。一応、特に断る理由はない。
無言で、レアはリスリーに近づく。危害を加えようとしているのではなく、競技開始前の準備として必要なものだ。
互いは両手を前に出し、右手に水の球を形成する。この時、量は2リットルと定められている。左手は相手の水に添えて、自分の魔力を付加する。相手が水球の嵩増しを行わないようにだ。もし魔力の付加されていない液体が混ざったのなら、魔力の濃度も落ちるため判断の材料となる。
「……続きだけれど」
球の形成を終えて、いざ競技開幕といった直前。リスリーからレアに声がかかった。
「話のね、続きなのだけど、なぜ私に挑むのかしら? 貴女が努力家なのは聞いているけれど、とても私には及ばないわ。ただ負けるために挑んできたわけではないんでしょう?」
リスリーは未だ勝負に出る体勢にない。
ほぼ自然体で佇んでいるのみだ。しかしそれがライラの時と同じであることを思えば、それが彼女としての臨戦態勢なのかも知れない。
勝負において充分であると考える状態にあって、なお話を続けようとする考えはレアには理解しがたいものだが、この場は何かの思惑あってか、それとも気まぐれか、会話が好きではない彼女にしては珍しく対応に出た。
「今朝です」
まるで昨日のライラのような体勢で構えるレアが、無表情のままに話し始める。
「日課の走り込みの後、第三棟の湯殿で汗を流している時でした。湯気を見ていて思ったのです」
「……湯気」
リスリーが首をかしげる。
「はい。実際に思い出したのは陽炎という自然現象ですけど」
陽炎
密度の違う空気では光の屈折率が違うため、眼に映る像が揺らめいてしまう。という現象である。同じ原理として、砂漠などの乾燥地帯で発生する蜃気楼は有名な現象だ。
これはと、リスリーが訝しむ。唐突で全く関係性のないように思える内容に、もしかしてはと身構えている。
「湯気と陽炎じゃあ全く違うことですけれど、揺ら揺らというその雰囲気が私に閃きを与えました」
これを主体と、これのみを主体と、それでは根幹に遥か遠いが、思い当たる節なら間違いなくある。
「ライラさんから聞きましたよ。『殺気』が、凄かったんですよねえ?」
「それがどうか……」
したのかしらと、そう言うつもりであったリスリーは、しかし最後まで言葉を紡ぐことはなかった。意図して、レアが遮るように言葉を重ねたからだ。
「偽りであると断じます」
無手の右手で指を差し、一字一句をはっきりと告げた。そこに普段の無表情はなく、不敵で、摑みどころのなく、見る者に一種の魅力を、しかし向けられた者に嫌悪感を抱かせる笑みを浮かべている。
黙するリスリーを無視してレアは続ける。
「ライラさん曰く、寒気がして、視界がわずかに揺らめくほど動揺したそうです。リスリーさんからただよう肌を圧迫するような気迫に圧倒されたとも。……つまらないことですね。そんなことは、わざわざ殺気などという解明不能な概念に頼らずとも——」
そこで入れられた一瞬の間は、次を際立たせるためのもの。
「——魔法で事足りるというのに」
眼は細められるも、ハッキリとリスリーを見据えている。
そこに宿るのは、魔力とも腕力とも異なるものを起源とする「力」だ。正体不明を前にして、リスリーはほんの一瞬、自身すら危うく気がつかないほどではあったがたじろいでしまった。
「わたしにはその種類まで判断つきませんが、あなたはいくつかの魔法を多重に展開し、ライラさんに好ましくない状態を作ろうとしていたのでしょう。肌寒さを感じさせ、視界をわずかに揺らめかせ、体を微弱に圧して、それらは無意識下にしか作用しないほど弱々しいのでしょうが、ほんの少しずつ身体能力を抑えていきます。ならば、きっとそれらを全て考慮したならば、まるで体調不良時のように、全力を出したとしても全霊とはいかないのでしょうね」
それは正しく事実であり、現にあの時ライラの初動は遅れる結果となった。
「そして、いくつかの効果と自己暗示によって、あたかもそれを『殺気』と錯覚してしまうこともあるかもしれません」
暗示、あるいは催眠学といえば、未だこの国に馴染み深いとは言えない分野だが、そのかじり程度ならレアでも憶えがある。
先入観や思い込みによる精神的、物理的な死角を利用する技術は、入学式の翌日にアストとのやり取りで活躍した。
「相手に気がつかれないほどの能力下降。効率的とは言えませんが、高い技術が要求されることでしょう。そしてそれはとても繊細で……とても小賢しいことですよねえ」
なんとも分かりやすい挑発だ。どれほど腕の立つ魔術師であったとしても、だからと言って等級の低い魔法を使わないわけではないように、イスマイルの長子だからと言って、選ぶ戦術を派手にしなければならない理由などない。
「それがどうかしたのかしら」
今度は重なる声はかからない。
「私が貴女にした質問は、何故私に挑むのかということよ。貴女の話が、それに何の関係があるというの?」
人を食うようなレアの態度に対して、リスリーは強い意志を感じさせる声で答える。のらりくらりとした摑みどころのなさも、小馬鹿にした態度も、挑発が目的ならば無意味であると言わざるを得ない。
——しかし
「ありませんよ? 関係なんて」
あっけらかんとはこのことだろう。
極論するなら、挑発はおろか何一つ意味などないのだ。なんなら朝食に使われた食材の話でも、今日は暑くて気が滅入るという感想でもなんでもよかった。むしろ、まだ足りないと思ったのならば、多少強引にでもその話題を差し込んでいたかもしれない。
「お二人の準備が出来たようなので、そろそろ頃合いですね」
「二人?」
レアの発言に、リスリーは思わず周りを確認した。まさか一対一の対峙中に、相手から眼を逸らすなど不注意極まりないが、しかしライラとの試合を見ていればそれもそうおかしなことではないのかもしれない。なにせライラにすら圧倒的であった彼女ならば、レア程度でどうこうできるはずはないのだから。
だから無防備にも首を回す。レアの言葉が何を指すのかを確かめるために。
「————」
二人というのは、何の意外性もなくレアの友人であるライラ・ルゥジとリリア・エルリスのことだ。
その二人はリスリーを見ているでもなく、しかし互いに競技を行っているでもない。ただレアとリスリーに背を向けて、キョロキョロと辺りを確認している。ライラは右に、リリアは左に黒の片眼鏡をしているが、リスリーの記憶ではそれは普段から付けられているものではないはずだ。
二人が何をしているのか、リスリーは理解できなかった。表情に浮かぶのは困惑。二人の視線の先にいるのが何者かなど、気にもしていない様子だ。
それを受けて、レアがため息まじりに補足する。
「警戒ですよ。邪魔者が入らないための」
その直接的な発言に、リスリーもようやく気がついたようだ。ライラとリリアがしきりに眼を動かして凝視している相手が、自らの取り巻きであるということに。
昨日の競技の最後、ライラは後方不注意によって他生徒と接触してしまい、それが敗北の原因となってしまった。それだけならば特に気にするでもない大人数での授業の弊害であり、誰の落ち度でもなく責められる相手など存在はしない。
——しかしだ
それが故意であったなら、それは不正か、少なくとも重大な礼儀違反だ。
「気がつかないとでも思ったのでしょうか? あまりに露骨で、見え見えで、バレバレでしたよ」
あの時、ライラからは死角となって見ることはできなかっただろう。細心の注意を払ってはいたが、そもそも背後からの接近を察知するほどの鋭さを、たかが十三歳の少女が備えているはずもない。
しかし、対戦相手でもない他生徒を執拗に観察し、さらには互いの手に形成された水球にすらも関心を示していないとなれば、せわしなく動いて対戦を行っている授業中において、それは否が応でも目立ってしまう。
リスリーが一目でライラとリリアを見つけることができたように、レアもまた、それを見つけることに苦労はなかった。
ならば、あと行うべきは警戒のみだ。
二人がつけている片眼鏡というのは、レアが持ついくつかの魔導具の一つだ。見た目は黒だが、光の反射によって金色に縁取られているようにも見える特徴的な加工がされている。
魔導具は多くの場合、一見してそれだとわかるほどに装飾過多なものではあるが、この片眼鏡に関しては反射する光の色以外に不可解な点は見られない。強いて挙げるとするならば、そもそも片眼鏡というのが大きな特徴だろうか。
本来は二つで一つとなるこの魔導具の名前は『見通しの眼鏡』。効力は魔力を肉眼で確認することだ。ライラが持つ右側は魔力の指向性を、リリアの持つ左側は魔力の強弱を視認できる。
それぞれ主たる役割は違うが、それは突き詰めれば魔力の変化を察するものだ。相手が魔法を使うか否かという点のみを重視するならば、これ以上は必要ない。
ライラとリリアに対峙している四人は、苦々しげにレアを睨む。しかしそれは無意味なことだ。なにせ魔法を使おうというその挙動は、魔素を魔力に『転化』する段階ですでに二人に知られてしまうのだから。たとえどれほど愚鈍でも、彼女たちはただそれを見過ごすためにそこにいるのではないことくらい把握できる。
「……何を、しているの?」
リスリーが震える声をかける。
ほんの僅か、レアはそれを不思議に思った。リスリーはたとえ不正を行わなくともレアを蹂躙するに足るだけの力を持っているため、たかだか協力者を抑えたところで、それは動揺に足るような出来事にはなりえないのではないかと考えたためだ。そして、そもそも相手に上手を取られたからといって弱気になるような様は、いかにもリスリーらしくない。
「見て分かりませんか? 邪魔者が入らないように警戒してもらっているんです」
その場にいる誰にも分からないくらい僅かに首をかしげながら、レアはすでに発した言葉をさらに嚙み砕く。
当然リスリーに意味が通じていないと思っているわけではなく、挑発を込めて小馬鹿にしているのだ。
「何をしているというの?」
しかしリスリーは、レアの言葉に一切の興味を示さずに言葉を繰り返す。ただし、その言葉は意味合いこそ同じでもそこに込められる感情に違いが生じている。その感情の強さに。
勝負事以外での人の感情というものに疎いレアでも、こうもあからさまでは気付いてしまう。
そして次に放たれる三の句は、それこそ全く隠さず、全く抑えず、もはや初めにあった弱々しい呟きの面影はなく、それこそまさに「絶叫」と呼ぶにふさわしい。
「何を——!」
そう、彼女は叫ぶ。
「何をしているのか!」
自らの意思を、自らの信念を、自らの志を愚弄するその行為を、許しては置けないために。
「説明なさい! 四人とも!」




