彼女は沈黙する
「だ、大丈夫かしら?」
その声は存外に動揺していて、とても今まで尊大な態度を取り続けていたリスリーのものとは思えない。自分の行ったことでありながら、しかし想像以上に炸裂してしまい、まさかライラが転げ飛ぶとは思ってもみなかったのだ。
「…………」
返事一つ返さずに、ライラは立ち上がる。まだ腹部の痛みは鈍く残っている。
なるほどと、ライラはようやく納得を得た。
あまりにもわざとらしい説明口調は、ただ煽るためのものではなかったのだ。ライラを自分の手の届く範囲に呼び出すことこそが目的で、本当はライラの考えを看破した上で発言していたわけではなく、そのほとんどはかけられていた鎌だったのだ。
「貴族として恥ずかしいですわ……」
嘘は方便と言われるくらいに、貴族社会は巧みな話術によって成されている。将来そこで生きる者として、相手に行動を誘導されるなど、屈辱以外の何物でもなかった。
「そう落ち込むことは無いわ。ただの模擬戦よ?」
それはリスリーの真意であり、そして善意に違い無いが、強者という立場からくる発言だ。その言葉でライラが立ち直ることは無い。
「いいえ、私は貴族として貴方よりも下位の存在ですわ。爵位や財力でなく、格というものを今感じましたもの」
ライラは乱れてしまった服を軽くはたく。それで汚れが落ちるとは思えないが、せめて行動だけでもしなくては気が済まなかった。
「それは今更じゃ無い? 貴女の戦い方には、淑やかさが足りないもの」
「ええ、全く、その通りですわ」
貴族としての屈辱も、リスリーの言葉も、間違いなくライラの心を傷つける。他の貴族と対峙したときにいつも感じる劣等感。今知らしめられた力不足。彼女は確かに落ち込んでいる。
しかし、そうでありながら、ライラは笑っていた。
俯いたライラの表情を、リスリーから伺うことは出来ない。ライラが内心ほくそ笑んでいることを、リスリーは知らない。
だからだ。だから、ライラの言葉に、驚かずにはいられなかった。
「せめて魔術師としては勝たなくてはなりませんわ」
という、その言葉には。
「……!」
しかし流石と言うべきか、理解に時間はかけなかった。ライラが手に水球を保持している事を、迅速に確認した。
ライラがリスリーの行動に騙されたのと同じように、リスリーも思い違いをしていたのだ。
ライラは、ただリスリーの水球を狙っていたのでは無い。並行して自らの水球を回収していたのだ。わざわざ反利き腕である左を伸ばしたのも、死角から水球を回収するためだ。
ライラは笑う。
ライラの左手は、わずかにリスリーの水球を削っている。このまま逃げ切ることができれば、ライラの判定勝ちだ。
「強かじゃない……!」
たった数回の攻防だが、初めてライラが優位に立った。リスリーは笑顔を崩さないまでも、その声色から苛立ちを感じられる。
ライラはもう一度、構えをとる。とはいっても、初めに行った左腕を伸ばしたものでも、魔術師の基本姿勢でも無い。攻を完全に捨てた、防御特化だ。
水球の維持は左手では無い。体の前面、へそよりやや高い位置に固定する。それを大きく包むように両腕を伸ばし、体は前傾を意識する。
それを受けて、リスリーの行動は全くの逆であった。
行ったのは攻撃特化。防を一切捨てた、一見して捨て身にも思えるものだ。
両腕を側方へ伸ばし、魔法を待機させる。膝を曲げ、腰を落とし、前傾した上半身は今から飛びかかるという意思を隠そうともしない。
ライラが行った魔術師の戦闘姿勢とも異なる、非常に獰猛な構えだ。そして何よりも、水球をどちらの手にも維持しておらず、ただ頭の高さに浮かべている。
あるいは、その水球はライラに対する餌なのかもしれない。手を伸ばせば届く距離ならば、ともすれば伸ばしてしまうかもしれない。手を伸ばしたのなら、当然防御は疎かになる。それを狙って。
しかし、今のライラに対しては全くの無意味だと断言する。
もしも互いの水球がともに無傷だったなら、防御に専念して逃げ切ったとしても、その結果は引き分けだ。
勝ちをちらつかせることによって好機を生み出すことができるかもしれない。しかし、今は違う。ライラは、無傷でいれば勝てるのだ。目の前に攻撃の好機を見せられたとしても、揺らいだりしない。
まず行うのは魔法の発動。
現状、リスリーがどのような魔法を扱え、使用するのかが不明である以上、確かな最適解は存在しない。なので、ライラに求められる魔法は対応範囲の広いものだ。浅くとも、できる限り広く対応すること。
『我は不引、我は不揺』
第八属性:戊—九等級《金硬》
この授業の開始から始めての詠唱。
発動したのは、自らの体を硬質化させ、衝撃や魔法に対しての耐性を付加するものだ。
第八属性の中でも『強化』あるいは『補助』と呼ばれる魔法は、自らの体に作用する関係上、その現象を想像することが容易であるため、詠唱破棄の難度が低い。
実践においてはほとんど詠唱などされないほどだ。
当然、ライラも無詠唱で発動することができないわけでは無い。しかし、わざわざ敵前で詠唱を行ったのは、ほんの少しでも魔法の効力を上乗せしようという考えのもとだ。
自らの想像を補助し、起こる現象をより強固なものとしようという考えは確かに間違えておらず、ライラの魔法は気休め以上の効力を発揮している。
『駆け』『打て』『響け』
対するリスリーも何らかの魔法を唱えるも、ライラにはそれがどんなものなのか判断がつかない。
詠唱とは現象を想像する際の補助であり、その音節自体に意味があるわけでは無い。もし想像に支障が出ないのならば、自らの創作した言語ですら構わない。
なので、魔法自体に決められた詠唱があるわけでは無いのだ。
呪文を唱えた段階で魔法の効果が見て取れないところを見るに、ライラと同じく強化魔法だろうか。ならばライラには不利だ。自力で負けている以上、同じ土俵での競り合いは愚策に他ならない。
第八属性:丁—九等級《軽々》
今度の魔法は詠唱しない。
発動したのは、地面からの斥力を発生させ、物体の質量を変えないままに重さを軽くする魔法だ。回避、逃走、そのどちらにも対応させた。真正面からの打ち合いを徹底して無視する構えだ。
『揺れよ』『退け』『力の前に』
リスリーは詠唱を続ける。
一歩。
リスリーがその足を前に進める。たった一歩だが、それは力強く、自信に満ちたものだ。
両の腕を大きく広げ、まるで、自らの命が相手に抱かれるような錯覚を起こす。生命の脈動が、その両腕で包まれるとともに動きを止めてしまうような、そんな恐怖に視界が歪む。幻覚などではなく、それははっきりと感じられた。あまりの圧迫感に、ライラは思わず一歩退いた。
おかしいじゃないかと、そう叫びたくなった。
リスリーから感じるほんのわずかな息苦しさがなかったのなら、間違いなく声に出していただろう。これは殺し合いではなく、競技の、それも形式すらほどほどの模擬戦であるにも関わらず、何故そうも殺意とすら表現できる威圧感を放っているのかと。
気味の悪い寒さを感じる。流れる冷や汗を拭うこともできず、リスリーから目をそらすこともできず、止まりそうな息でようやく生唾を飲み込んだ。
その瞬間を見計らっていたのだろうか。気をそらしたわけでは無いが、ほんの少しでも緩んだ瞬間を。どれほど僅かでも、体のどこかに無駄な力が働くその瞬間を。
リスリーはたった一歩でライラの眼前に現れた。ライラの認識を超えた移動は、もはや瞬間移動と何も変わらなく思える。
しかし、辛うじて反応することはできた。移動を見ることは叶わなかったが、それでも水球に伸ばされたその左腕を見逃すことはなかった。
後方へ重心を逸らしつつ、その差し伸ばされた腕を阻むように右手で弾いた。
「——!」
音だ。
初めは、それが何なのかは理解できなかった。
真には形容し難く、低く地を這うような音が、鳴るのではなく響くような、そんな音だと思った。そしてその不可思議なものが、今まさに触れ合ったライラとリスリーの腕から聞こえるのだ。
何なのか。全く分からないまでも、それを考える必要はなかった。なにせ、次の瞬間には判明していたのだから。
「ぅッ……ぁ!」
それは音などではなく『衝撃』だ。リスリーに触れた腕から伝った衝撃が、体を通し音として響いたのだ。
リスリーの左手は、決して力を込めているわけでは無いが、ただ触れただけでライラの腕を弾いた。おそらく、リスリーが発動した付加の魔法だろうと予想する。
その勢いで平衡を崩し、ライラは後方へつんのめってしまう。
これを好機と見たのだろう。
まるで名刀の一閃のような鋭さを持って放たれた蹴撃が、予定調和とでも言うようにライラの水球へと伸びる。
ほんの一瞬の連撃。
瞬きよりも短いその攻防の最後に、リスリーは勝ちを確信した。だが、次の瞬間その表情は崩れることになる。まるで上質な宝石のように煌めく瞳を細め、眉間にはその玉の肌に似合わないしわを寄せる。
ライラの魔力を間違いなく両断するだろうその右足は、しかしそうとはならず空を切ったのだ。
それは、ライラも意図してのことでは無い。二人の行動が重なった為の幸運だ。
《軽々》によって軽くなっていたライラの体は、リリアの魔法で弾かれて後方へと飛ばされたのだ。
しかし、そのままでは追撃を受けて結果は変わらない。背で着地してはならないと、平衡を崩しながらも両手をついて体を大きく回転させる。後方倒立回転跳びと呼ばれる動きだ。何とか着地にも成功し、間髪入れずに後退。
案の定、追撃せんと疾風の如く駆け出したリスリーだが、ライラの対応の早さもあって充分に体勢を立て直す間がある。
紙一重だ。ほんの少し何かがズレていれば、すでに勝敗は決している。だが、たとえ偶然だろうと、紛れだろうと、辛うじて逃れられてはいる。このまま授業時間一杯まで逃げ切ることは、困難ではあっても不可能では無いはずだ。
先程の気迫を受けて、まさか立ち向かおうとなど思わない。リスリーは死に物狂いで果敢に攻めてくるはずだ。何故そうも殺気立っているのかなど知るべくも無いが、正面からぶつかり合って勝ち目など無い。
慎重に、注意深く。それが前提だ。
リスリーの一挙手一投足の一切を見逃すまいと構えるライラには、精神的な隙など一分たりともありはしない。それだけなら、確かにリスリーの猛攻をすべて躱し切ることも無理では無いように思える。
しかし、ライラには見落としがある。
集中しすぎるが故の盲点。注意深いが故の不注意。この広い運動場で、たった一人のみを注視するという迂闊。
「危ない!」
そんなリリアの声もすでに遅く、ことを防ぐには至らない。
リスリーから逃れようと駆け出したライラは、その進行方向にいる人物になど気付きもしなかった。
重さを軽くし、駆け出しているライラは驚くほどの勢いで後方に弾かれる。そう、リスリーのいる方向に。
それを刈り取ることなど、リスリーにとっては羽虫を落とすことにも等しい。まるで鉤爪のように構えられた右手が、完全に無防備なライラの水球を捉えた。ただ撫でられるような接触でありながら、リスリーの魔力にあてられた水の塊は形を保つことができず、溶けるように崩れ落ちる。
ライラの、敗北である。




