彼女は火を燃やす
そもそもなぜ水をかけて炎が消えるのか。
温度が下がるというのも理由であるし、酸素供給が絶たれたためだということもあるだろう。他にも様々な理由が考えられる。
ただ、そのいずれの場合も『魔法の炎』を消すには至らない。炎の維持は魔力によって行われているため、水中ですら燃え続けさせることが可能だ。そもそも水をかける程度で消えるのならば、燃焼物を介さずに火の玉など作れるはずもない。
詰まる所、エイブルには燃える手巾を消火することは出来ないということだ。
「予鈴はまだですが、もう帰っても問題ありませんね」
手巾が完全に灰となり散ってしまう中、エイブルはただ無言でその場に伏している。否定の声が上がらないのを了承の意と捉え、レアは部屋を後にする。
予鈴が鳴ったのはそれから間もなくだ。レアたちは余裕をもって教室へ帰っている頃だが、エイブルはその部屋から動く事はできなかった。
この虚無感は、魔導具を諦めなければならないためではない。この絶望感は、今日の課題を諦めなければならないからではない。断じて。それは自覚している。
しかしプライドの高い彼にとって、後輩の少女に『してやられた』というのは耐え難い事実であった。
「ク……ソ……っ」
ギリギリと歯を食いしばり、レアが出て行った扉を睨みつけながらようやく立ち上がった。悪態をつき、爪が食い込むほどに手を握り、体が力んで小刻みに震えている。
二度目だ。
これほどにうち沈むのは、実に二度目の経験だ。
一度目は、学園に入学した時だ。今まで自分は優秀であると信じて疑わなかったがために、自らに才能がないという事実は初めて受ける屈辱だった。
しかしその経験は、さながら鉄を鍛えるかの如く自分を打ち付けたのだとエイブルは思っている。今まで苦ではないという理由で行っていた努力を、初めて必要に迫られたのだ。
この変化がなければ、自分がようやく覚えた三つの魔法も、おそらくは使えず仕舞いだったに違いない。
そして今回。
驕りはなかった。努力も惜しまなかった。知恵も絞った。その上での敗北。
これが未だ追いつく事の叶わない同級生の誰かであるならば、それは才能の差であると諦めもつくだろう。
より精進しなければと気を引き締めて、他では負けていないと自分を慰めることもできるだろう。だが彼女は入学から二週間しか経っていない一学年の少女だ。
特別優秀でないどころか、魔導具を使わなくては課題も達せられないような、そんな非才の者に敗北したのだ。
エイブルの腹の中に熱いものが湧いてくる。これが怒りという感情であり、これを溢れさせることを憤怒という。
この熱の向かう先は誰か。
問うまでもない。驕りはなくとも油断をし、努力をしても実力はなく、足りない智恵を必死に絞り、それで最善を尽くした気になっている大間抜け。
エイブル・B・アルフ
自分自身に他ならない。
「大丈夫だったでしょうか……」
放課後、無事に課題を済ませて部屋に帰る途中、リリアがポツリと言った。
「何がでしょう?」
「昼の先輩ですよ」
レアはわずかに首をかしげる。たしかエイブルと言ったあの先輩が、一体どうしたというのだろうか。
「自分も放課後に課題があると言っていたじゃありませんか」
それがどうしたのか、などと鈍いことを言うつもりは無い。優しいリリアが、よく知りもしない赤の他人を心配しているのだというのはすぐに分かった。
「でも、私達が気にかけるようなことではありませんわ。大きなお世話ですもの」
レアの意見を先んじて、ライラが発言する。
「助けようなどとして、自分が疎かになってはいけませんわ。何か特別な理由が無いのなら、良く知らない相手を気遣うのは控えるべきです」
「でも……」
リリアはうつむき、それでもわずかに食い下がる。
その感情は分からないでもない。リリアがどんな生まれなのかは知らないが、一般的な『庶民』であるならば、きっと周辺住民との助け合いで生計が立てられているはずだ。
農民だけでも、大工だけでも、漁師だけでも生きていくことは困難だ。村一つが大きな家族であるように、それぞれの役割が存在する。その中で、打算的な理由を抜きにしても、周りを助け周りに助けられ、そうして生活をしてきたはずだ。
そして十三歳の少女の純真な心は、同じ学校に通う生徒を『仲間』であると、そう認識しているらしい。
「はぁ……」
決して愚かというわけではないし、レアとしては、むしろ好ましく思う。だが、それでも魔導具を貸し与えるわけにはいかなかった。これは、レアにとってそれほどのものだ。
「……リリアさん」
できうる限り優しく聞こえるように注意しながら、ゆっくりと声をかける。
デジャブだ。
二週間前に賭博場でも同じことをした。だが、あの時よりも親しくなったためか、今回はレアが怒りを感じていないことが伝わったらしい。リリアは顔を上げ、まっすぐとレアを見つめ返す。
「先輩は大丈夫でしょう。あの人は優秀であると感じました」
その言葉に偽りはなく、全霊の本心だ。
「今回の課題はどうなるか分かりませんが、魔術師として今後どうなるかということに関しては、わたしたちが心配するほどの人物ではありませんよ」
リリアは、そしてライラも、どうやらレアがエイブルを高く評価しているとは想像していなかったらしく、驚愕の表情を浮かべている。
「ウソじゃありませんよ?」
と、念のため。
「おそらく、彼が行使した魔法は九等級の《スプラッシュ》ですが、あれほど威力の弱い《スプラッシュ》は見たことがありません。これはバカにしているのではなく、あえて威力を下げたことを評価しているのです」
魔術師として優秀な人材とは、決して強い波力を持つ者ではない。戦士がただ肉体鍛錬のみに力を入れるわけではないように、魔術師も強大な魔法を撃つためだけに鍛錬を積むわけではないのだ。
「わたしはエイブル先輩がどんな魔法を使えるのかは知りませんが、課題を達成できるのか悩んでいたくらいなので、おそらくそう多くはないのでしょう。その少ない手札を有効に活用しようというのは、魔術師として必要な能力です」
「でも……」
ライラが口を挟む。
「ただ本当に弱かったのかもしれませんよ? あえて力を抑えたのではなく、それが精一杯だったということもありえますわ」
レアは「たしかに」と肯定しつつ、その言葉に反論する。
「それでも変わりません。扱いが完璧でないという理由で選択肢から外してしまわず、自分の精一杯で充分目的を達せられるという判断は、なかなか柔軟であると思います」
ただ力を振るうのではなく、使い方を考え工夫するというのは、当たり前でありながら誰もができるものではない。それができるということは、やはりエイブルは優秀なのだという事だ。
レアは続ける。
「それに、先輩の魔法行使と制御は、わたしから見ても相当のものだと感じました。当然、わたしなど一学年の底辺にいる雑多のようなものですが、そんなわたしですら感じられるほどに洗礼されたものであると、そう思いました」
レアの目に水がかかった時、ローブはほとんど濡れなかった。それは、まるでバケツをひっくり返したかのような水浸しにするよりもはるかに困難な事だ。彼はダーツを的に当てるような正確さで、顔の中のたった一部、レアの眼球を狙い撃ったのだ。
力自慢の傭兵や破落戸でも、自分より二周りも小さな騎士に取り押さえられてしまう。そこに技術が伴わないのなら、子供が駄々をこねているのとなんら変わりない。
当然そんな事は常識であり、このエルセ神秘学園の生徒の中で小手先の技術を軽んじる者などただの一人もいないが、しかしその中でもエイブルの技術は、一般的な学生のそれよりも高く感じられる。
レアが饒舌なためか、ライラが何かに気がついたようにハッとする。
「随分と熱心に観察していますのね」
口元が弧を描き、満面と言わないまでも笑みを浮かべるライラは、レアから見て少し気味が悪い。しかしそれが何を意味しているのか分からず、レアはただ首を傾げた。
その様子を受けてライラが続ける。
「エイブル先輩、かっこよかったですもの」
リリアも察したらしく、ライラと一緒ににこにこと、いやニヤニヤという表情をレアに向け始めた。
まさか、とようやくレアは思い当たる。
あれは確か義母に連れられて雑技を見に行った時の事だ。
ジャグリングに猛獣の火の輪くぐり、一輪車や綱渡りなどの様々な演技を魔法を交えながら魅せる興業は、確かに入場料を取るだけの事はあると子供ながら感心した事を覚えている。
その中でもどうやらカルマと呼ばれている空中ブランコ乗りが花形らしく、その端正な顔立ちから登場時点から会場が黄色い歓声で埋め尽くされた。
その時だ。
レアは義母に「なぜ何かする前から声が上がるのか」と聞いた。義母はどうやらそれがおかしかったらしく、一通り笑った後に「まだまだ色気がないな」と頭を撫でた。
そして確か、舞台へ連れられた時の事だ。
なにぶん幼かったために演目は覚えていないが、貴族と庶民の身分違いの恋を描いたものであったと記憶している。主役の俳優が登場するたびに会場がざわつくのを煩わしいと義母に訴えたら、「女性とは男前を見るたびに声を立てずにいられないのさ」と笑っていた。
いずれの時も、ただはぐらかされたのだと思ったものだが、今思えばあれは真理だったのだろう。年頃の少女が色恋に敏感で、『恋に恋する』などと言われるというのは後になって知った事だが、おそらく義母はその事について言っていたに違いない。
そして、ライラとリリアの二人も同じ事だろう。どうやら勘違いを起こしているが。
「王国有数の商人の長男ですわ。今からでも魔導具を渡してきた方が良いかもしれませんね」
「狙うなら! それが良いと思います」
理解し難い。二人はレアにとってかけがえのない親友であるが、どうにも慣れない事はある。ため息を交えつつ、どうにか誤解を解かねばと口を開く。
が——
「わたしは別に……」
「良いんですのよ照れなくて!」
聞く耳持たれない。
当人を置いてけぼりで話に花を開かせる二人は、非常に楽しそうで愛らしくもあるが、レアの本音を言えば正直「ウザい」の一言に尽きる。
次第に二人の話は過激度を増していき、さらに関係のない話に飛び火して、収拾がつかなくなる。このままでは勘違いをされたまま訂正もままならないと焦ったレアが、どうにか話の方向を修正して誤解を解くまで、実に半刻を有した。




